『日本国紀』読書ノート(19) | こはにわ歴史堂のブログ

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19】日本以外の世界でも、女性が書物を著すのは近代になってからではない。

 

 『源氏物語』は「夫と死別し、その悲しみを忘れるためにこの物語を書き始めた。」(P71)

 

と説明されています。

ただ、『源氏物語』の執筆動機は実はよくわかっていないので、あくまでも説の一つ、と理解しておいてほしいところです。

また、紫式部はもちろん本名ではないのですが、清少納言については誤解をまねきかねない表現で書かれているので正確に補足説明しておきます。

 

「清少納言も彼女の父の清原元輔の『清』の字に役職名である『少納言』を付けただけである。」

 

とありますが、父の清原元輔は少納言の地位にはついていません。

清少納言になぜ「少納言」という名称がついているのか諸説あって不明です。紫式部の「式部」は父の役職と関係がありますが、清少納言の「少納言」は父の役職と関係がありません。

私は諸説の中でも、「宮廷の女官のお遊び」に由来しているのではないかと思っています。

一条天皇の中宮定子。

定子さまを帝にみたてて、定子さまに仕える女官たちが「官位」や「役職」をつけて遊んでいた… 

清少納言は定子の側近くにあって、何やかやと定子の世話をして話相手になっている…

「あなたは、まるで私の『少納言』みたいね。」

と言われていたような気がします。

 

清少納言と紫式部の「仲」についてですが。

 

「二人は才女としてのライバル心に加えて、そうした立場の違いから、仲が悪かったという説もある」(P74)

 

とされていますが、紫式部が清少納言の批判をしているのは史料的に確認(『紫式部日記』の記述)されています。紫式部の身内に対する批判を清少納言がしていたんですね。

ところが、二人の宮仕えの時期は重なっていません。宮中で二人が出会ったりはしていないと思われます。

「仲が悪かったという説」は、紫式部が清少納言を批判している、「紫式部が清少納言を嫌っていた」という説を誤解されての説明ではないでしょうか。

 

さて、『源氏物語』は日本か世界に誇る文学であることは確かですが、だからといって、

 

「日本以外の世界を見渡せば、女性が書物を著すのは近代になってからである。」(P70)

 

というのは誤りです。まして、

 

「中国やヨーロッパでは女性は出産や子育てや男性の快楽のための存在であり、教養や知識を持つどころか、文字を読める人さえ稀であった。」

 

というのは言い過ぎです。

 

文学では、教科書で取り上げられているレベルでも、詩人として古代ギリシアのサッフォーがあげられます。

また、アリストファネスの『女の平和』には、当時の女性たちのたくましい姿が描かれています。

中国の歴史家で『漢書』を著した班固の妹班昭は、中国最初の女性歴史家です。

宋代には庶民文化が栄え、音曲にあわせてうたう「詞」が盛んでした。その作家(詞人)に李清照という女性もいて当時から高く評価されています(確か朱熹も高い評価を与えていました)

教養という面では、古代ローマにヒュパティアという女性の数学・天文学者がいました。

また、ビザンツ帝国には女帝もいて、エウドキア=マクレンポリティサは歴史やその逸話などをまとめた事典を著しています。

 

私などは『源氏物語』を読むと、「女性たちが、男性に支配される立場ではなく、恋愛に関しても対等であった」(P70)とはとても思えない場面ばかりが気になります。

たとえば「帚木」。

紀伊守の屋敷を訪れた源氏が空蝉と一夜をともにする、など当時の貴族の力関係、男女の身分の違いがよくあらわれた一場面…

 

百田氏は、人気作家。小説家の立場から、『源氏物語』の、どの帖のどの場面が、女性が「男性に支配される立場ではなく」対等であることを示しているか、具体例をあげて解説されたら、説得力があったように思います。