【18】遣唐使の停止によって日本独自の文化が生まれたわけではない。
「平安時代の大きな出来事といえば、何といっても遣唐使の廃止である。」(P68)
と説明されています。
かつては、「遣唐使の廃止」で大陸からの文化の流入が止まり、それをきっかけに日本独自の文化が生まれた、と説明されてきました。現在ではこのような説明はしませんし、独自の文化の形成理由としてはむしろ誤りを含んでいます。
一見、この説明はわかりやすいものですし、ツジツマは合っています。しかし、ツジツマが合っていることと、正しいことは別です。
まず、遣唐使の「廃止」という単語は使用せずに、現在では「停止」と説明します。
遣唐使は630年の第一回以後、十数回渡航し、8世紀以降は20年に1回くらいの割合で派遣されていました。この間、派遣を予定しながら「中止」されたことが何回かあります。
894年の菅原道真の建議も中止の提案で、廃止の提言ではありませんでした。
9世紀は東アジア激動の時代で、すでに8世紀後半から外交は、政治的なものから交易中心の関係に移行していました。
東アジアの混乱が日本に波及することを懸念して、日本はここから孤立政策をとったといえます。
遣唐使が中止されてからも中国・朝鮮からの使節は往来しましたし、何より商人の来航は続きます。10世紀後半に宋が中国を統一すると、国交は拒否しましたが交流は盛んになったのです。
ちょう然・成尋などの僧たちのように、「巡礼」の名目で宋に渡り、仏像や経典を持ち帰る者も多く、皇帝に謁見している者もいました。
「この遣唐使の廃止を日本が中国の文化を必要としないという自信の表われであったと見ている。もはや日本は学ぶべきものはすべて学んだ、という意識があったに違いない。」(P69)
とありますが、これは誤解です。
遣唐使の停止は政治的・外交的理由であって文化を必要としない自信の表われなどではありません。
中国の文化に対する貴族の憧れや需要はむしろ高まっていました。
民間の商人からもたらされた大陸の文物は「唐物」と呼ばれて珍重され、貴族たちもたくさん買い求めています。
長年にわたってもたらされていた文化は、日本の風土・習慣などにあるものはなじみ、あるものはなじまず、咀嚼・吸収されて在来文化と解け合い、担い手は貴族という一部の層ではありますが、その後の文化に続く美術・思想・風俗が生まれました。
またP78で説明されている「刀伊の入寇」もこの時代の文化に影響を与えています。刀伊(女真)によって多くの日本人が略奪されて拉致されましたが、実は高麗が奪い返し、日本に送還しているのです。これを機会に高麗との民間交流はいっそうさかんになりました。