『日本国紀』読書ノート(15) | こはにわ歴史堂のブログ

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15】長岡京遷都をめぐる権力争いは明らかにされている。

 

「歴史に現れない権力闘争があったのか、より大きな都を作るためだったのか、理由ははっきりしない」(P63)

 

と説明されていますが、長岡京から平安京への遷都の背景はわりと明らかになっています。

まず、疫病や洪水などの多発(環境考古学の立場からの研究で造営時の森林伐採が原因であるとの指摘もあります)があげられます。水運の良さについても説明もされていますが、それは水害の多さと表裏一体でした。

 

次に藤原種継暗殺に関連した「歴史に現れた権力闘争」があげられます。

桓武天皇は即位とともに弟の早良親王を皇太子としました。

皇太弟、というべきでしょうか。

ところが、藤原種継暗殺事件に関係したと疑われ、早良親王が乙訓寺に幽閉され、淡路への流罪が決定します。

 

東宮の役人、つまり早良親王の側にいた貴族たちも処罰されます。

藤原種継暗殺前に死去していた大伴家持も、東宮の長官(春宮大夫)にあったことから陰謀に深く関わっていた、とされました。死んでいるのに官位剥奪、子どもも流罪にあってしまいます。

早良親王を排除し、桓武天皇の息子(母は藤原乙牟漏)安殿親王を皇太子とするための権力闘争だったと考えられています。

 

早良親王は無実を訴え、ハンガーストライキに出て、淡路に流される前に餓死しました。

さきの疫病や洪水が、早良親王の「祟り」であると考えられ、都が遷都される、ということになったようです。

 

もともと早良親王は、奈良の寺院勢力とつながりが深く(東大寺の良弁とも親しい)政教分離を進めるために長岡京へ遷都することに反対だったのではないか、ともいわれています。

早良親王を推す大伴氏・佐伯氏らの勢力と、安殿親王を押す藤原氏の対立が背景にあった、と考えられています。

「歴史に現れない権力闘争があったのか」と述べられていますが、これを説明していない教科書は現在ではありません。

 

「桓武天皇は①光仁天皇の政策を受け継ぎ、②仏教政治の弊害を改め、③天皇権力を強化するために、784年、平城京から山背国の長岡京に遷都した。しかし、桓武天皇の腹心で長岡京造営を主導した④藤原種継が暗殺される事件が起こり、首謀者とされた⑤皇太子の早良親王(桓武天皇の弟)や大伴氏・佐伯氏の旧豪族が退けられた。」

(山川出版・詳説日本史B・P602017年発行)

 

①~⑤が平安京遷都への背景です。

 

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