ミクロ経済学の力から。
10章ではまとめとして、ミクロ経済学をつかったイデオロギーに対する考察をおこなっている。おこなわれているのは社会主義と資本主義の比較である。ここで筆者は、前者は共同体の論理に基づき、後者は市場の論理に基づき経済運営をおこなうものとして、相対するものとしている。共同体の論理は『思いやりや公共心』に価値を置き、『自己利益に対する反感・嫌悪』を持ち、『競争よりも協調』を重要視する。一方、市場の論理は、『利己心の追求と選択の自由』『フェアな競争』を特徴とするというのが筆者の説明だ。
社会主義の経済政策の主軸が、共同体の論理にあるかどうかはかなり疑わしい。ソ連や中国の社会主義は、革命の首謀者が権力を握るためのものであり、平等な世界を作る等の話は、人々を味方につけて戦力とするための方便に過ぎないからだ。社会主義の経済政策の根幹は計画経済にあるだろう。
競うことや自発性が重要で、それの有無で結果に大きく違いが出ることは言うまでもない。生物が他者を押しのけて自分の子孫を増やすことを本能とすることを考えればそれは当然なことで、人間の集団行動もそこに対立したり矛盾したりするものではない。筆者は、囚人のジレンマからそれを説明しているが、(非金銭的なものも含んだ)インセンティブの欠如で説明つくであろう。さらに言えば、ソ連では不平等が観察され、負のインセンティブとなっていたという話も存在している。
ソ連や、もしくは北朝鮮の非効率は、計画経済にある。計画経済が細部にまで行き届いた計画が不可能であるといったこと以上に、問題は変化する状況に対する対応、意思決定の速度の遅さにあるだろう。市場は、皆の知恵を集束するための上手いやり方と言える。
しかし市場の論理がフェアな競争を特徴とするという表現はいただけない。完全競争は投資の利益を限りなくゼロに近づける。大儲けするコツは市場の失敗を利用することだ。悪意を前提としないシステムは、中国にいいように利用されている(『中国の目覚ましい経済発展にもとになっている』のは『改革開放路線』ではなく、国による極めて計画的な技術窃盗である)。にもかかわらず特徴などと言ってしまうのは(フェアな競争を条件とも言っているが)、完全競争や均衡を前提と考える机上の空論に影響されてしまっていると言えるだろう。(総余剰が最大化するとも言ってしまっていることでも、前提としていることが分かる)