諦めの死と諦められない公共 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

「ずっこけたら死ぬ!」当時スピリッツに連載されていたこの漫画を見ていた時には感じなかったが、大原笑介のずっこけ方を切り取ってみるとかなり無防備に後頭部を床に打ち付ける姿勢である。ちなみに、この頭の上のとんがった波線を武器にして戦うというパロディーもあった。ずっこけるのも命がけなのである(「なぜか笑介」より)

 

 

経世済民、世を治めて、民を救うという考え方を基軸に、皆の活動の土台である公共的なものを支えていく、行けるような世の中にしたいという考え方になって以来、政策の決まり方が決してそういうものを向いておらず、むしろ離れていくことを感じ、それに対して有効にあらがえている感覚もない中、自分一人の力というものの無力さを感じて、どこか諦めの心が宿っているのを感じつつ生きてきたこの数年であるが、平成も30年となり、いよいよその空気が暴走して、抵抗する連中も吹き飛ばされてしまうのではないか、という不安も感じつつあるこの時に、世の中をよくすることとは何かということを考えるための議論のネタを供給し続けてきたと思っていた人のあっけない死というものを知ったのは、日曜のことだったか。

 

ピストルを入手しようとしたり、10月22日の決行を延期したりと、実に社会的に見れば身勝手なやり方で自死を遂げようとしていたという話を公然と語り、そのやり直しの機会に実際に入水(じゅすい)して死ぬというなんとも、「勝手な」ことをあっさりとやってくれるものだ!と生きている方からすれば思ってしまったのは正直な最初の感想であった。

 

もちろん、翌日には大雪が降るぐらいの気温の低下もあった多摩川は、その水質はともかく水温は何の準備もなければ心臓発作も起こしかねない冷たさではあっただろう。おそらく、実行した後には多くの後悔もあったに違いない。まあ、本人ではないのでそのあたりのことは自分に置き換えて考えているので当たっているとは限らないが。


 

死ぬまでに至るまでの身辺整理を行っていたようにしか見えなくなった生前の動画の1つである。PBの大ウソという話を繰り出してはいたが、それでも経済関連の首相には違和感がぬぐえないところもある。税理士自民党参院議員西田昌司も言っていたような「消費税増税はいずれ必要」と説いていたのをなんとなく思い出してしまう物言いだった。思想家ではあったが現代経済学のくびきからは逃れられていないような気がする。ベースとなる言論は影響を残し続けるのだ。

消費税は経世済民にはデメリットしかない。公共のために行う手段として使うのであれば、より害のない別の手段を考えるべきである。

 

公言していたことを集約すると「こんな言論イミネーヨ」という下記のブログの一節も思いいたる。

実際上の動画でも、(PBが嘘であるという)言論がまったく世間に響いていないことを嘆いていた。言論とはそれほど虚しいものなのだろうか。同様に自死した江藤淳にせよ、奥さんに先立たれて一人で生きていくことに耐えられないほどのむなしさがあるのだろうか。

 

そうこのような事故に触れると、弟子である中野剛志が著した経済と国民でフォーカスした、フリードリヒ・リストも世間に自分の言説が受け入れらず、あらゆる言論攻撃をされたことの末に自死してしまった(これはピストルを使ったものだが)ことを想起させられる。

 

 

 

公共をよくして、国民を豊かにする、という一見当たり前のことですら、党の国民たちには理解されないという矛盾は、人間というものが放っておいても人間社会を維持発展することは難しいということを表すのだろうか。平和という人間がその影響力を発揮しやすい場面においては、好況に対する奉仕を忘れ、己だけのために生きようとしてしまうことが最大化されてしまうのだろうか。

 

自分のことだけを考えて生きればいいじゃ~ん。

 

まあ、環境が整っていて、その辺に野垂れ死にがなくて、招集をかけられたり、物資の輸入もままならなくなったり、食うものも食えなくなる時間が長くなったりすることもなければ、そういう適当な、自分の欲望の実現の実を考えていれば、当然、うまく生きることはできる。公共に支えられながら、好況に奉仕しないというのは、公共がよくできすぎているという平和が世界のすべてだと考えてしまうからだろう。

 

男(あるいは、そのような精神)が危機に対して立ち向かう機会もなければ、当然、平常時をうまくやる女(同様)の方がうまく立ち回るのも当然だろう。平和は女が強くなれる時間でもある。しかし、そういう平和を維持することは勝手に起こることではなく、常に「平和維持」していかなければならないのだ。平和維持のための公共への奉仕ということだろう。

 

そのように考えると、公共あるいは、インフラというものがいかに自分たちの「平和」な生活を支えているかが分かろうというものである。しかし、平和が平和すぎて、それを支える公共の存在を忘れてしまうとなると、その世界は崩壊に至るしかない。そのスピードは制御できるかもしれないが。

 

夢であれば、それを繰り返すことが目的であれば無限に続けることもできるかもしれないが、それを支える何かが実は増えて、その饗宴を支える何かがその重圧に耐えているのかもしれない。上記の映画で、繰り返す夢の世界を支えていたのは、繰り返さない世界の演者であった、サブキャストたちだった。

 

2017.10.3 安倍首相は「真の保守」ではない!西部邁氏が迷走政治を一刀両断

 そうした状況下において、いかに平衡を保つかが問われているのです。ドイツの実存主義者であるカール・ヤスパース曰く、「人間は屋根の上に立つ存在」で、油断すればすぐに足を滑らせて転落しかねません。

 もっと極端に言えば、綱渡りのようなもの。1本の綱の上を歩くという危機に満ちた作業こそ、人間が生きていくということです。こうした平衡術は、凡庸な学者が考えた理屈から生み出されるものではありません。歴史という紆余曲折の経験の中から、曲芸師的に対処するための知恵のような感覚、あるいは言葉遣いや振る舞いを習得していくのです。

 常に状況は新しいわけだから、それは処方箋ではあり得ません。対処法を示唆してくれる存在として、伝統というものがある。だから、悪習と良習を区別しながらも、伝統を壊してはならないと考えるのが保守主義です。

難しい舵取りを神経を使ってやらなければならない作業は、その面倒臭さから諦めて、享楽に走ってしまいかねないのであるが、複雑な要因、それも少しの判断の違いで大きく結果が異なっていくという危なっかしい舵取りはやっていかないとどうしようもないのである。

 

ただ、我々は生きなければならない。生きることは、生きる環境を良くしていこうという活動が多くを占めるのではないだろうか。そうしない限り、自死を選んでしまうという選択は大きなものとなってしまう。当然、うつ状態で自死を選んでしまう、というものも含めてのことである。そういう状況作りやすくするのもし難くするのも公共次第だろう。

 

自分は自由にやっているつもりであろうが、そういう考えを持てることも現在ある公共がなしていることである。そして、そんな公共は、獏の夢でも見せられない限りは、限りあるものであり放っておいたり、意図的にげずって行ったりするともろくも崩れ去っていくものである。

 

当たり前のことだと思っていた、日本にはそんなに移民が溢れないということも、この5年ぐらいで近所の風景にイスラム教徒や中国人やベトナム人を見ない日がないぐらいに変貌を遂げているのである。それは、受け入れてしまえば大したことはないように思えるが、見た目以上に生活やそれを支える文化に影響を与えていくのである。彼らも、彼らは異郷の地で、自分たちの文化や生活を守るために必死に活動しているのである。それが既存の日本や郷土の文化と相いれることかどうかなどはお構いなしにである。

 

話せばわかる。

 

話せばわかるかもしれないが、話すためには文化は認識できる差異に収まっている必要がある。それを超えると、違っているかどうかを認知することもできず、相手が文化を持っていることすら理解ができないこととなる。おそらく、この5年で進んだ日本の移民流入の話は、ニュースにはなっていないが大きなインパクトを与えるのだ。

 

若者ほど現政権を支持するという話にも少し通じるものがあるだろう。

経験をしないと、疑似経験でもよいからそれをしないと、存在を認識することができない。

下り坂の日本を支える現政権が最も良い政権だと思ってしまうのは、それ以上の取り組みをする政権のイメージ、あるいは、政策のイメージがわかないのだ。下り坂がデフォルトの感覚。

これは、上り坂のイメージを多少でも知っている人間からするとなんとも虚しい、苦しい状況である。

 

しかし、当人たちは当然そこまで苦しくなく、公共を忘れて、己の享楽を楽しんでいられるうちは下り坂であることすら忘れていられるのである。享楽の足を引っ張るだけの、世界市民系の人々の言うことなどは聞いてられないし、もし聞くとしたら、祭りに参加して享楽するぐらいの感覚なんだろう。いずれも公共というものの意識は失われていることには違いない。

 

しかし現実は、そんな享楽にいそしめる世界を支える、公共の存在があってこそのもので、それは、先人たちが長年をかけて作り上げてきたものなのである。

 

今の技術開発イノベーションと称しているものも、大半はそういう公共として開発された技術を組み合わせて、享楽の時間をできるだけ長くしようとする道具を作り上げることが大半を占めているように思われる。享楽だけに、その実現に時間をかけると文句が出てくる。あるいは、少しでも早く、検証などはなおざりにして、はやく、はやく、はやく!享楽におぼれすぎて結果として死を急ぐ何かに見えてきてしまうのだ。

 

当方はまだ死にたくない。今死んでしまうとやり残したことが多くありすぎる気がするからだ。

10年ぐらい前には、これは自分の意志以外の理由で死んでしまうのではないかと思うような環境に置かれたこともあったが、死ねなかった。純粋に死ぬのが怖いというものもあるが、それはすべて出し尽くした!と全く思えないからだと自分でも思うのだ。まだまだ生きなければいけない。しかも、死ぬときに満足したおもいになるようにするための活動はしつくす(気持ち)ことがおそらく死のうと思う条件になるだろう。経世済民に世の中が近づくことはその要件により近くなることを意味することだと思っている。しょうもない理屈で、議論に勝ったり負けたりすることではないのだ。恨み言を晴らすことだけでは得られないのだ。

 

 

己の生きざまのための公共の復興。自分の身勝手なものの先に公共がそびえ立っていたのである。見るのを忘れているだけで、享楽を演じる自分の足元にもそれは存在している。当たり前のように自分たちを支えている地面すら公共なのだ。