理性を疑え | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

なんとなく感じていながら、そういう感想を表明してよいかどうかと逡巡している中で、ふとした機会で状況がブワッと明らかになる。たまに、そういう状況になることもある。

 

【社会】「コミュニケーション強者」ばかり採用したら会社が大混乱! 口だけ上手くても仕方ない★3

 

この記事は、ようするに、(おそらくIT系の)会社の採用で、【コミュニケーション】を重視した採用をしていると、結果的に技術的な能力よりも口八丁手八丁の連中ばかりとなってしまって、会社がやるべき事業内容がなくなっていってしまった。その反省で、そうでないヒトを採ってはみたが、扱いがわからずにその人材も草らせてしまった・・・という話である。

 

コミュニケーションが大事だよね、それには異存はない話ではあるが、だからといって、そればっかり見た採用をしてよいかといえばそうではないということである。以前、当方のかつての上司は、ちょっと糞のつくまじめな人ではあったが、そのあたりのバランス感覚はあったようで、上記の記事ていうところの、コミュ強者とコミュ障をバランスよく採用しようとしていたことを言っていたことを思い出す。当方自身がどちらかと言うと、後者の部類に近いと思っているが故に、コミュ強者ばかりを贔屓してしまうということはないとは思うが、伝わることと実情は必ずしも一致しないよ、ということは戒めておく必要があるだろう。

 

ネット上のコミュニケーションである、SNSであったり、掲示板であったりするところのやり取りでは、ある種のコミュ強者が、理屈も何もないところで、強引なコミュニケーションで押さえつけて自分の正当性を押し通そうとするということもまま見られる。弁論部だったり、なんとかビジネスで小金持ちになった実業家とかそういう人やそれに類する人たちにその傾向が見られるようにも思う。

 

福田有恒が言ったように、保守の態度としては、理性の判断するところを疑ってその意義を慎重に考えるというものであろうが、まさに、コミュ強者は、自分の理屈を理性として、強くアピールするのに長けている分、自分の下した判断が本当に意義深いものなのかを省みることが少ない、あるいは、する癖がついていないことが往々にしてあるのではないだろうか。

 

社会の空気がなんとなく正しいと思って流される、という態度も、ある意味、そこにある判断が本当に正しいのかどうか省みる機会を逸しているとかんがえられるので、そこは、

 

「理性を疑え」

 

の言葉を思い出して考え直すのもいいのではないだろうか。

 


上記ブログで紹介されている、安倍の真珠湾謝罪訪問につき、理性を推し進めた結果の、戦後レジームの脱却からの戦後レジームの完成という自己矛盾は、それを導く理性を疑わないと気が付けないものである。もはこれ(もはやこれまで)、である。

 

 

 

「理性を疑え」この言葉を書いてみて思い出したことがあった。

 

その昔、当方がようやくのことでサヨク的なものからネトウヨ的な態度にデビュー際(それでも当時はある意味革命的だったのだ)、産経新聞贔屓だったことがあって、

「新聞を疑え」

というその新聞のコピーが気に入っていた。それを知り合いに伝えたときに怪訝な態度を取られたのであるが、疑って状況を省みる態度は良いことではあるが、その行き先も、理性を疑っていなかった新聞でした・・というオチだったのである。

 

「・・・を疑え」といえば、現実の政治では、こんな間抜けな三角関係もあったりする。

【党首討論】蓮舫氏の「息をするようにウソをつく…」発言に、橋下徹氏が批判「バリバリの嘘つきだ」

産經新聞:2016/12/8(木) 12:23配信 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161208-00000518-san-pol 
http://www.sankei.com/politics/news/161208/plt1612080012-n1.html 
 

ここに登場する三人とも「おまいう」、つまり、お前がいうな状態であるのだ。

今の政治家は、どうやら、民をおさめる、という観点もなく支持が大きくなるとあっという間に安閑として、自分の欲望(名誉欲?出世欲?承認願望?)に走ってしまうようである。

 

「政治家は疑え!」

 

である。

 

 

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追伸

 

糸魚川大火、過去20年最悪 強風で拡大…140棟焼き10時間半後に鎮圧 「フェーン現象」の可能性も

 

昨日は、糸魚川で大きな火事があった。強風にあおられて一帯が全焼するという大規模な火災となってしまったのである。こういう自然がもたらす災害というのは、ほとんど起こらないよ、起こっても保険で何とかなるよ、という、インフラの強化に対する根強い不要論が遠因であるともいえるだろう。そのことを気にしていたら、もしかしたらここはやばいかもしれない、と気が付いてそれに対する対策が実行されたかもしれないのである。

 

ヒントがなかったわけではない、阪神淡路大震災の時の長田区の商店街の延焼などを思えば何らかの対策をしておけば、ここまでの広がりを見せなかったのではないかと思うのである。

 

これからやっても遅いかもしれない。しかし、間に合うかもしれない。

保険金は下りて何とかなる部分もあるが、それまで作り上げたものは消えてなくなってしまうのは事実であり、確実に失われるものはある。貨幣経済では、同じものは受け継げないのである。それは、そういう災害を防ぎ断絶が起こらないようにする予防対策をしないと本質的にはダメであることを物語っている。

 

保険金で最初から対応するという考え方はおかしく、

予防に予防を重ねて、それでも起こってしまったことを保険金で補てんする、

 

そういう、主従の関係を理解しないといけないのである。新自由主義的な考え方の根本的な間違いはそこにあるだろう。金融政策>>財政政策、という力点の置き方も同様な傾向がみられる。貨幣という負債の記録より、自分たちが息をして暮らしている実体世界を軽んじているのである。どこまでお花畑な連中だろうか。