一日一禅 | おてらさん

おてらさん

大分にある臨済宗のお寺さんです。

為衆為人

(いしゅういじん)

 

百丈山大智禅師、そのかみ馬祖の侍者とありしより、

入寂のゆふべにいたるまで、1日も為衆為人の勤仕なき日あらず

(行持)

 

『正法眼蔵・行持』の中での道元禅師のことば。

「百丈和尚は出家して馬祖道一禅師に参禅してから、遷化(死亡)する日まで、1日たりとも衆生のため、人のために尽くさない日は無かった。」

行持の巻は「いまの行持」がなにより肝要と、修行の意味を深く、鋭く論究した巻です。

為衆為人とは、もっと簡単に言えば「世のため人のため」ということ。

百丈懐海禅師と言えば、馬祖道一禅師の法を嗣ぎ、『百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)』を定めて、禅の修行体制を作った方。

『碧巌録』にも度々登場なさっていて、「1日為さざれば1日食らわず」という名言も残されています。

ではなぜ、禅師は遷化するまで「世のため人のため」に勤め尽くすことができたのだろう。

 

道元禅師はこう説かれている。

「自らの強為にあらず、他の強為にあらず、不曾染汚(ふぞうぜんな)の行持なり」

つまり自分で無理をしてやったわけではなく、他人から強制されたわけでもない、損得勘定の無い純粋な行いだったということ。

 

実は以前、「不曾染汚」で一日一禅の記事を書いていたのだけれど、最近、玄侑宗久師の講演で「白隠禅師は生涯に1万点以上の書や画を遺したが、それは大変な事だったろうけれど、大変ではなかった、楽しかった」という言葉を聞きまして、なんとなく思い出した次第。

 

為衆為人は僧侶の勤めだと思うけれど、社会で働く人にも言えることではないかなと思う。

世のため人のために役立つ仕事だからこそ、その仕事に「やりがい」が見いだせる。

それが不曾染汚であるならば、きっと一生楽しく続けられることでしょう。

 

為衆為人に生きる。

きっと楽しい。

 

 

 


にほんブログ村