第1500作目・『ゴジラ』 | 【発掘キネマ】〜オススメ映画でじっくり考察 ☆ネタバレあり☆

【発掘キネマ】〜オススメ映画でじっくり考察 ☆ネタバレあり☆

いつの時代も名作は色褪せません。
ジャンル、時代いっさい問わず、オススメ映画をピックアップ。
映画で人生を考察してみました。
【注意】
・ネタバレあり
・通番は個人的な指標です。
・解説、感想は個人の見解のため、ご理解下さい。

『ゴジラ』

(1954年・日本)

〈ジャンル〉SF/特撮




~オススメ値~

★★★★☆

・世界に誇る日本の怪獣映画の頂点にして原点。

・戦後間もなく本作を世界に発信した作り手側の思いを感じる。

・「ゴジラ」が世界にウケなくなる時を目指して。


(オススメ値の基準)

★1つ…一度は見たい

★2つ…良作だと思う

★3つ…ぜひ人にオススメしたい

★4つ…かなりオススメ!

★5つ…人生の一本、殿堂入り

〜オススメ対象外は月毎の「ざっと書き」にて紹介



〈〈以下、ネタバレ注意!!〉〉



《あらすじ》


『小笠原諸島近海において連続して貨物船の沈没事故が発生。救助に向かった近海の漁船も次々と消息を絶った。生存者の証言では原因不明の何かにやられたことだけが明らかになっており、大戸島の住民たちは古来から伝わる海の生物「ゴジラ」の仕業であると噂した。ある夜、暴風雨と共に何かが大戸島を襲撃。村は荒れ果て、後日派遣された調査団たちは島から大量の放射線と巨大な生物の足跡を発見した。古生物学者の山根博士は絶滅したはずの三葉虫を発見して驚くが、その直後、島の向こう側からゴジラと呼ばれた巨大生物が姿を現した。その後も被害を拡大するゴジラを認識した日本政府は爆雷攻撃で鎮圧する計画を遂行するが、山根教授は古生物学者としてゴジラが殺されるのに抵抗を感じていた。だが、度重なる水爆実験の煽りを受けて姿を現したとされるゴジラの屈強な体は並の兵器では太刀打ちできなかった。山根教授の娘、恵美子の恋人である汽船会社所長の尾形は、恵美子の元婚約者である芹沢博士が秘密裏に武器を開発しているという情報を得た。尾形と恵美子は芹沢博士に説得に伺うが、戦争で人間不信になっている博士は二人の説得に応じなかった。やがてゴジラは東京にも出現、甚大な被害を及ぼす。』


〜ゴジラか、科学兵器か、驚異と戦慄の一大攻防戦!〜


《監督》本多猪四郎

(「太平洋の鷲」「モスラ」「キングコング対ゴジラ」)

《脚本》村田武雄、本多猪四郎

《出演》宝田明、河内桃子、平田昭彦、志村喬、村上冬樹、堺左千夫、小川虎之助、岡部正、山本廉、手塚勝己、ほか






【悲劇は海からもたらされる】

これが、伝説の始まり。
これが、世界を代表する日本の"ゴジラ"の第一歩目。そしてこれが、日本の怪獣映画の原点でもある。
あらゆる面で時代を作り出した名作だ。

キラキラ祝、通算1500作目到達!!キラキラ
お祝いショートケーキ星お祝い

毎度お馴染み、大台記念は映画史に残る名作からのチョイスである。
今回は日本の、いや世界に怪獣映画というジャンルを切り拓いた本作を鑑賞した。

先日、山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』が第96回アカデミー賞でアジア初の視覚効果賞を受賞した
日本の怪獣映画の原点となる「ゴジラ」シリーズの最新作かつ生誕70周年のアニバーサリー作品において、世界的に評価され、歴史に名を残すことになるという大きな偉業である。
そして今もなお、ハリウッド作品でゴジラを描いた怪獣映画が公開されている。日本だけに留まらず、世界から愛される「ゴジラ」という巨大生物。
このタイミングだからこそ、その原点に立ち返ってみた。
時は1954年、まだ戦後10年も経ってない頃の作品である。

船舶が次々に沈没する事故が発生。事件の全容が掴めない中、今度は沖合にある大戸島という小さな島に巨大生物が姿を現した。
大戸島の古来からある伝説から「ゴジラ」と名付けられたその生物は、やがて東京に向かって上陸を始めるのだ。

監督は本多猪四郎、その後「モスラ」なども手掛けていく当時の怪獣映画を引っ張っていく一人である。
さらに特殊技術担当に名を並べるのは、あの円谷英二である。そもそも彼がいたからこそ、「ゴジラ」は実現に向けて動き出したと言えるらしい。

俳優陣は古生物学者の山根博士を演じた往年の名優、志村喬なども安定した存在感を感じるのだが、なんといっても若き宝田明が初主演を飾った初々しい演技が魅力的ではないか。
当時まだ特撮作品に対する経験値は俳優陣にも多くなかったらしく、そもそも未知の怪獣ゴジラを想像することすら困難だったようだ。今のようにその場でCG合成してイメージを湧かせることもできない。
そこには存在していないけれども、50メートルもある大怪獣を見上げながら演技をするというのは、きっとかなりの想像力を駆使したことと思われる。

また、昔の映画にありがちな冗長なシーンなどはなく、思いの外、テンポ良くシーンが展開されていたことには驚いた。70年経った今の感覚で見ても、決して退屈しないスピーディな怪獣映画であったのだ。
海での異変、大戸島の災害、国全体への社会問題化と、次々に事態が拡大していく。
加えて、思っていたよりも町の破壊シーンが多いのも興奮した。この当時の技術だからそれほど破壊シーンはないものかと思っていたが、精巧に作られたミニチュアは惜しげもなく破壊され、特殊技術によって、あの手この手でふんだんに建物破壊を演出してくれていた
何も知らずに町に近づく電車はゴジラに踏み潰され、ネオン輝く銀座の町は徹底的に破壊されてしまう。
実に圧巻のゴジラによる破壊シーンですが、きっと戦後10年と経たない当時は、まだ忌々しい戦争の記憶も新しく、東京大空襲を彷彿とさせる焼け野原の出現に心から戦慄する場面だったのではないだろうか

ゴジラは海からやって来る
ゴジラはジュラ紀の生き残りの生物だ。大戸島に残した巨大なゴジラの足跡から絶滅したはずの三葉虫が発見されたように、ゴジラや三葉虫など、深海には人類が現代に至るまで未だ見つけられていない穴ぐらや、生物が存在しているのかもしれない
古生物学者、山根教授の見解によれば海底に安住して生き延びていたところを度重なる水爆実験によって安住の地を破壊されたため、姿を現し始めたという説が有力となっている。

更にゴジラは放射能を存分に浴びているため、彼が歩く先々は放射能汚染がもたらされてしまう
水爆実験という当時のホットな時事問題を作品のテーマに組み込んだことは有名な話だが、思っていた以上にストレートにメッセージが主張されていた
二度の原爆で深い悲しみと傷を負った日本人は、それでも水爆実験を始めた当時の諸外国に対して悔しさと怒りを感じたに違いない
映画の作り手側がいかにこの作品で、反核メッセージを世界に送りたかったのかが伝わって来る。

国会では博士の報告を受けて、水爆実験がもたらした怪獣だと公表するのは国際問題に発展するではないかと主張する政治家と、事実は事実として公表すべしとする政治家で分かれ、国会は紛糾していた。
今も昔も政治家の目線は政治にしかなく、目の前に迫った国民の危機ではないのだと感じる一コマなのだが、やはりこの時点で気付くことは、島国日本において多くの悲劇は海側からもたらされるということである。
津波も戦争も、海側から災禍がやって来る。ゴジラもまた海の底から現れた。
そうなった場合、まず先に、漁船や沖合の島が悲劇に見舞われるのだ。原因不明の謎の沈没事故が多発し、陸地にいる人々は何が起きたのかと不信感を高める一方で、漁港に住む住民たちは船乗りだった家族が消息を断ち、既に悲しみに暮れているのだ。
海に出ている人々に異変が起きると言うことが、凶事の始まりなのだ。陸地の人々はその予兆に気付かなかければならない。
海で何かが起きた時、じきに陸地にも悲劇が起きる。政治家たちが紛糾している場合ではなく、自然災害や戦争のように、じきに陸地に同様の災禍がもたらされると想像しなければならないのだ。

やがてゴジラは予期していたとおり、品川や港区など海辺の近くから上陸し、東京に破壊をもたらし始めた。
まだこの当時、人々の中には戦争の記憶が真新しく残っている時代である。
電車の中でゴジラの到来を恐れていた女性は長崎の原爆から生きながらえた生存者だと語っていた。後にキーパーソンとなる芹沢博士も戦争で心身ともに傷を負っている。戦争で人間不信となり、今は自宅の地下で人と接触することを避けながら密かに研究を進めている。
ゴジラの攻撃を受けて絶望した母親が、崩壊する銀座の町の中でうずくまりながら小さな子供たちを抱えて「もうすぐお父ちゃんの側に行くのよ」と嘆いているのは、何気ないシーンだがとても心を引き裂くシーンだった。きっと父親は戦争で亡くなってしまったのだろう。戦後間もないこの当時の台詞だからこそ、虚飾なく生々しく感じる
そもそも放射能や被曝といった問題が、まだ原爆投下から10年も経っていない日本にとっては大いなる脅威だったわけだ。

ちなみに、ゴジラがかじりつく最後の最後まで生中継していた記者たちは倒壊する建物と同時に「皆さんさようなら」と放送して亡くなった。
『ゴジラ-1.0』でもオマージュされていた演出であり、先日アカデミー賞を受賞した『ゴジラ-1.0』にはオリジナル版の本作の要素が多分に含まれていたのだと改めて感じさせられた。



【平和へと至る世界の歩み】

ゴジラが町に初めて上陸した時、最初、人々は高台にあがって、ただ恐怖に慄きながら、目の前の災厄を見守ることしかできなかった
自然災害の惨事を目の当たりにした時と同じで、ゴジラは人間には手出しができない存在なのだ。
高熱波によって燃え盛る街並みに浮かぶゴジラのシルエットがあまりにも禍々しい。火の海となる街を目の前にして、住民たちは「ちくしょう」と悔しがっている。何も手足が出せない虚しさに打ちひしがれているのだ。
そして生まれる被災者や孤児たち。野戦病院のように被災者たちが担ぎ込まれる中で、母親が亡くなって泣き叫ぶ小さな女の子の泣き声がとても虚しく響いていた
戦禍に巻き込まれる何の罪もない市井の人々の悲痛な叫びを描き、世界に発信している
戦争の記憶が薄れることなく残っていた当時だからこそ、俳優たちの再び傷を負って悲しみに暮れる演技がリアルに感じられるし、作中からは明らかに戦争に対する怒りと悲しみの声を感じさせられる

現代の感覚ならこれだけの火の海になったらもう町は、人は、立ち直れないと思ってしまうかもしれない。
ただ、当時は東京大空襲からわずか10年で街をあそこまで復興させたという自負もあった。きっと虚しさと悔しさに見舞われる中にも、また立ちあがろうとする強さもあったのではないだろうか。

それだけの苦しみを目の当たりにする中で、山根博士の娘の恵美子はゴジラを倒す唯一の希望として、芹沢博士が極秘に進めていた研究に目をつける。そして、ゴジラによるこれ以上の惨劇を防ごうと立ち向かうのだ。
ゴジラという大いなる脅威、それは核兵器を伴った戦争そのものの象徴だが、それだけの脅威をもってしても人間は諦めずに立ち向かうことができる。そんな強い意志を感じる展開である。
やられっぱなしではなく、必ずこの危難を乗り越えてやろうという強い意志だ。

恵美子は芹沢博士に研究の成果を公表し、ゴジラ討伐を実施しようと説得するのだが、人間不信になっている芹沢博士はなかなか公表を受け入れられない。
脅威的な破壊兵器を開発するのはいつも科学者で、芹沢博士は純粋な研究を破壊兵器として使用される苦悩を抱えているというのが、本作におけるもう一つのドラマである。
原爆、水爆と科学兵器の脅威を目の当たりにしてきた芹沢博士は、それに匹敵する新たな兵器、「オキシジェン・デストロイヤー」の公表を拒み続けるのだ。

オキシジェン・デストロイヤーは水中の酸素を徹底的に破壊し、生物を骨ごと溶かしてしまう威力がある。
恵美子がその実験を見させてもらった時、水槽内の魚たちが一瞬にして骨と化し、そのまま溶けて消失してしまった。
これが世間に公表されれば、諸外国に新たな兵器として悪用される可能性の高い恐ろしい研究なのだ。

研究成果が戦争や武力として使用されるということは、博士にとって研究の死を意味している
それでも市井の人々の悲劇を目の当たりにした恵美子や緒形らの説得に根負けした芹沢博士は、故にゴジラ討伐一度にのみ使用を許可し、長年の研究成果をすべて燃やしてしまうのだ。決してその後世界がこの脅威に飛びつかないように。
更に芹沢博士は水中での使用に伴って、自らの命を差し出す覚悟を示す。オキシジェン・デストロイヤーを使用する際、自らも海中に潜って確実にゴジラを仕留めようと言うのだ。
それ以前に芹沢博士はたとえ資料を滅しても自分の頭の中にはアイデアが残ってしまうと言っていた。
芹沢博士の決断は、自分の死を持って兵器の再開発を防ごうという自己犠牲の精神なのだ。

1954年の本作においては芹沢博士は自らの死をもって兵器による悲劇の繰り返しを防いだ。
『ゴジラ-1.0』において主人公の敷島も自らの死をもってゴジラを倒そうとしていたが、その決断は最後に「生きよう」という決断に翻っていた
オリジナル版の着地点とは全く真反対の着地点に変えていたわけだが、そのどちらも時代の価値観を反映した着地点なのかもしれないと感じさせられる。
この当時、自己犠牲は人間が生き様を示す尊い選択の一つであったとも言える。

ゴジラ討伐は成功し、ジュラ紀から蘇った怪獣は骨ごと溶かされた。
ゴジラ討伐によって歓喜に包まれるはずなのだが、ラストシーンは少し静かで寂しい展開である。
きっと何も知らない陸地の人々は歓喜に包まれ、事実を知る者たちだけが芹沢博士に対する追悼の思いを海に捧げていたのだと思う。

そんな中、山根博士は最後に「あのゴジラが最後の1匹だと思えない」と不穏な一言を呟く。水爆実験が繰り返されれば、ゴジラは再び現れることを示唆するのだ。
不吉な予言だが、その予言があったからこそ、その後もゴジラ作品は続き、日本が世界に誇る伝説的シリーズとなったと言えよう。

「ゴジラ」シリーズがこの世界でウケなくなった時、すなわち不要となった時というのは、世界が核武装を放棄して平和になった時なのだ。
その時が来るまでは、山根博士の予言のとおり、新たな脅威が繰り返されていくのかもしれない。
ゴジラの歩みは、平和へと至る世界の歩みと言える。

日本のゴジラが世界のゴジラとなった今こそ、本作の原点に立ち返り、当時の日本人が発信していた警鐘を伝え続けてほしいと感じた。

(97分)