第1488作目・『誰も知らない』 | 【発掘キネマ】〜オススメ映画でじっくり考察 ☆ネタバレあり☆

【発掘キネマ】〜オススメ映画でじっくり考察 ☆ネタバレあり☆

いつの時代も名作は色褪せません。
ジャンル、時代いっさい問わず、オススメ映画をピックアップ。
映画で人生を考察してみました。
【注意】
・ネタバレあり
・通番は個人的な指標です。
・解説、感想は個人の見解のため、ご理解下さい。

『誰も知らない』

(2004年・日本)

〈ジャンル〉ドラマ



~オススメ値~

★★★☆☆

・実際の事件を基に作られた衝撃のストーリー。

・主演の柳楽優弥はカンヌで最優秀主演男優賞を受賞。

・勧善懲悪は描かないから様々な視点で考えさせられる。


(オススメ値の基準)

★1つ…一度は見たい

★2つ…良作だと思う

★3つ…ぜひ人にオススメしたい

★4つ…かなりオススメ!

★5つ…人生の一本、殿堂入り

〜オススメ対象外は月毎の「ざっと書き」にて紹介



〈〈以下、ネタバレ注意!!〉〉



《あらすじ》


『首都圏のとあるアパートに5人家族が引っ越してきた。近所の挨拶に伺ったのは、母親の福島けい子と長男の明のみ。あとの3人の子供達はスーツケースの中に隠れるなどして入居した。子供達は皆、父親が異なり、出生届の出されていない無戸籍児童だったのだ。前の住居を追い出された一家は、子供が少ないと装って入居したのである。昼夜問わず留守にしがちな母親に代わって、長男の明と長女の京子が家事全般を担っており、居ないことになっている京子、幼い次男の茂と次女のゆきは家から出ることを禁じられていた。ある日、けい子は当面の生活費だけを置いて突然家からいなくなった。明だけはけい子が新しい男の元に身を寄せに行ったことを知っていたが、文句も言わずに子供達の面倒を見るのだった。家賃や光熱費でお金がなくなると、異なる父親たちを巡って生活費を援助してもらう。けい子が一時的に帰宅した時、明は身勝手な行動を責めるのだが、けい子は不貞腐れて聞く耳を持たなかった。やがて、戻ってくると言っていたクリスマスを過ぎても母親は帰って来ず、末っ子のゆきは寂しさから母親が帰るのを駅前で待ちたいと拗ねるようになった。やがて春が近付く頃、明は街中で知り合った同年代の少年たちを自宅へ連れ込むようになる。


〜生きているのは、おとなだけですか。〜


《監督》是枝裕和

(「そして父になる」「万引き家族」「怪物」)

《脚本》是枝裕和

《出演》柳楽優弥、北浦愛、木村飛影、清水萌々子、韓英恵、YOU、平泉成、加瀬亮、タテタカコ、寺島進、木村祐一、遠藤憲一、ほか





【無邪気に暮らす子供たち】

公開当時からその存在は知ってはいたけど、レンタルショップでも地上波放送でもずっと見るのを避け続けて、気付けばいい大人になっていた。
「誰も知らない」というか、知ってはいけない、知ったら元には戻れないって分かっていたから避けていた気がする。

今や日本が誇る監督となった是枝監督の作品。
主演の柳楽優弥は本作で注目され、カンヌで最優秀主演男優賞を受賞した。今でも立派な演技派俳優であるが、当時からその才能と大人びた雰囲気はキラリと光っている
柳楽優弥を始め、子役たちの演技がとにかくリアル。実際、是枝監督は台本に縛られずにアドリブ的に彼らに演技を求めていたらしい。子役の想定外のやり取りがあるから、会話に自然と笑いが起こり、感情が生まれている
柳楽優弥も作中で声変わりをしてしまうのだが、それもまた実際の時間の経過と作中での時間の経過が自然に重なって違和感を感じない
むしろ、声変わりを迎えたこと自体が一つの奇跡的な演出にすら感じるのだ。

出生届の出されていない無戸籍児が母親からの育児放棄にあい、兄妹だけで何ヶ月も暮らしていくストーリー。実際に起きた育児放棄事件を元に作られた作品ではあるが、ストーリー自体は元の事件とは異なる展開となっている。
痛ましい事件がベースにあるというのが、これまでずっと嫌厭してきた大きな理由の一つだった。フィクションだけど、感情移入してフィクションとして割り切れないだろうと恐れていた。
もちろんそういう社会の真実から目を逸らしても意味がないとは分かっているのだが、どうしても自分の中の弱さが見たくないものに蓋をしてしまおうとしていたのだ。今はそれを目の当たりにするエネルギーがない、と。
ところが蓋を開けて見れば、本作は痛ましい事件を基にしつつもどこか彼らなりのパワフルさを感じさせる部分もあったのだ。
ブスッと鋭いナイフで突かれるというよりも、じんわりと心を撫でていくような感じ。

それはきっと本作が描きたいものが社会問題そのものだけでなく、育児放棄を受けた兄妹たちがそれでも子供たちだけで立ち向かおうとする兄弟の絆を描いていたからなのだと思う。
コンビニの残り物を分けてくれる店員など、彼らを周縁から助けてくれる大人はいても、彼らに手を差し伸べる大人は出てこない。
というよりも、彼らもまた手を差し伸べようとする大人から身を隠しているのだ。

だらしない母親のけい子を演じたのはYOUである。
イメージがピッタリということでキャスティングされたYOUだが、決して子供たちと向き合うときに冷淡で愛情がないわけではない
遊ぶときは一緒になって全力で遊ぶし、子供たちも母親のことが大好きなのだ。ただ、男関係が奔放なけい子は子供よりも男を優先してしまう親として無責任な節があった
ちょっと家を空けますと言ってからあっさり何ヶ月も帰ってこなくなるなど、その別れも重々しいものではなく、あくまで長期間「外出している」かのよう
だからこそ、大きい子供たちは母親が実は男と遠くで暮らしていることは察していても、小さい子供たちは気付かない。ちょっと仕事で家を空けているだけですぐに帰ってくると信じているのだ。
あまりにも残酷で、痛々しい信頼なのだが、彼らにとってはそれが日常だったのかもしれない。

戻ってこない母親に代わって、家を支えるのは長男・明である。
この家の子供たちは全員学校に通っていない。出生届を出していないからバレていない。そのため明は買い物や料理などを担当し、長女・京子が洗濯を担当する。
余談だが、明は途中で悪い友人と知り合ってから家のことが疎かになることがあるのだが、京子は水道を止められてもなお洗濯をし続けていた。
真面目で物分かりの良い京子が健気に役割を守っている姿が余計に切ない。

母からの仕送りも止まり、帰ってくるはずだったクリスマスが過ぎてしまった。
クリスマスケーキが値下がるまで寒空の店頭で粘り続け、まるで母からの郵送であるかのように、なけなしの仕送りを崩して下の子供たちにお年玉を配る明。
兄妹を喜ばすことも明の使命なのだと思っているのだろう。彼はこの家の兄であり、父であり、母だと言える
そうかと思えば買い物帰りに公園で落ちているボールを見つけた明は一人でそれで遊んでいた。そのシーンを見て驚いた。その表情はまるで子供。本当だったら友達の家に遊びに行ったり、公園で遊んだりしている年頃なのだと改めて気付かされるのだ。

そんな明が悪い友達とつるみ始め、段々と家庭のことをやらなくなってからは家の中は荒れ放題である。
部屋の中はゴミだらけ、シンクには洗い物だらけ、生ごみの匂いが充満している。服もボロボロになり、髪も伸び放題となっていく。
当然だが、明を責めることはできない。彼がすべてを背負って家事を回す責任はないのだから。責を負うべきは彼ではない。
しかし実質、あの家ではまだほんの12〜3歳の彼しか責任を背負える人がいないのだ。
それが明にとってどれほど重責だったのだろうと思う。



【果ての見えない暮らしの先に】

彼らが大人を頼りにしないのは、かつて福祉を頼りにした結果、兄妹が離れ離れにさせられそうになってしまったから。
明曰く、とても大変な思いをしたのだそうだ。あんな思いをするぐらいなら兄妹で飢えや貧しさを乗り越えていく方が幸せだと感じているのだろう。
この映画を見て傍から見る大人が思う幸せと、当事者の子供たちが思う幸せというのは違うのかもしれない。
だけど、子供たちの価値観は常識とはかけ離れていると言わざるを得ない。たとえ自分たちで植物を植えて飢えをしのいだり、公園まで水を汲みに行く生活が苦じゃないのだとしても、やはりそれは確実に彼らの生活を追い詰めていくだろうし、その生活の先に希望の未来はないと、まともな大人なら分かってしまう
この物語の行末は、そのうち誰かが病気や栄養失調となって死ぬか、福祉に気付かれて一家離散となるか、奔放な母親が帰ってきてまたすぐ出ていくループに陥るかといった、どれを取っても悲惨な展開が目に浮かんでしまうのだ。

そんな中、ついに悲劇が起こってしまった。
一番末っ子のゆきが椅子から落ちてしまい、目を覚まさなくなってしまうのだ。
あんなに不良友達の挑発を断ってでも万引きには手を出さなかった明が、ついに万引きに手を染めて湿布を盗んでしまうほど、窮地に追い詰められていた明。お金が少なかったため母親にも連絡が取れない。頼りにできる大人も周りにいない。
明の健闘も虚しく、ゆきの体は冷め切ってしまうのだった。

いや、本当は周りに大人はいたではないか。
大家もいたし、コンビニの店員さんもいた。それなのに声を上げなかったのは、大人への不信感なのだろう。
福祉には兄弟を引き裂かれるし、コンビニの店長には無実の万引きを疑われるし、親には見捨てられてきた。誰も助けてはくれやしない、子供達の力で生き抜くしかないという思い込みだったのだろう。
彼らがそう決めたのか、周りの大人が彼らにそう決めさせたのか。おそらく後者に違いない。

そして同時に、気付けたはずの大人がたくさんいたにも関わらず、彼らは決定的に介入することはしなかったというのも考えさせられる。
もしもあの時、大人の誰かが声を掛けていれば、最悪の事態は起こらなかったかもしれなかったのだ。
彼らにも確かに責任はないのかもしれない。決して誰も悪くない。それでも彼らは「誰も知らなかった」わけではなかったのではないか。
あの中の誰かは、ことによると「知ることができていた」のかもしれないのだ。周囲の大人の無関心ということについても考えなければならない。

冷たくなったゆきをトランクに詰めて明は空港に向かう。生前、彼女にいつか飛行機を見に行こうと約束したから。明は飛行場の近くにゆきを埋葬することにしたのだ。
トランクを転がして向かう道は、いつかゆきが母親が帰ってくると言って聞かなかった時に、明が駅まで連れて行ってトボトボと二人で帰ってきたあの道だろうか。いつか飛行機を見に行こうと約束したあの道だろうか。

作中、子供達の足元がよく映る
日増しに汚れていって、日増しに壊れていくのが衣服や靴である。だから段々と痛々しくなっていく靴を見るだけで苦しい気持ちになっていく。
普通に親がいる同年代たちの子供たちが履いている靴とはまるで違うのだ。
靴にその人の全てが現れるとよく言う。彼らの靴はボロボロになっていた。
それから、映画では感じることのできないもう一つの変化は「臭い」だろう。作中でも同年代からゴミの臭いがすると明が陰口を叩かれていたが、きっと清潔さを保てない彼らからは独特の臭いが発せられていたはずだ。
衣服や靴の汚損、独特の臭い。彼らの危機を示すサインはあちこちに存在していたはずなのである。

一方で物語は唐突に終わってしまう。正直、え、ここで終わるのと思ってしまった。
誰も存在を知らなかった一人の少女がこの世からいなくなったことなんて、世間が知ることはない
誰も存在を知らなかった彼らのことはいつ見つけてくれるのだろう?母親はいつゆきの死を知るのだろう?それを知った時、彼女はどんな責任を感じるのだろう?
実際の事件に基づくストーリーだからこそ、その先を知りたかったのだが、ここで終わらせたということにも意味があるのだと思う。

これはあくまで社会から疎外されている子供たちが存在していることを描いた作品だ。実際の事件の子供たちは最終的に悲惨な状況で世間に認知された。
しかしこの作品では社会に存在を認知され、関わるようになってからについては焦点が当てられていないのだ。
監督は彼らの物語を福祉の落とし穴を描いた社会派サスペンスではなく、一つの「不完全な家族」の物語にしたかったのではないだろうか。
だからこそ、家族の一人が亡くなって供養するところまでを描いたのかもしれない。供養を終えた後、彼らはいつものようにまた大人に頼らず生き続ける
大人不在の、子供たちだけによる不完全な家族であり続けることを選ぶのだ。残酷なまでに彼らは自分たちの道を行く。
ゆえに無責任な母親を断罪するシーンはこの物語には不要なのである。

経済的な支援もない、福祉的な支援もない彼らがどのようにしてその隙間を埋め合って何ヶ月もの間、生き続けたのか。
いかにしてこのような問題が生じたかという背景が大事なのではなく、問題を抱えた彼らがどこまでも乗り越えようとした姿を描いた作品だと思った。


(141分)