彼らが大人を頼りにしないのは、かつて福祉を頼りにした結果、兄妹が離れ離れにさせられそうになってしまったから。
明曰く、とても大変な思いをしたのだそうだ。あんな思いをするぐらいなら兄妹で飢えや貧しさを乗り越えていく方が幸せだと感じているのだろう。
この映画を見て傍から見る大人が思う幸せと、当事者の子供たちが思う幸せというのは違うのかもしれない。
だけど、子供たちの価値観は常識とはかけ離れていると言わざるを得ない。たとえ自分たちで植物を植えて飢えをしのいだり、公園まで水を汲みに行く生活が苦じゃないのだとしても、やはりそれは確実に彼らの生活を追い詰めていくだろうし、その生活の先に希望の未来はないと、まともな大人なら分かってしまう。
この物語の行末は、そのうち誰かが病気や栄養失調となって死ぬか、福祉に気付かれて一家離散となるか、奔放な母親が帰ってきてまたすぐ出ていくループに陥るかといった、どれを取っても悲惨な展開が目に浮かんでしまうのだ。
そんな中、ついに悲劇が起こってしまった。
一番末っ子のゆきが椅子から落ちてしまい、目を覚まさなくなってしまうのだ。
あんなに不良友達の挑発を断ってでも万引きには手を出さなかった明が、ついに万引きに手を染めて湿布を盗んでしまうほど、窮地に追い詰められていた明。お金が少なかったため母親にも連絡が取れない。頼りにできる大人も周りにいない。
明の健闘も虚しく、ゆきの体は冷め切ってしまうのだった。
いや、本当は周りに大人はいたではないか。
大家もいたし、コンビニの店員さんもいた。それなのに声を上げなかったのは、大人への不信感なのだろう。
福祉には兄弟を引き裂かれるし、コンビニの店長には無実の万引きを疑われるし、親には見捨てられてきた。誰も助けてはくれやしない、子供達の力で生き抜くしかないという思い込みだったのだろう。
彼らがそう決めたのか、周りの大人が彼らにそう決めさせたのか。おそらく後者に違いない。
そして同時に、気付けたはずの大人がたくさんいたにも関わらず、彼らは決定的に介入することはしなかったというのも考えさせられる。
もしもあの時、大人の誰かが声を掛けていれば、最悪の事態は起こらなかったかもしれなかったのだ。
彼らにも確かに責任はないのかもしれない。決して誰も悪くない。それでも彼らは「誰も知らなかった」わけではなかったのではないか。
あの中の誰かは、ことによると「知ることができていた」のかもしれないのだ。周囲の大人の無関心ということについても考えなければならない。
冷たくなったゆきをトランクに詰めて明は空港に向かう。生前、彼女にいつか飛行機を見に行こうと約束したから。明は飛行場の近くにゆきを埋葬することにしたのだ。
トランクを転がして向かう道は、いつかゆきが母親が帰ってくると言って聞かなかった時に、明が駅まで連れて行ってトボトボと二人で帰ってきたあの道だろうか。いつか飛行機を見に行こうと約束したあの道だろうか。
作中、子供達の足元がよく映る。
日増しに汚れていって、日増しに壊れていくのが衣服や靴である。だから段々と痛々しくなっていく靴を見るだけで苦しい気持ちになっていく。
普通に親がいる同年代たちの子供たちが履いている靴とはまるで違うのだ。
靴にその人の全てが現れるとよく言う。彼らの靴はボロボロになっていた。
それから、映画では感じることのできないもう一つの変化は「臭い」だろう。作中でも同年代からゴミの臭いがすると明が陰口を叩かれていたが、きっと清潔さを保てない彼らからは独特の臭いが発せられていたはずだ。
衣服や靴の汚損、独特の臭い。彼らの危機を示すサインはあちこちに存在していたはずなのである。
一方で物語は唐突に終わってしまう。正直、え、ここで終わるのと思ってしまった。
誰も存在を知らなかった一人の少女がこの世からいなくなったことなんて、世間が知ることはない。
誰も存在を知らなかった彼らのことはいつ見つけてくれるのだろう?母親はいつゆきの死を知るのだろう?それを知った時、彼女はどんな責任を感じるのだろう?
実際の事件に基づくストーリーだからこそ、その先を知りたかったのだが、ここで終わらせたということにも意味があるのだと思う。
これはあくまで社会から疎外されている子供たちが存在していることを描いた作品だ。実際の事件の子供たちは最終的に悲惨な状況で世間に認知された。
しかしこの作品では社会に存在を認知され、関わるようになってからについては焦点が当てられていないのだ。
監督は彼らの物語を福祉の落とし穴を描いた社会派サスペンスではなく、一つの「不完全な家族」の物語にしたかったのではないだろうか。
だからこそ、家族の一人が亡くなって供養するところまでを描いたのかもしれない。供養を終えた後、彼らはいつものようにまた大人に頼らず生き続ける。
大人不在の、子供たちだけによる不完全な家族であり続けることを選ぶのだ。残酷なまでに彼らは自分たちの道を行く。
ゆえに無責任な母親を断罪するシーンはこの物語には不要なのである。
経済的な支援もない、福祉的な支援もない彼らがどのようにしてその隙間を埋め合って何ヶ月もの間、生き続けたのか。
いかにしてこのような問題が生じたかという背景が大事なのではなく、問題を抱えた彼らがどこまでも乗り越えようとした姿を描いた作品だと思った。