何のためにヨガをするのか 〜”執着”が苦しみを生む〜 | 心はいたってシンプルだった〜マインドフルネスな日々〜

心はいたってシンプルだった〜マインドフルネスな日々〜

ヨガ・マインドフルネス瞑想講師の児玉美保による「心」について思うこと

ヨガ哲学の指南書・ヨーガスートラより、

現代に生きる私たちに効く、

とっておきのエッセンスを抽出。

 

あなたの毎日が幸せになるよう、

サポートとなるキーワードを

ご紹介します。

 

 

今日は

『執着を手放す』

ことについてです。

 

 

 

あなたは本来、”自由”です。

 

物質が豊かになった現代。

あえてお尋ねします。

 

 

今の生活を全て放棄して、

すぐにでも、

あなたの好きなところへ行っていい!

好きなことをしてもいいですよ!

 

 

 

と言われたら、

どう思うでしょうか。

 

 

 

実は、この問いを仮説とするのではなく、

あなたには本当に

このような権限があるのです。

(決して怪しい話ではありません。あしからず・・・)

 

 

 

あなたには今、この瞬間、

住むべき家があって、

ご家族がいて、

仕事があって(もしくはご家庭を守るなどの社会的役割があって)、

様々な関係性のご友人たちがいらっしゃると思います。

 

 

 

そして今日、この後のご予定もあって、

明日もやるべきことを抱えていらっしゃるでしょう。

 

 

 

しかし、

この世の中において、

 

あなた という個人は本来、

 

何からも縛られていないのです。

 

 

そもそもが、自由な存在 なのです。

 

 

 

ですから、

ご友人関係も「や〜めた」と言って、

明日の予定を断ってもいいのです。

 

 

帰る家も、

賃貸の契約を終了し、もしくは売るなどして、

放棄することができます。

 

 

ご家族も、

あなたに頼っている部分があったとしても、

あなたがご家族に抱く”情”や、

”無意識の役割分担”をいますぐに放棄して、

”親”や”子”と言った役割を手放し、

”一個人のあなた”になればいいのです。

 

 

ほら、何も縛られることなく、

何からも自由な存在です。

 

 

さあ、好きなところへ行って、

好きなことをしていいのですよ!!

 

 

 

・・・、今、どんな気持ちですか?

 

 

 

 

 

”最低限”を知ることで見えてくる”執着”という欲。

 

あなたは自由だ、と言われている、、、

のにも関わらず、

 

もし今、

 

「それでも大事に思うもの」

 

が浮かんだのならば、

 

それはあなたにとって、

本当に大切にしたいものだと思います。

 

 

そしてあなたが生きていくために必要なものは、

本当はとてもシンプル。

最低限の数や事で足りると思います。

 

 

そしてそれだけで、

十分幸せを感じられるはずです。

 

 

それなのに・・・

これ以上を望むことを、

 

”執着”

 

と言います。

 

 

 

〇〇がなければいけない、

〇〇であるべきだ、

〇〇を守らなければいけない、

 

など、

 

日常の中にある

こうした無意識の固定概念(時にそれを”常識”と言ったり、”規則”と言ったりします)

が、

そうでなければいけない

と基準を定め、

その道ややり方から逸れることを

”悪”として、自分自身を責めたり、他人を責めたりします。

 

 

この”執着心”こそが、

自分自身の心を苦しめている。

 

 

つまり、

自分自身の”思い込み”が、

自分自身を”無意識に苦しませる”ということが、

起こるのです。

 

 

 

執着を手放すと、知恵が生まれる

 

ヨーガスートラ 第2章39節に、

 

『執着を手放すと、知恵が生まれる』

 

という章があります。

引用します。

 

==================

 

執着が無くなった時、

どうして自分が生まれたか?

なぜこの体を持っているのか?

過去と未来のつながりを知る知恵を理解します。

 

==================

 

 

自分の容姿に関するコンプレックスは、

執着を考える良い例です。

 

 

私は、なぜこの体なのか。

 

私は、どうして可愛くないのか。

 

 

自分のことを認められない感情の背景には、

他人の物差しで物事を測っている

という原因があります。

 

 

〇〇さんはスタイルが良くて羨ましい。

 

〇〇さんみたいな顔なら、みんなから好かれるのに。

 

 

自分にないものが手に入れられない苛立ちのような感情が、

自分を卑下する原因になっている例です。

 

 

 

ではなぜ、

”私”は〇〇さんのような容姿に生まれなかったのでしょうか?

 

 

 

 

ヨーガの生まれたインドを発祥とする仏教では、

輪廻転生を信じます。

 

 

 

私たちは本来、”魂”であり、

肉体はその魂の乗り物のようなもの。

 

 

この世には”魂”が成長するために

学びに来ていて、

様々な困難・試練を乗り越えることで、

魂レベルの成長を経験する。。。

 

 

だから、

 

自分の生まれ持った容姿も、

この容姿で世間・社会と接しながら、

様々な課題を克服し、

”魂”を成長させるためのエッセンスなんだ

 

と、

言うことです。

 

 

 

とは言え。

 

 

 

一方では、

恵まれた体格、容姿、家庭環境の人がいて、

みんなからチヤホヤされ、羨ましがられるような生活をしている人も

実在している。

 

 

かたや自分は、

そうではない。

 

 

こんな世の中、不公平ではないか!!

 

 

と憤るかもしれません。

 

 

 

ですが、

一見恵まれた環境に生きているように見えるあの人も、

あなたの知らないところで

ひどい目に遭っていたり、

苦労しているものなのです。

 

 

「あなたの知らないところで」無知

 

 

以前、このブログでも”無知”に関する記述は

度々して来ましたが、

 

 

こうして自分が”無知である”ことで、

 

・他人と比べていることが、

 自分で自分に苦しみを与えている

 

・こうであるべき、と決めつけていることが

 世の中の基準のように勘違いしている

 →世の中は何からも束縛されない自由な世界なのに。

 

 

など、

やはり苦しみを自ら生み出す結果になっているのです。

 

 

 

 

世の中の道理(全てのことから自由であること)を知り、

無用な執着(こうであるべき)を手放すことで、

 

私たちは自由な世界を生きることができ、

自分を受け入れ、

 

ありのままの自分で、

限りある命をどう生きるか、

 

”智慧”

 

を学びながら、

 

”魂”の成長

 

を促すのです。

 

 

 

執着を手放すことを、

サンスクリット語で

 

アパリグラハ

 

と言います。

 

 

日常のあらゆる事物において

執着を手放せるようになった時、

 

穏やかで平穏な、

調和のとれた争いのない毎日が

やってくるのです。