さて、前回は「愛情と無関心」について


児童虐待とネグレクトを例にとり考察した。


ここで本題に戻ると


「忘れる」とはどーゆーことか


どーすれば忘れられるのか。であった。


結論を述べれば、


忘れる=無関心になる


ということである。


つまり


物事を忘れるということは


その物事に無関心になるということである。


では無関心になるとはどーゆーことか。


いよいよ難しくなってきた。


その疑問に明確に答えることはできない。


しかし、


ネグレクトの例にあるように、


存在を認識しない


もしくは


意識しない


ということではないだろうか。


ここで注意しておきたい。


存在を否定する


のは


存在を認識しない


とは別の考え方である。


存在を否定するということは、


そこにそれが存在することを認めているからである。


存在することを認めているから


「私は」存在を認めない=否定する


と言っているのである。


つまり、


否定はその対象の存在を認めているからこそ


存在する考え方なのである。


私はAさんのことが嫌いだ。(Aさんを否定している)


これは


私の中に確かに「Aさん」という「存在」を認め、


そのうえで


「私は」Aさんなんて認めない。


と考えているのである。


そもそもAさんの存在を認めていないなら


Aさんって誰?


どーでもいい / 別に何も思わない


という考え方になるのではないだろうか。


まとめると、


忘れる=無関心になる


無関心になる=存在を認めない/意識しない


といったところだろうか。


(つづく)

前回、


「忘れようとすればするほど忘れられなくなる。」


というのは至極当たり前であるということを述べた。


では、


人は一生物事を忘れることはできないのだろうか。


私たちは感覚的にこの疑問に


「No」と答えることができるだろう。


なぜなら


実際にこれまで生きてきた中で得た記憶を


すべて覚えているわけではないからだ。


ではどーすれば忘れることができるのか。


忘れるとはどーゆーことなのかを考えてみたい。


そのことを読み解くキーワードとして


「無関心」を取り上げる。


さて、心理学の授業を受けているとき


「愛情の反対は何か。」


と教授が言った。


・・・


「憎しみ」?


と個人的に考えたが、


その教授の答えは


「無関心」


だった。


なるほどと思った。


現代の子育てに関する問題を考えればわかりやすい。


人間も動物も


程度の差はあれ


親は子に愛情を注いでいる。


その愛情が無償の愛か否かなど


細かいことは割愛する。


さて、しかし現代よく問題にされるのは


ネグレクト


である。


直訳すれば


「無視する」


すなわち育児放棄ということだ。


ここで「児童虐待」もあげられるが


児童虐待=憎しみ


ネグレクト=無関心


という簡略化した構図で考えてみたい。


児童虐待は決して許されることではない。


どんな理由があるにしろだ。


しかし、児童を虐待するということは


その親は


「自分にとって迷惑な存在」


「憎い存在・不要な存在」


として「認識」している。


ゆえに、


その認識に従って「暴力」を振るうのである。


つまり、


そこに「子ども」が存在することを


認めているのである。


しかし、ネグレクトはどうか。


育児放棄


すなわち、食事も与えない。一切の養育をしない。


ということは


そこに「子ども」が存在していることを認めていない。


つまり、自分の意識下に子どもはいない。


排除しているのだ。


前者も後者も決して認められる行為でないが、


生まれてきたことに感謝し愛情を注ぐことの


対岸に位置するのは、


そもそも生まれてきたことすら認識していない


ネグレクト/無関心ではないだろうか。


(つづく)

「忘れようとすればするほど忘れられなくなる。」


これは至極当たり前であることに気付いた。


「忘れよう」


そう心に決めることで


人はその対象を忘れようと努力を始める。


しかし、ここに大きな落とし穴がある。


「忘れよう」とするためには、


自分がその対象を「忘れる」ということを


覚えておかなければならない。


例えば、日曜日に春物の服を買いに行きたいとする。


すると、人は日曜日まで「春物の服を買いに行く」


ということを覚えている。


覚えていて初めて、自分の決めたことを実行できるのだ。


すなわち、その対象を忘れたい。と願うならば、


忘れるまで、その対象を忘れることを覚えていなければならない。


ここで、大きなジレンマがおこる。


買い物の例は別段問題はない。


しかし、「忘れたい」ことを覚えている。


ということには何か不思議な感じがしないだろうか。


人が物事を実行するためには、


その物事をしっかり記憶しておかなければならない。


それに従えば、


「忘れ」たければ、そのことをしっかり記憶しておかなければならない。


だが、「忘れたい」ことを記憶しているということは、


その対象もしっかり記憶していることになる。


いよいよややこしい話になってきたが、


忘れるためには、そのことを記憶しておかなければならない。


ということはその忘れる対象物も記憶しておかなければならない。


そうすれば、必然的にこれまで以上に濃い記憶として脳に焼きつくのである。


したがって、


「忘れようとすればするほど忘れられなくなる」


というのは人間の思考から考えて至極あたり前という結論になるのである。


(つづく)