必要ない=無関心=忘れる


の逆の考え方として


必要ある=当たり前=無関心


の考え方を説明した。


この考えをもう一歩進めてみる。


すなわち、


自分にとって当たり前と思えば


少なくとも


当たり前と思った以上のことは


無関心になる。


ゆえに、


忘れる


もしくは


認識/意識しない


ということになるのではないだろうか。


いよいよ核心に迫りつつあるが、


自分が「忘れたい」という対象の存在を


当たり前のものとして迎えるのである。


その対象は自分にとって当たり前のもの


必要なものとして受け入れるのである。


そして自分の心に素直に忠実に


ありのままに想い行動する。


そーすれば、そうある自分が


「当たり前」


になる。


そーなったとき、「忘れたい」という気持ちは


「当たり前」の存在として自分の心の中に


解放され自由になる。


すると、


それ以上の真理を追求しようとしなくなる。


もちろんいい意味でだ。


「当たり前」は「当たり前」になればばるほど


認識/意識されなくなる。


そーして気付いた時、


自分にとってもっともよい思い出として


昇華することができるのである。


(おわり)

脱線続きで申し訳ないが、


結論は


人それぞれの意識=答えである。


本論に戻るが、


物事が「必要あるかないか」を決めるのも


また人それぞれであり、それが答えとなる。


ゆえに、


英語が好きな人は「英語が必要」と思うから


勉強したことは覚えられる。


逆に社会科の歴史なんて覚えても意味ない


と思う人は「必要ない」と判断しているから


勉強したこともすぐ忘れてしまう。


つまり、これら学生が味わう事態は


極々当たり前のことなのである。


つまり、


必要ない


と判断すること。


それが忘れるための一歩と考えられる。


しかし、


必要ない


と判断できないからこそ


忘れられないというのもまた然りである。


これまでの考察が正攻法であったとするなら、


今度はその逆を考えてみたい。


文字通り逆にするなら


必要ある


と判断することである。


ここでは「空気」を例に挙げてみたい。


人間が生きていくためには空気は必須である。


むろん動物、植物然りである。


つまり、私たちにとって空気は


必要である


と判断できる。


しかし、どうだろうか?


普段の生活で「空気」


を認識/意識したことがあるだろうか。


激しい運動をした時や登山をした時など


特別なことをしている以外は認識/意識は


していないのではないだろうか。


そーすると、


必要である


にもかかわらず


認識/意識しない


ということになる。


これまでの正攻法とは逆の考えたになる。


つまり、英語好きな人が英語を必要だと認識し


勉強しても認識/意識しないことになる。


したがって、


この考え方には正攻法とは別の考え方を適用


する必要がある。


そこで、「当たり前」という考え方を用いてみる。


この「当たり前」という考え方こそ


人々の思考を狭めているものはない。


そして大人の子どもに対する最大の武器といってもいい。


例えば、


「なんで人は殺しちゃいけないの?」


「そんなの当たり前だろ!」


「廊下は走るな!」


「なんで?」


「危ないだろ!」


「なんで危ないの?絶対走っちゃだめ?」


「当たり前だろ!」


などなど。


ほかにもたくさん経験があるだろう。


しかし、考えてみれば


なんで人は殺してはいけないのか。


廊下は走ると本当に危険なのか。


など


当たり前ということを考えてみると


よくわからないものばかりだ。


にも関わらず


人々は、特に大人になればなるほど


そんな「当たり前」であることの本質


には目を向けなくなる。


「当たり前」は「当たり前」のこととして


それ以上の「認識」をやめてしまう。


つまり、それ以上の真理には


無関心


になるということである。


さて、


正攻法とは別の理論を適用したにも


かかわらず、「無関心」という考え方


に到達した。


どうもこの無関心が私の理論の中心に


くるように思える。


(つづく)


忘れる=無関心になる


無関心になる=認識しない/意識しない


とまとめたが、


では認識しない/意識しないとはどーゆーことなのか。


もっとも簡単なのは


そもそも「知らない」ということだろう。


世界60億人がいる。


世界中のみんなが仲間だね!


と言われても


そもそもその99.99999%くらい?は知らない。


知らなければ認識するはずもないし、


興味もない。(無関心である。)


現在進行形で行われている


イスラエルとパレスチナの紛争に


多くの日本人がリアリティを感じず


心を痛めていないのも特段不思議なことではない。


それは無関心だからである。


ただ、決してその姿勢を支持しているのではない。


だが、「忘れたい」と思っている人にとって


その対象はすでに知られている。


そして一度認識し関心を持ったからこそ


忘れることに苦労しているのである。


さて、ではどーすれば忘れられるのか。


まず、「夢」を例に考えてみたい。


人は毎晩夢を見ていると聞いたことがある。


しかし、不思議なことにそのほとんどを覚えていない。


もしくは朝起きた時は覚えていたが、


朝食をとっていることにはもう忘れてしまっている。


よほど強烈なインパクトがない限り覚えていない。


ここに何かヒントがあるように感じられる。


「認識した」ことなのに、すぐに忘れている。


それはなぜか。


必要としていない


からだ。夢は、現実には役に立たない。


もちろん、夢分析や何かのinspireを得る


という観点で100%否定するつもりはない。


とにかく、人は生まれつき夢は必要ない


ものとして刷り込まれているのだろう。


したがって、一度認識した夢は短時間で


記憶から消え去っているのである。


とすれば、


必要ない


と判断されれば忘れられるのではないか。


ここでまた脱線する。


よく


「勉強する意味あるの?」


「こんなこと勉強して何の役に立つの?」


と子どもたちが言う。(むろん私自身も・・・)


しかし、実のところ


そーいってる子どもたちにとって


勉強は意味ないし、役に立たない。


これは子どもたちを否定しているわけではない。


何事もその人の意識次第であるということである。


例えば、友達と映画を見に行ったとする。


自分は涙が出るほど感動した。


しかし友達は見る意味なかったという。


このとき、


自分にとっては確かに見る価値はあった。


と同時に


友達にとっては確かに見る価値はなかった。


ということである。


現代はセンター試験に代表されるように


答え=1つ の環境で育ち、


また、その答えは「解答集」や「先生」によって


外部から得るものだという習慣が付いている。


したがって、


映画を観る前も何かほしいものを買う前も


事前にネットや雑誌や口コミを聴いてから


判断する。


そして、先ほどの例なら


自分は涙がでるほど感動しても


友達(外部)が見る価値ない


と言えば、んーやっぱ見る価値ないのかな?


と感じてしまうのである。


でも実際は


人それぞれの意識=答えである。


ゆえに、


勉強する意味がないと思ってる子どもたちに


とって勉強は確かに意味がないものなのである。


(つづく)