脱線続きで申し訳ないが、
結論は
人それぞれの意識=答えである。
本論に戻るが、
物事が「必要あるかないか」を決めるのも
また人それぞれであり、それが答えとなる。
ゆえに、
英語が好きな人は「英語が必要」と思うから
勉強したことは覚えられる。
逆に社会科の歴史なんて覚えても意味ない
と思う人は「必要ない」と判断しているから
勉強したこともすぐ忘れてしまう。
つまり、これら学生が味わう事態は
極々当たり前のことなのである。
つまり、
必要ない
と判断すること。
それが忘れるための一歩と考えられる。
しかし、
必要ない
と判断できないからこそ
忘れられないというのもまた然りである。
これまでの考察が正攻法であったとするなら、
今度はその逆を考えてみたい。
文字通り逆にするなら
必要ある
と判断することである。
ここでは「空気」を例に挙げてみたい。
人間が生きていくためには空気は必須である。
むろん動物、植物然りである。
つまり、私たちにとって空気は
必要である
と判断できる。
しかし、どうだろうか?
普段の生活で「空気」
を認識/意識したことがあるだろうか。
激しい運動をした時や登山をした時など
特別なことをしている以外は認識/意識は
していないのではないだろうか。
そーすると、
必要である
にもかかわらず
認識/意識しない
ということになる。
これまでの正攻法とは逆の考えたになる。
つまり、英語好きな人が英語を必要だと認識し
勉強しても認識/意識しないことになる。
したがって、
この考え方には正攻法とは別の考え方を適用
する必要がある。
そこで、「当たり前」という考え方を用いてみる。
この「当たり前」という考え方こそ
人々の思考を狭めているものはない。
そして大人の子どもに対する最大の武器といってもいい。
例えば、
「なんで人は殺しちゃいけないの?」
「そんなの当たり前だろ!」
「廊下は走るな!」
「なんで?」
「危ないだろ!」
「なんで危ないの?絶対走っちゃだめ?」
「当たり前だろ!」
などなど。
ほかにもたくさん経験があるだろう。
しかし、考えてみれば
なんで人は殺してはいけないのか。
廊下は走ると本当に危険なのか。
など
当たり前ということを考えてみると
よくわからないものばかりだ。
にも関わらず
人々は、特に大人になればなるほど
そんな「当たり前」であることの本質
には目を向けなくなる。
「当たり前」は「当たり前」のこととして
それ以上の「認識」をやめてしまう。
つまり、それ以上の真理には
無関心
になるということである。
さて、
正攻法とは別の理論を適用したにも
かかわらず、「無関心」という考え方
に到達した。
どうもこの無関心が私の理論の中心に
くるように思える。
(つづく)