映画「イン・ザ・ハイツ」を観てきた。トニー賞4部門受賞ミュージカルの映画版。ニューヨークの隅っこのワシントン・ハイツを舞台にしたミュージカルだ。想像していたより凄い良かった。アメリカの辛口映画レビューサイトのロッテントマトでも高評価で、ヒュー・ジャックマンやアリアナ・グランデなども絶賛している。しかし、興行収入がふるわない・・・。やはり出演者の知名度とコロナの問題か。。個人的には「ラ・ラ・ランド」より好きなので、ミュージカル好きは必見である。

 

 

ラティーノよろしく派手でキレのあるダンスや、ラップやラテンの音楽などが映画を彩る。やはりミュージカルは劇場で観るに限る。ラテン系移民の苦悩なども織り交ぜつつ進むストーリーは明るくパワフル。ブロードウェイよろしくハッピーエンド。これぞミュージカルだ!


それにしても主人公役もヒロイン役もいいが、一番は断然にお婆ちゃんのアブエラ。彼女が物語のキーパーソン。アブエラの歌いあげる”Paciencia Y Fe”はしんみりと心に響いた。そのほかにもラップやR&Bからポップなど音楽が多彩。ところごころに出てくるスペイン語がアメリカの多様性を感じる。

ただラップやらR&Dやらの音楽に対して、ちょっと苦手意識がある人もいるかもしれないが、観ているとそのリズムの虜になる。ラテンコミュニティは日本人には馴染みがないが、アメリカにはラティーノが多く、7人に1人はスペイン語話者である。私もカナダに留学していたが、ほんとにラティーノが多かった。彼らはほんとにどこまで陽気だった。しかし、米国の社会ではラティーノはまだまだ格下に扱われており、そんな苦悩も本作で描かれている。

 

まだ公開から2週間なのに上映回数がどんどん減っているが、もう一度ぐらい観に行きたいぐらい。

あまり話題になってないが、ほんともったいない。

 

4.2 / 5.0

 

 

オードリー・タン(唐鳳)は台湾のデジタル担当大臣である。中学を中退して米国に渡り、シリコンバレーで10代のとき起業し、IT業界で活躍して史上最年少で台湾政府の閣僚になったという異色の経歴である。IQ 180ともいわれ、トランスジェンダーだという。ITを駆使して、コロナを封じ込めたことで、唐氏は一躍知名度を上げたのだった。

 

高評価なので読んでみたが、読めば読むほど「ほんとその通りですね」としかいいようがない。Youtubeなどでもタン氏のインタビューは観れるが、きわどい質問にも圧倒的な知性で分かりやすく回答していて、「なるほど、その通りですね」という感想が出てくるばかりである。少しは日本の現代のマスコミ・政治家もみならってほしい。

 

タン氏の意見のうち個人的に大切だと思ったトピックをまとめると次のようになるだろう。

・AIは人間を補佐するツールである。AIが人間を支配するというのは杞憂に過ぎない。

・デジタルが格差を生むというのであれば、デジタルを批判するのではなく、デジタルに疎い人にも使いやすいように改良すればいい。

・みんなのためにみんなが助け合うことが大切。そしてみんなのコミュニケーションのためにインターネットは良いツールである。

・マイノリティだからこそ独自の視点で物事をマジョリティと異なった視点でみれる。

・インクルージョンや寛容の精神こそがイノベーションを生む。

・AI・DXが進化するほどに人間は阻害されるのではなく、イノベーティブになる。

・一定時間での処理能力である「スキル」ではなく、平素の学習で身に着ける「素養」のほうが重要。

・科学技術だけでは処理できない事柄の存在を知り、美的感覚を身に着けることも大切。

 

本書を読むと分かるが、無知蒙昧な技術脅威論楽観的な科学万能論の立場にも与さない。タン氏はどこまでもリアリスティックにIT・デジタル・AIの今後の展望を思考しているのがよくわかる。そして、自己の主張を押し付けるのではなく、分かりやすい言葉で表現し、共感を生んでいる。そして、ずば抜けた知性があるにも関わらず、どこまでも謙虚で、社会全体のウェルフェアに重点がある。本人がマイノリティに属するからでもあるだろうが、ソーシャル・インクルージョンを重視しており、デジタルの重要性を認識しつつも、デジタルに苦手な人を排斥したりするような潮流には批判的で、どこまでも生産的で進歩的な未来を描く。

 

日本は東京五輪で、障碍者差別・女性蔑視・既得権益の利益追求・縁故主義など、古き悪しき側面が露呈した。”上意下達”の日本で、AI・デジタル・ITがどこまで社会を変革するのかは未知数だ。タン氏の見解は魅力的だが、私個人はそこまで楽観的にはいられない。日本は高度成長と経済停滞を経験しているが、中高年世代にあるのは高度成長期の成功体験であり、それは想像以上に強固なのだ。根性主義・精神論がはびこっていた世代に、AI・デジタル・ITの価値を教えてインクルージョンするのは、針孔にラクダを通すようなものだとすら思う。

 

 

森本あんり氏の「キリスト教でたどるアメリカ史」を読了。森本氏の本は、「反知性主義」「異端の時代」を読んだことがある。日本だと宗教がタブー視されていることもあり、宗教を学ぶ機会はほとんどなく、寺と神社の違いすら分からない、キリスト教のカトリックとプロテスタントの違いも分からないという人が多い。アメリカの印象も、資本主義の国、軍事力がある、映画をはじめ文化が豊かぐらいのイメージの人が多く、アメリカを動かしてきたのがキリスト教といってもピンとこない人も多いだろう。実際のところアメリカ建国からその後の国の発展においてもキリスト教が強い原動力となっている。

 

現在でも米国大統領は、就任式の宣誓のとき聖書を手に置くことからもアメリカという国とキリスト教との関係の強さをみてとれる。日本でも人気のマクドナルドであるが、その人気メニューのフィレオフィッシュは、もともとカトリックの人が金曜日に肉を忌避するので売り上げが落ちたことがきっかけで生まれたものだ。コーンフレークもセブンスデー・アドベンチスト教会の療養施設に勤めていたケロッグ博士が、肉体を綺麗に保つために菜食主義の観点から開発したもので、食文化にもキリスト教の影響がある。

 

アメリカのキリスト教は多様であるが、これは「信仰復興(リバイバル)」の過程をみると、アメリカの歴史的な背景によるものだとわかる。

 

第1次信仰復興(大覚醒)は18世紀前半である。教会・信仰が形骸化していくなかで、正式な教会会員といわれても内面では回心が得られたと感じられない人が増えていく。また、ピューリタンは知性偏重の傾向があり、大卒の牧師は宗教的権威であると同時に知的権威でもあった。しかし、これはイエスの批判した、学者・パリサイ人のようであり、難解な神学ではなく聖書にあるような素朴な信仰を希求する信徒が増えていったことは自然である。彼らは知的権威から離反したが、これは知性をないがしろにするのではなく、傲慢な知的権威への信仰による異議申し立てである。ここに現在にも続く米国の「反知性主義」の伝統の端緒があるという。この大覚醒期に活躍したのが、エドワードやホイットフィールドであるが、エドワードの弟子が奴隷解放を主導し、ホイットフィールドの伝道によって黒人の信仰も目覚めさせたのであるという。しかし、信仰熱も一巡し、旧指導者層からの反発で説教の場を奪われる中で徐々に第1次信仰復興は下火になる。だが反知性主義の種がこの時、アメリカ各地にまかれたのだ。ちなみに「トム・ソーヤ―の冒険」にもこの大覚醒の熱狂と沈静化が描かれているらしい。


第2次信仰復興は18世紀末から19世紀初頭にかけての西部開拓時代に起こる。新たなに広がった国土で、キャンプミーティングで次々に説教を行い信徒を増やしていった。このときに伸長した宗派はメソジスト派とバプテスト派である。フィニーの神学にみられるように、この時期は「セルフメイドマン(自成の男)」を理想とする。奇跡が神のみの力によるのであれば、人間の祈りは無駄になってしまうから、信仰復興は、神の御業だけではなく、人間の努力の結果でもあると説く。この第2次信仰復興のときに奴隷解放・禁酒などの社会改革の指導者も生まれ、また海外への伝道熱も高まっていったのは、西部開拓時代のセルフメイドマンの理念がよく反映されていると思う。ちなみに、この時期にユニテリアン・ユニヴァ―サリスト・アドヴェンティスト・モルモン教・エホバの商人・黒人教会など米国特有の様々な宗派が生まれた。信仰復興で信仰に目覚める人が増えたが、結局、聖書に立ち返った結果、各々が自由に聖書を読むようになり、様々な派が生じたということであろう。


第3次信仰復興は、19世紀後半に人口が倍増し、農村部から都市部への人口流入が進んだ時期に起こる。農業社会から工業・商業社会へと変貌する中で、都会で不安を抱える「大衆」が受け皿となり、大きなうねりとなるのだ。この運動の主な指導者がムーディである。彼は知性より情感に訴える温和な伝道を行い、素朴な聖書的信仰を持っていた。彼は聖書の一説(「マタイによる福音書」第6章第33節)を援用し、神への誠実な信仰がこの世における成功をもたらすと説いた。実利志向へと再解釈され、米国キリスト教の現世志向を特徴づけることとなった。メガチャーチなどはビッグビジネスが好きな米国よろしく、第3次信仰復興にそのルーツをみてとれる。

 

上記のように回心を感じられない中で伝統的な信仰とそれに結合した知的権威への反抗が生まれ、西部開拓の中での伝道で「セルフメイドマン」の要素も加わり、その後、大都市化の中にあって現世利益を志向する傾向も生まれ、米国のキリスト教は多様になっていったと描写できる。当然、イタリアやアイルランド移民はカトリックであるし、ドイツ系移民のメノナイト(アーミッシュとして知られる)などもいるから、本当にアメリカのキリスト教は多様である。

 

それにしても本書の指摘で興味深いのは反知性主義の結果、「陰謀論」の伝統が生まれたという。権威主義への反抗と素朴な信仰を尊ぶ傾向は、政治の話になると国家権力への疑念の遠因となるという。アメリカでは陰謀論が様々に語られるが、これはアメリカの歴史から生じたものであるという。

 

ついでにいうと、ハーバード大・イェール大・プリンストン大などは、もともとは牧師養成の機関であったことは意外に知られていない。合衆国独立以前に、牧師養成のために英国王の特許で植民地大学としての認可をうけたコロンビア、ハーバード、イェール、プリンストン、ウィリアムアンドマリー、ペンシルバニア、ブラウン、ダートマス、ラトガースの9校が米国の大学のはしりである。州立ウィリアムアンドメアリーは英国教会、州立ラトガース大はオランダ改革派である。ちなみに、ヨーロッパでも大学は修道院に起源がある場合が多い。大学建築でゴシック建築が多いのはそのためである。

 

日本にも多くのミッションスクールがあるが、宣教師の創立した神学校や英語学校を前身としている場合が多い。立教は聖公会、関西学院・青山学院はメソジスト、明治学院は長老派、西南学院は南部バプテスト、東北学院はドイツ改革派の流れを汲んでいる。ミッションスクールは「学院」という場合が多いが、これは schola が語源であり、キリスト教の教義の研究などを活動の中心にすえた修道院のことを指したためであり、学校名からキリスト教主義と分かるように各地域に設立したミッションスクールに「学院」とつけたのだった(立教大は学院とついていないが、学校法人は「立教学院」となっている)。同志社大をミッションスクールという人がいるが、伝道を目的としていないのでミッションスクールではなく、キリスト教主義の学校であり、学院とついていないのは必然ということであろうか(LINK)。ちなみに、創立者の新島襄自身は会衆派だった。

 

日本は戦後、米国の多大な影響を受けているが、極めて表面的な影響であり、日本人の多くは米国のキリスト教の根深さを知らない。アメリカのキリスト教を知りたい人は一読をおすすめしたい。個人的には「反知性主義」のほうが興味深かった。

 

 

ついに東京五輪が終わった。日本の総メダル数は58個、金メダルは27個で米国・中国に次ぐ第3位だった。日本の酷暑に海外選手が慣れていないなど、日本人選手に有利という面はあっただろうが、やはりホームでの戦いが有利というのはどこの国でも同じことである。コロナ禍での五輪としては悪くなかったという意見も多いようだ。選手には心から拍手を送りたい。

 

一方で、関連経費も含めると3兆円もかかり、その負担は国民・都民が負担するわけだから開催経費はちゃんと精査してほしい。特に開会式と閉会式は、佐々木氏にはじまる辞任ドミノもあって、かなりしっちゃかめっちゃかだった。一体全体あの開会式・閉会式のどこに160億円を超える費用がかかったのか理解できない。演出は終始統一感がなく、一人一人の演者は良いのに、コンセプトもよくわからなかった。

 

閉会式中、Twitterのトレンドで「意味不明」があがっていたし、選手はギブアップして途中退場が続出したというが仕方がない。最初の緑色の服装の方のダンスはモダン過ぎてよくわからなかった(音楽は、戦争に引き裂かれたハワイ在住の日系人をテーマにしたドラマ「波の盆」のテーマ曲で、武満徹作曲)。盆踊りの演出もあったが、海外の選手はなんなのか分からなかっただろう。盆踊りは死者の供養であり、ちょうど広島・長崎の原爆の日に挟まれた日取りの閉会式だったから原爆で亡くなった人の供養という隠れた意味合いがあったのかもしれない(独り言だが、わざわざ戦争に引き裂かれたハワイの日系人を描いたドラマ「波の盆」の音楽を持ってくるあたり、演出担当者は左翼的思想の持主だろうか?と勘繰ってしまう)。戦争の惨禍と死者の供養という隠れたテーマがあったとも推察されるが、米国にとっては相当センシティブなテーマになるし、盆踊りは派手さがないのでテレビ映えもしない。盆踊りを出したのは、ユネスコの無形世界遺産として申請するので、知名度アップの思惑もあったのかもしれないが。全体的に演出が昭和感があって、日本の技術力とかコンテンツ力とかもサッパリ感じられなかった。光の粒が集まって五輪を描く演出は素晴らしく、プロジェクトマッピングとかの技術の応用?とか驚いたが、ただのCGで萎えた。

 

MIKIKO氏の演出だったら素晴らしいものになったと思う。実際、リオ五輪のときのバトンタッチの演出は本当に素晴らしかった。国歌演奏の演出から、アニメとリアルを架橋した演出の「安倍マリオ」、光をうまくつかったモダンなダンスの演出は、本当に素晴らしかった。結局、電通がMIKIKO氏を排除し、サブカル界隈のお友達を起用した結果、過去のとんでもない不祥事が直前に明らかになって辞任祭りになった。MIKIKO氏を排除して渡辺直美に豚演出させるアイディアといい、いかに利権に群がるオジサンの品性が卑しいかが分かる騒動だった。

 

日本は組織内の力関係や空気で物事が決まる。今回も古株のシニアの意見が採用されて古臭くなり、声が大きい人にも配慮して折衷案をとり、結果的に統一感を喪失したと思われる。つまり、実際の開会式・閉会式は的確に衰退の一途の日本を風刺していたともいえるかもしれない。ちなみに、MIKIKO氏のバージョンの開会式のスケッチを文春が公開しているが、リオ五輪の閉会式からの伏線もあって圧倒的、断然にMIKIKO氏案のほうがよかった(幻の“MIKIKOチーム版”五輪開会式を完全再現!)。

※リオ五輪の閉会式:日本の演出は1:48:18~

 

五輪の最中もコロナ感染者数は増えているが、ワクチンを打ってコロナと共存するのかどうかいい加減に政治判断をしてほしい。実際、閉会式でフランスの様子が出てきたがマスクしないで密な状態で盛り上がっていた。フランスはワクチン接種率の上昇、死者数の減少をもって様々な規制を解除している。イギリスも同様である。人口1000人あたり病床数がOECDトップなのに、重症者も1000人程度で医療崩壊だと煽るマスコミはなんとかしてほしい。五輪開催前は「五輪中止だ!」と報道していたおに、いざ五輪が始まると「感動をありがとう」だから節操がないし、五輪は無観客だが今月に始まる甲子園(朝日新聞主催・毎日新聞後援)は有観客だから二枚舌も甚だしい。

 

ワクチンを2回接種したらマスクして手の消毒する条件で行動自由、不安でワクチン接種しないなら自宅で自粛していてくださいという政治判断がなぜできないのかよくわからない。緊急事態宣言が常態化してホテル・観光・飲食業は大打撃を受けているが、これ以上はもたない中小企業も多いと思う。菅内閣の支持率は30%を割り込んでいるので、秋の国政選挙では自民党の下野もあり得るだろう。五輪が終われば小池は都政に興味はないと思われるが、コロナ統制の失敗で小池都政への批判も強いので、国政転身のストーリーは描きにくいかもしれない。ただ小池氏は選挙には強いので出れば当選するだろう。

 

ちなみに、五輪は終わったが、五輪招致時の竹田恒和・元招致委員会理事長による贈賄容疑の捜査は続いている(LINK)。弁護士使用は2億だそうだが、JOCが負担だという。つまり税金である。開催した以上は、ルビコン川は渡ったので、せっせと国民・都民が借金を返済していくしかない。1964年の東京五輪は高度成長を印象付けたが、2021年の五輪は急速に成長した日本がピークアウトしたことを印象付ける結果になった。

 

【補足】

上記に出てきた「武満徹」について補足すると、武満氏は1930年に生まれ、独学で音楽を学び、和楽器を取り入れた前衛的な音楽で世界的に評価された日本を代表する作曲家である。「ノヴェンバー・ステップス」で一躍有名になった。商業音楽も作曲している。映画音楽で有名なジョン・ウィリアムズがいるが、武満氏の影響から、「ジュラシック・パーク」の音楽で尺八を取り入れたりしている。

 

 

モナコ公国は人口4万人に満たず、バチカン市国に次いで世界で2番目に小さいな主権国家であるが、現在では世界で最も裕福な国の一つである。そんな王家に嫁いだのはハリウッド女優のグレース・ケリー。そんなモナコとフランスとの対立のさなかのグレースの活躍を描いた映画。ちなみに、エルメスのケリーバッグは彼女に因んでいる。

あくまでフィクション。悪くはないと思うが、かなり脚色がされているので、そこは割り引いてみる必要がある。ただ何を描きたかったのか微妙だし、史実性も首をかしげてしまう。さらにグレース・ケリーを、ニコール・キッドマンが演じるが、どうしてもニコール・キッドマンにしかみえない笑。

 

ちなみに、防衛はいまでもフランスに頼っているそうだ。モナコは所得税がなく、事業税も低く、タックス・ヘイヴンと呼ばれることもあり、本映画で描かれるように、フランス企業の税逃れのための国となっている側面もあるのだろう。その点でいえば、本作をみても、「防衛もフランスが担っているのに、税金も納めないモナコってなんなの?」というフランス側の意見は正当であろう。それがグレースの感動的演説で解決したことになっているが、それはないだろう。

 

王家に嫁ぐのも大変だなぁという程度に観れば悪くはない作品。フランスの大国のそばで権謀術数で生き残った公国の外交上の難しさがわかる。

 

ちなみに、モナコの君主のアルベール2世(母がグレース・ケリー)は東京五輪の開幕に際して来日され天皇陛下にも謁見されている。モナコ公国の血筋はグリマルディ家であるが、これはジェノヴァ共和国の都市貴族の家柄で、修道士に成りすまして要塞を占拠し、その後、アラゴン王国からモナコを購入して正式に統治者の地位に就いたという。大国フランスに仕え、ヴァランティノワ公爵として高い地位を得て、何度か占領も経験するが、独立を回復し、現在でも公国として独立性を保っている。

 

モナコ”公国”というが、公爵領のうち独立国家となったものを公国と訳し、いまでは”公”は君主の意味合いである。日本語だと紛らわしいが、モナコ公国の元首はPrince of Monacoであり、ルクセンブルク大公国があるが、こちらの元首はGrand Duke of Luxembourgであり、ルクセンブルクのほうが爵位の序列では上位に位置する。実際、ルクセンブルクは人口60万人を超えており、規模的にモナコを上回る。ルクセンブルクは、現存する唯一の大公国である。人口8万人ほどのアンドラ公国もあるが、こちらはフランス大統領とスペイン・カタルーニャのウルヘル司教の共同公になっている。リヒテンシュタイン公国もあるが、人口4万人に満たずモナコと同じ規模の小国である。オーストリア・ハプスブルク家の家臣であり、もともと世襲爵位は侯爵だったから、あえてリヒテンシュタイン侯国と訳す場合もあるが、外務省はリヒテンシュタイン公国と訳している。

 

ちなみに、爵位と経済力はまた別問題で、国家元首で最も裕福なのは小国のリヒテンシュタインのハンス=アダム2世の5500億円、第2位がルクセンブルクのアンリ大公4400憶円、第3位がモナコのアルベール2世1100憶円であるという。元世界の覇権国のイギリス女王の私有財産は600億円である(王室全体だと9兆円規模)。一方で最も裕福な王族はタイのラーマ10世で3兆円を超え、次がブルネイのハサナル・ボルキア王で2兆円。ただ、どこまでも国有財産でどこまでが王家の私有財産かの区切りは明確ではなく、算出方法によってはかなり上下する。日本の場合、皇室財産は7000億円程度(LINK)であるが、これは国に帰属するので、天皇家の持ち物ではない。天皇家には「内廷費」「皇族費」が支給されており、別に「宮廷費」があり宮内庁が管理している。「内廷費」「皇族費」は合計7億円程度であるが、ここから神事の経費などのほか宮中祭祀にかかる人件費なども拠出するので、海外の王族のような贅沢はできない。

 

ヨーロッパは小国が乱立していたが、その名残が公国である。日本には約260の藩があったが、明治維新後に藩を廃止し、各大名のうち一定の石高のある大名は華族に叙された。日本は琉球王国・朝鮮王朝・台湾などを領土としたので、天皇は、王・諸侯の上位の”Emperor”ということになる。過去にはロシア皇帝がいたが1918年にロシア革命でニコライ皇帝一家が殺害され皇統は途絶え、中国も大清帝国の第12代宣統帝が1912年に退位、その後、満州国皇帝に即位するが1945年に退位し、最後は平民として余生を送り、ロシア・中国は共産化し、両国における貴族文化は著しく毀損・衰退した。エチオピアのハイレ・セラシエ1世もクーデターにより廃位されて1975年に暗殺された。結果的に、現在、Emperorの称号を持つのは天皇家のみである。天皇家が生き残ったのは、実権は幕府に与えて、天皇家は権威として存続してきたので、討伐されなかったためであろう。日本の天皇家は、日本の経済力を考えると、相当に質素な生活をされている。

 

ちなみに、爵位の順位表は次のとおりである。日本には華族制度が廃止されたので分からないが、ヨーロッパはいまだに上流階級がヒエラルキーの上層を形成しているのだ。

 

 

★ 3.4 / 5.0