18世紀、フランス革命直前期。美食は貴族が独占し、庶民は重税に苦しんでいた当時、誰しもが食事を楽しめるレストランをオープンし、フランス革命の平等思想をいち早く実践していた男の物語。実話ベースらしいが、大幅に脚色されている。食事はどれも美味しそうだし(お腹が減っているときみるとまさに飯テロである)、静物画の構図のシーンも多く映像的に楽しめた。全体的に落ち着いたタッチで”おフランス”な感じがする良い映画だった。

フランスのアンシャンレジームの崩壊を、美食という観点から描写しており興味深かった。ちなみに、当時第一身分は聖職者、第二身分が貴族で、これらが上位2%で、第三身分が98%を占めていた。第三身分には農民はもちろん、都市富裕層の法律家・実業家や農村の小地主なども含まれる。映画で公爵が「軍を差し向ける」と発言しているが、フランス貴族は権力が絶大だった様子が描かれている。そりゃ、革命も起こるわけである;マグナカルタ以降、王権すら制限していたイギリスは革命を免れている。

現在だとフランス料理は一品ずつ運ばれてくるが、本映画でも言及されるが、それは”ロシア式”である。ロシアは寒かったので、一度に提供するとあっという間に冷めてしまうので、一品ずつ温かいまま提供したようである。映画冒頭のシーンの通り、フランスではもともと大皿に料理を盛り付けて一度に提供していた。ちなみに、さらに歴史をさかのぼると、フランスでは手づかみで料理を食べていたが、イタリア・メディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスが嫁いだ際に、当時先進国だったイタリアの優雅で洗練されたナイフとフォークのマナーを導入した背景がある。

絶対王政下の貴族の暮らしや食文化などが垣間見えて興味深い映画だった。

 

★ 3.9 / 5.0

 

 

日本のピアノという楽器の黎明期から現在までを概観した本である。ヤマハや河合楽器の創業当時のくだりは興味深く読ませてもらった。また、幸田延、久野久、原智恵子という黎明期のピアニストから、黎明期に日本でピアノ教師をしていたクロイツァーレオ・シロタの名前も登場し、中村紘子、内田光子、小山実稚恵などの日本のピアニズムの興隆期のピアニストはもちろん、現代の藤田真央、牛田智大、角野隼斗、反田恭平、小林愛実などの若手までを射程におさめている。本書では私の先生が師事していた先生が登場したり、私の勤め先にいる元ピアニストもいたりして、一方的に身近に感じながら読んだ笑。

※角野隼斗は開成高卒で東大・東大院を経て現在ユーチューバーピアニスト。ショパンコンクール第三次予選まで残り話題を集めた。ポピュラー系の演奏がとても秀逸。

 

ただ衝撃的だったのだが、ピアニスト金子三勇士のTwitterのコメントが引用されていたのだが、「ピアノを専攻している現役の学生さんたちと話して感じる事。今の時代、CDプレーヤーを持っていない、テレビもない。音楽はスマホかPCで、主にYouTubeで鑑賞している→ここまではなんの問題もない。しかし、グールド、ポリーニ、ツィメルマンやアルゲリッチを知らないのは、やはり悲しい…」(LINKというツイート。

 

ピアノ専攻で、グールド、ポリーニ、ツィメルマンやアルゲリッチを知らないことがあるの?!と衝撃的だったのだ。これは英文学専攻でシェイクスピアもオスカーワイルドも知らない、経済学専攻でケインズもフリードマンも知らない、法学専攻で芦部も内田も知らないというぐらいの衝撃である(逆に誰を知っているの?というレベル)。しかし、そういう時代になったということであり、受け入れなければならないのかもしれない。ポリーニ、ツィメルマンやアルゲリッチを知らないということは、ソコロフ、アファナシエフ、フー・ツォンやディーナ・ヨッフェはおろか、ミケランジェリ、アシュケナージやリヒテルも知らないのだろう・・・。音楽愛好家ではなく音大生でこの有様なのは本当に衝撃的である。Youtubeで流行りのピアニストだけ聴いているのだろうか・・・?これは本当に音楽の伝統文化の継承にとって由々しき事態であろう。歴史を知らぬ人は、現代の価値観のみで、様々なことを評価したがる。ネットの演奏批判にあふれる偏狭さの一編はこうしたことに起因するのかもしれない。

※フー・ツォンの演奏。ショパンコンクール第3位。ドイツ文学の巨匠ヘルマン・ヘッセは彼の演奏を聴いて「フー・ツォンこそショパンを正しく演奏できる唯一のピアニスト」と評した。

 

そういった点でも、本間氏の本書はぜひ広く読まれてほしい。日本のピアニストの歴史をざっと概観することができる。小難しい表現もなく読みやすい。ただ最初のカワイ・ヤマハの楽器論が後半にも絡んで、演奏にどのような影響があるのかまで記述できたらなお良かった。また、表層的な情報をなぞっている感もあって、もう少し著者の洞察や見解もあれば深みのある論となったのだろうが、一般向けの新書としてはこの程度の論のほうが読みやすくていいのかもしれない。

 

 

ただ、フジコ・ヘミングについて好意的に書かれている点は評価したい(これも理由付けが薄いんだけど・・・)。ネット上ではフジコ・ヘミングについて、技術的な甘さなどを批判する人がいるし、正直、フジコさんの演奏は技術的にはかなり難があるが、年齢を考えれば当然であろう。フジコ・ヘミングは、巨匠クロイツァーに師事し、現在の日本音楽コンクールでは1953年に入選、1954年に第2位に入賞している(1959年の第1位が中村紘子である)。東京藝術大を卒業し、ベルリン芸術大にも留学している。ドイツではパウル・バドゥラ=スコダに師事しており、ブルーノ・マデルナやバーンスタインにも演奏を聴いてもらい才能を認めてもらい、コンサートのチャンスを貰っている。耳が聞こえなくなることがなければ、演奏家としてそれなりに活躍していたはずである。そんな彼女を全く色物と批判するのはどうかと思う。

 

中村紘子もフジコ・ヘミングについてエッセイであまりよく書いていなかったが、中村紘子は井口愛子に師事しており、古風なハイフィンガー奏法を教えており(ジュリアード留学中に手の形を直されているのだが)、クロイツァー直伝の19世紀的なロマンティズムを漂わせる演奏は癪に障ったのだろう。また、中村紘子は、ショパンコンクール入賞という華麗な経歴があり、その中で突然出てきた聴力を失っていたというピアニストに話題が集まるのが面白くなかったのだと推察される。井口愛子の蔓延させたバリバリと弾く奏法は、安川加壽子のフランス流の流麗な奏法とも対立していたそうだが、正直、国際的な活躍をみれば安川加壽子の方がグローバルスタンダードだったのではないかと思う。中村紘子氏の功績は巨大であるが、中村氏の演奏についてもかなり好き嫌いが分かれる。その点でフジコ・ヘミングと大差はなく、大雑把にバリバリと即物主義的に弾く流派と、ゆったりとした情感のロマンチックな演奏の流派の差のなのだと思う。

 

※スロバキア・ブラチスラヴァでのコンサート。好意的なコメントが多い。

 

結果的にフジコ・ヘミングは聴力を失っているわけだが、帰国した際に芸大関係者の助力もあり、東京芸大の奏楽堂で演奏を行い、それがNHKで特集されて大ブレイクするのだ。しかし、聴力を失っていたことで、新即物主義だったり、機械的な演奏に晒されず、彼女は往年の古き良きロマンティズムの演奏をその耳に残すことができたというメリットもある。フジコ・ヘミングは「ぶっ壊れそうなラ・カンパネラだっていいじゃない?」という。人間みんな完璧じゃないんだからと。

 

人生が発露したピアノの漂わせる哀愁と悲哀、それに拍手を送れるか否かは聴き手の教養と度量の深さによる。本書は付録で名盤紹介をしているが、そこで、「成熟は寛容をもたらす」というが、それはそうだと思う。深い教養、成熟、それによって生じる余裕。文化の多様性と深さと豊かさ。即時性が重要視されるネット社会にあってそれは維持できるのだろうか?音大生がポリーニもアルゲリッチも知らないという現代社会はもはや形を変えたデカダンスの時期なのではないか。これは新しい演奏スタイルの誕生か、はたまたただの演奏文化の退廃か。正統と異端、体制と革新、ロマンティズムとノイエザッハリヒカイト、資本主義的リアリズムと社会主義リアリズム。対立は溶けることがない。しかし、この対立の存在こそが、超越に挑戦するエネルギーを生み出すのではないか。百花繚乱の今世は豊かさをもたらすとぜひ期待したい。

Camilla, the new Queen Consort, has broken with centuries of tradition and appointed six of her closest friends as “Queen’s Companions”, replacing the role of royal ladies-in-waiting. --BBC

 

カミラ英国王妃が女官制度を廃止して、コンパニオンを任命したという。チャールズ三世は英国王室のスリム化などを主張しているが、そうした英国王室の在り方の見直しの一環だろうか。コンパニオンは女官と同じような立場にあるが、責任を担う範囲が女官に比べて縮小されており、スケジュール管理や外部対応などは行わず、また、非常勤だという。名誉職で経費のみが支給されるそうだ。

 

 

あまり日本ではちゃんと報道されていないが、興味深いので人選をみてみよう。全員カミラ王妃の友人だというが、英国の上流階級の交友関係をみてとれる。英国は貴族制が維持されており、階級社会が依然と残っている。従来的な労働者階級・中産階級・中上流階級・上流階級という構図は崩れてきて、7つの階級に分岐しているといわれるが(「7つの階級: 英国階級調査報告」)、爵位を有する貴族階級は歴然として存在してる(英国の世襲爵位は約800程度らしい)。

(ちなみに、カミラ王妃はお母さんが男爵令嬢だが、お父さんは陸軍少佐だったりする。パーティでチャールズと出会い交際を開始し、チャールズがダイアナと結婚後も関係を継続し、離婚後に再婚している。ウィリアムとヘンリーの二名はかなり複雑な感情だろう。)


(1)Sarah Troughton(サラ・トラウトン):ケント公爵夫人の元女官。お父さんはSir Timothy Colman(ガーター騎士団員)、お母さんは、ストラスモア=キングホーン伯爵の孫にあたるLady Mary Cecilia Bowes-Lyon。母方血統には第四代ハードウィック伯爵もいるそうだ。サラさんの祖父はエリザベス王太后の兄弟であり、そのため、チャールズ三世とは”またいとこ”に当たる。本人自体は特に敬称を有していないが、貴族の血統であり、英国王家とも血縁関係にある。

 

(2)Jane von Westenholz(ジェーン・フォン・ウェステンホルツ):ヘンリー王子をメーガン妃に紹介したヴァイオレット・フォン・ウェステンホルツの母親。情報があまり出てこなかったが、Piers von Westenholzの夫人のようだ。この旦那さんが"von"がついていることからも分かるように、ドイツ系の貴族のようで、男爵位の相続予定者のようである(ちなみに、フランス貴族の場合は、氏名の間に"de"がつく)。ただあくまでドイツは貴族制は廃止されているので、法的には英国において貴族ではないと思われる。ゆえに”Lady”の敬称もついていない。

 

(3)Lady Sarah Kewsick(レディ・サラ・ケスウィック):第16代ダルハウジー伯爵の令嬢。貴族令嬢なので"Lady"が敬称となっている。旦那さんが、サッカーのプレミアリーグ、アーセナルFC会長を15年間務めたサー・ジョン・チッペンデール・ケズウィック。ケズウィック家はスコットランドに起源をもつ大富豪一族。一族の総資産は1ドル100円として5000憶円ぐらいのようだ・・・(出典)。ちなみに、旦那さんに”Sir”の敬称がついているが、ケズウィック家は三世代目からSirの敬称がついているが、理由は分からず・・・。

 

(4)Fiona Petty-Fitzmaurice, Marchioness of Lansdowne(ランズダウン侯爵夫人フィオナ):肩書の通り貴族夫人である。Inchbald School of Designでインテリアデザイナーとして訓練を受けて民間企業で勤務していたが、仕事中に旦那さんに出会い結婚して貴族となったようだ。ご実家は不明だが、おそらく言及がないため貴族の血統ではないようである。Marchionessを公爵夫人(Duchess)と誤訳している日本語のページが散見されるが侯爵夫人が正しい。公爵と侯爵は別の爵位である。日本語は翻訳の際に中国の周王朝の爵位を使用したが、日本語だと公と侯が同じ発音で紛らわしくなった。

 

(5)Lady Katharine Brooke(レディ・キャサリン・ブルック):お父さんはMarmaduke Husseyは男爵(一代貴族)でBBCの理事会のチェアマンを歴任、母親はエリザベス2世女王の女官を長年務めたレディ・スーザン・ハッセー。レディ・スーザン・ハッセーは、ウォルデグレーヴ伯爵令嬢で、兄弟に政治家ウィリアム・ウォルドグレーブ男爵(一代貴族)がいる。レディ・スーザン・ハッセーの叔母は、エリザベス王太后の女官だった。

 

(6)Carlyn Chisholm, Baroness Chisholm of Owlpen(カーリン・チザム(女男爵)):お父さんが第6代レコンフィールド男爵で、お母さんが伯爵令嬢。お兄さんが文筆家のMax Wyndhamで、レコンフィールド男爵位はお兄さんが襲爵し、第7代レコンフィールド男爵となっている。カーリン・チザム氏本人はもともと貴族院議員であり、女男爵を授爵している。こちらはlife peeress(一代貴族)であり、先のレコンフィールド男爵位のようなHereditary peer(世襲貴族)とは異なる。英国では一代貴族として爵位が授けられる場合があるのだ。かの有名なサッチャーも女男爵(一代貴族)だった。

 

ちなみに、下記にレディとついている人とついていない人がいるが、大雑把にいうと、貴族の女性は”Lady”、貴族の男性は”Lord”で、准男爵・騎士爵の男性は”Sir”の敬称となる(准男爵・騎士爵は貴族ではなく平民である)。 上記では名前の後に爵位名を表記している場合は貴族と分かるので、"Lady"を付していない。

 

ちなみに、王族は”His or Her Royal Highness”(省略してHRHとも、殿下・妃殿下の意)の敬称が用いられるが、ヘンリー王子の子供はこのHRHが与えられずもめていた。最近ではデンマーク王家でも、王室縮小の一環で女王の孫4人が、王子・王女の称号・敬称を取り消され、一貴族として伯爵と扱われると発表された。これからはHRHではなく、敬称が"His or Her Excellency"になるらしく、もめている。

 

 

 

 

ミニスカートを流行させ、保守的な英国のファッション界に激震を与えたデザイナー、マリー・クワントのドキュメンタリー。 第二次世界大戦後、英国は、戦争の傷跡、階級社会と保守的なファッションの在り方が残っていた。当時、ファションの中心であるフランスは、優雅でエレガントなディオールが一世を風靡していたが、しかし、女性はより動きやすく自由なファションを求めていた。マリー・クワントはそんな世情にあってブティックをオープンするが、彼女の自由なスタイルは人気を博し、ミニスカが流行するのだった。

スウィンギング・ロンドンと呼ばれる60年代において保守的なスタイルに挑戦するクワントのスタイルは最先端だったが、ヒッピー文化が流行する70年代には逆にもはや体制側とみなされるようになる。70年代はパンクファッションが流行し、ヴィヴィアン・ウエストウッドが流行する。徐々に勢いを失ったクワントのブランドは、ファッションのサイクルの中にあり、いよいよ経営権は日本企業に譲渡されるのだった。

ファッションは時代に挑戦し最先端であっても、それが人気になり普及してしまうと、それはもはや体制側とみなされ、超えるべき存在とみなされるようになってしまう。前衛がいつか保守になり、さらなる革新を育む。これが発展を生む。過去のスタイルはファッションの潮流の大河に溶け込んでしまう。しかし、そこにはしっかりと各ブランドの名残りが存在している。伝説なブランドの社会学的意義やビジネスの在り方、デザイナーのプライベートまでを射程におさめた骨太のドキュメンタリーだった。

 

現在、マリークワントは日本企業が経営しているが、こうした事例は多い。若手に人気の”オロビアンコ”というブランドがあるが、もともとイタリアの工房ブランドだったが、現在ではイタリアの工房は清算されて、マスターライセンスも商標も伊藤忠商事が譲渡を受けて保有している。日本はライセンスビジネスがうまく、日本で売られているポール・スミスやヴィヴィアン・ウエストウッドもライセンス品がほとんどである。三陽商会はバーバリーからライセンスを切られたが、これは本家のバーバリーのブランド戦略のためである。マリークワントのように流行的なブランドは時勢を失うと、身売りするしかないという哀愁を感じる。ヴィヴィアン・ウエストウッドも正直、その命運にあると思う。

ただ若干字幕の誤訳が気になった。"Duchess"を侯爵夫人と訳していたが、公爵夫人が正しい。侯爵夫人は"marchioness"である。そして、クワントに爵位が授けられたと翻訳されていたが、彼女が受章したのはDBEであり、勲章である。また、クワントの夫のAlexander Plunket Greeneが、貴族と言われていたが、調べたところ爵位を保有していないので、”貴族”ではなく”貴族的な人”が正しい。

 

★3.7 / 5.0

 

 

映画「あのこは貴族」を視聴。岡田斗司夫がおすすめしていたので笑。

 

非常に丁寧に作られており、様々なところに配慮が行き届いており、監督の力量がうかがえる。渋谷・松濤に住む箱入り娘の華子と、地方から上京してきた美紀の二人の女性を軸に、日本、とりわけ東京に歴然と存在する格差を描いている。視聴後感が悪くないのは、本作にはこれといった悪者が登場しないからだろう。華子も美紀もいがみ合ったり、争う合うわけでもない。ただ現に存在する社会格差を背景に、前向きに生きる女性像が共感を呼ぶのだろう。とても上質な映画だったと思う。

そして興味深いのはタクシーの運転手が”田舎者が帰省して都内が空いている”というシーンである。そのタクシー運転手自身も地方出身なのに、田舎者呼ばわりする。社会の断層線はヨコだけではなく、タテにも入っているのだ。こうした社会の亀裂に関する論は高度成長期からあるが、本作は現代を舞台に、その亀裂を柔らかいタッチで描き出している。

ただ各所に違和感を感じるシーンなどがないわけではない。ただフィクションだし、演出上仕方がないのであるが。。

(ネタバレ含む)

  • 美紀が上京して何気なく友達といったアフタヌーンティーが約4200円(税・サービス料込だと5000円かな)で、格差を感じるシーンがあり、美紀の友達が、同じ大学に通う内部生を「貴族」と評するシーンがある。高価なアフタヌーンティーが都会・貴族の記号として表現されているのである。ただ、それなりのホテルだと8000~9000円の価格帯なので、格別に高いという印象を受けなかった。大学生にしては高額ということなのだろうが、「ま、そんなもんじゃない?というか、アフタヌーンティーにしては安くないか?」と思ってしまった。
  • 美紀は、仕送りに頼れなくなり、夜の仕事をする設定だが、その前に奨学金を申請すればいいのではないか?と素朴に思った。結局、中退のようだが、休学して貯金するとかいろいろ手段はあっただろうに。
  • 映画版で、美紀が住む家が、狭い庶民の家の設定だが、東京タワーの近くであの広さだと、築年数はいっていても少なくとも15万前後はするので(というか20万円近くする)、日本の所得の中央値からすると、少なくとも美紀も庶民に見えない。
  • 華子が離婚するが、離婚するほどのことか?と不思議に思った。それに、華子は離婚後に、一時的に自由を謳歌できるだろうが、何のスキルもない以上、自活は無理だろうから、ヨリを戻した方がいいと思ってしまった。
  • そもそも論だが、「貴族」というと、欧州の貴族をやはり想起してしまう。医者や弁護士は典型的な「中流の上(アッパーミドル)」である。また、「階級」という用語も使われるが、ここまで階級意識が希薄な日本で、”階級”という発言が出てくると違和感しか感じない。明治期に華族制は出来たが、戦後に廃止されているし、財閥家も戦後に解体され、日本の制度的な上流階級は約80年前に一度終焉した。単にキャッチ―に分かりやすく「貴族」と銘打っただけなのだろうが、歴史的背景を踏まえると、単なる富裕層を”貴族”といわれても、違和感だった。もちろん、あえてそう表現して社会格差を描き出したのではあるが。
  • 華子の家は開業医のようであるが、相続税を考えると、しっかり子供の代も稼がないと、孫の代まで十分な資産は残せない。その点でも貴族というのは大仰である。率直にいえば「何を勘違いして貴族ぶっているのか。相続税からは逃げらませんよ?」。
  • 貴族は公的身分で、義務も負担するが、資産家はあくまでそうした公的性格を有しない。結局、公的性質の不在ゆえに、私利私欲に溺れて我儘勝手しているようにみえ、”上級国民”などと揶揄されるのだ。実社会を踏まえると、やはり貴族という表現には違和感を感じる。

 

本映画をみて、あらためて思ったが、いまでは格差社会論はもはや珍しいものでもなくなった。SNSを通して富裕層の生活は垣間見ることができる。ゆえに本作でいうほど格差は隠れたものではなく、現代社会では以前より知覚できるものだと思う。ちなみに、富裕層とは野村総合研究所の定義だと、負債・不動産・消費財などを除き、純金融資産のみで1憶円以上ある階層をいい、5億円以上を超富裕層としている。UBSでは超富裕層を純資産3000万ドル(1ドル100として30億円以上)としている。

 

本作で繊細に描かれているのは、社会階層は「経済的資本」のみではないという点である。交友関係という「社会関係資本」(要は人脈)、趣味や言葉遣いや所作などの「文化資本」である。成り上がりのキャバ嬢やホストが大金を稼いでも、学識もなくて趣味は酒・煙草・ギャンブルでは、到底”上流”とはみなされないように、英国ほどではないが、ゆるやかな階層の分離は存在する。

 

ただあまりにも本作はそれを強調し過ぎな面もある。日本では「経済的資本」と「社会関係資本・文化資本」はそこまで相関しない。80年前に上流階級の華族制が崩壊し、また高い相続税もあるので、代々資産のみで生活できる世帯(貴族的な世帯)は極めて限定的である。どこまでも”貴族”という語感と、日本社会の現実とのギャップが脳裏をチラついた。

 

★3.8 / 5.0