不動産コンサルタント会社であるナイト・フランク(Knight Frank)は、「ウェルス・サイジング・モデル(Wealth Sizing Model)」において、25カ国において「トップ1%」に入るのに、どのくらいの純資産(Net wealth)が必要なのかのデータを公開している。これが面白いので、下記に引用しよう。この純資産は金融資産のみかと思ったが、所有の不動産価格も含むようである(LINK)。

 

参考記事:How much wealth gets you into the global top 1%?

 

The 1% club

・モナコ:$12.4M(17.3憶円)

・スイス:$6.6M(9.2憶円)

・アメリカ:$5.1M(7.1憶円)

・シンガポール:$3.5M(4.9憶円)

・フランス:$3.5M(4.9憶円)

・イギリス:$3.3M(4.6憶円)

・イタリア:$2.6M(3.6憶円)

・日本:$1.7M(2.3憶円)

・中国本土:$960,000(1.3憶円)

・インド:$175,000(2450万円)

・フィリピン:$57,000(798万円)

・ケニヤ:$20,000(280万円)

※一部抜粋、円換算は1ドル=140円で計算

 

モナコやスイスは凄い。モナコやスイスはタックス・ヘイブンとして世界の超富裕層が集結しているだけある。米国も世界最大の経済大国なだけある。欧州主要国も4~5億程度がトップ1%に入るには必要であるが、依然と上流階級が存在したりと(特にイギリスは公的に貴族制が存続している)、代々の富裕層が富を蓄えているのだと思われる。

 

こうしてみてみると、日本は富裕層の厚みがあまりないことが分かる。戦後にGHQが旧財閥家を解体し、華族制も廃止し、一定額以上の資産を持つ人に莫大な財産税を課したので、日本の上流階級は戦後崩壊して総中流社会となった名残である。日本は2.3憶でトップ1%に入れてしまう。

 

一方で世界第2位の経済大国の中国だと日本の半分程度でトップ1%である。中国富裕層の話が日本で報道されるが、13億人いる人口の極一部の上澄みなのである(極一部でも母数が多いので、絶対数で目立つのであるが)。さて、まだまだ途上国のインド・フィリピン・ケニヤなどをみてみると、意外と日本のそこらへんのサラリーマンでもトップ1%に入れるような水準である。特にケニヤは280万円でトップ1%なので、日本人でそこそこ貯金がある人は、移住すればすぐにセレブ扱いだろう。ケニヤは日本からは遠いが、近くのフィリピンでも800万でトップ1%になれる。とはいってもインフラや治安の問題、経済の不安定さもあって、これらの途上国に移住するのは勇気がいるのであるが。

 

なお、クレディ・スイスによると、世界レベル見た場合、資産のトップ1%の超富裕層の持つ資産は、世界全体に占める割合は45.5%になるという(LINK)。極一部の富裕層が富の大半を保有しているのである。その富裕層はタックスヘイブンへと移住して富裕層のコミュニティを構築する。世界的に格差が拡大しているが、ただ人類の歴史をみてみると、中世は貴族・聖職者など上流階級と農民で二分化されていたわけで、昔の体制に回帰しているだけではないかと思う。この富の偏在がどういう世界をこれから築いていくのかは未知数である。

 

さてさて、昨日に続いて本日も渋谷のBunkamura ル・シネマへ行ってきた。本日鑑賞したのはドイツ映画の「大いなる自由」。同性愛が違法だったドイツにおいて、投獄されたある男性を描いた映画である。

 

欧米などキリスト教圏では基本的に同性愛は罪であって、刑法によって罰せられてきた長い歴史がある。本映画の舞台のドイツでも1994年まで同性愛行為は違法とされていた。1974年までは精神疾患だとみられていたというから驚きだ。本作はR15指定なので、なかなか生々しい描写もあって、かなり観る人は選ぶかもしれない。それにしても、主人公の男性のモデルとなった人物は実在したというから驚かされる。

そんな同性愛行為が違法で、同性愛者が投獄されていたかつてのドイツを舞台に、投獄された同性愛者の主人公をテーマにしたのが本作である。3つの時代が交錯して主人公の過酷な人生が描写されていく。この3つの時代を解体しているのでやや分かりにくいかもしれないが、各時代の刑務所の雰囲気などから、当時の時代性が映し出されていて興味深い。

主人公はナチスの強制収容所から連合国によって解放されるも、そのままドイツの刑務所に移送され、刑期を全うすることを強いられる。ナチスが障碍者や同性愛者など社会にとって役に立たない人を理性的に抹殺しようとしたことは有名だが、連合国による解放後、ユダヤ人や障碍者への迫害は終焉したが同性愛者への迫害は連合国によって解放後も継続されていた(ナチズムの発想はキリスト教保守派に姿を変えて戦後も温存されていたのだ)。

そして社会主義国は管理主義的で非人道的なイメージだが、本作でも言及される通り、東ドイツの方が西ドイツよりも早くに同性愛者の投獄を停止している。本作は主人公の苦悩の人生から、ドイツの抱える歴史の複雑性、過去の克服の困難性、東西冷静下における政治の正当性の複雑性をあぶりだしているように思われる。

さて、終盤のシーンは興味深い。映画のタイトルは最後の方で明かされるのだが、この主人公が最後にとった行動はどう解釈すべきだろう。「自由な状態」とは選択肢の存在である。どの選択肢を選ぶかは個人の自由である。この主人公はなぜ自由になったにも関わらず、刑務所に戻るであろう行動をとったのだろうか。刑務所で良くしてくれたヴィクトールのために戻ろうと思ったのか、はたまた求めていた自由の現実(性別関係ない愛情を求めたが、実際に同性愛が解禁され、解放されたのはただの性欲であったという現実)に失望しこの自由社会に自分の居場所はないと思ったのか、それとも社会への抗議だろうか。本作のラストは、観客一人一人に問を投げかけてくる。

本作では光と陰が映像で絶妙に描かれている。懲罰房で、主人公がマッチを灯すシーンは、本当にレンブラントの絵画のようだ(本作の宣伝文句でも使われていたが)。闇の中でマッチに灯される、その悲痛でありながらも、諦念も悟った主人公の顔がなんともいえない。演技力にはただ感嘆するばかりだ。

さて、日本は、というより、仏教圏だと基本的に同性愛やらLGBTQ+には大らかだ。仏教の価値観だと、魂は輪廻転生するので、たまたま男の魂が女性の肉体に転生してしまうこともあり得るが、重要なのは魂であって、肉体はただ現世を過ごす乗り物に過ぎないのだ。欧米では過去の迫害の反動でLGBTQ+への権利保護が盛んだが、アジア圏ではさほど見向きもされないのは、過去に差別もしてこなかったので、なぜあえて保護する必要があるのか分からず、社会的関心に乏しいからだろう。一方でキリスト教ではレビ記などの記述をもとに同性愛を忌避する傾向が強い。

 

日本では上映館も少ないが、カンヌ国際映画祭ある視点部門で審査員賞を受賞しており、海外の映画レビューサイトのRotten Tomatoesでは、TOMATOMETER(批評家)は97%、観客は91%が支持している。とても上質な映画であった、

 

★ 4.0 / 5.0

 

Bunkamuraが再開発の影響で休業したが、映画館ル・シネマは移転して、渋谷宮下前に移動して事業を再開している。旧渋谷TOEI跡地の場所である。「マギー・チャン レトロスペクティブ」という特集で、観たかった映画「宋家の三姉妹」が上映されていたので観てきた。それにしても渋谷東急百貨店横にあったときと比べると、やはり雑居ビルなだけあってエレベーターでご一緒する方の雰囲気が全然違いますね( ̄▽ ̄;)。私は以前のハイソな雰囲気が好きだった。。

 

 

さて本作は近代中国史に大きな影響を与えた宋靄齢・宋慶齢・宋美齢の宋氏三姉妹を描いた1997年制作の香港・日本合作の伝記映画である。三姉妹は、印刷業から財を成した浙江財閥(金融王)の一人で、孫文の辛亥革命を支援した宋嘉澍の娘である(六人兄妹であるが三姉妹に焦点が当てられている)。三姉妹はそれぞれ中国近代において重要な役割を果たした孫文・孔祥熙・蔣介石と結婚しており、中国近代史において重要な役割を持った姉妹である。

映画「ラストエンペラー」は、清王朝の崩壊を最後の皇帝である溥儀の立場から描いていたが、本作は孫文や蔣介石など革命を推進した側の立場から、中国近代を垣間見ることができる。日中戦争後はかなり端折り気味で、もう少し前半を短縮して日中から文化大革命までを描き込んでも良かったのではないかと思う。

1997年とそこまで古くは無いはずだが、音声や演出などに古めかしさを感じる。映画というよりテレビドラマのクオリティ。とはいえ、意外と良作なので中国近代史に興味がある人にはオススメしたい。

それにしてもマギー・チャン目当てだったが、「クレイジーリッチ」や「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」で有名になったミシェル・ヨーの若いところが観れて眼福。宋慶齢役のヴィヴィアン・ウーは映画「ラストエンペラー」の文繡役。豪華な出演陣にも注目である。
 
★ 3.6 / 5.0
 
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それにしても渋谷は様変わりしたよね。私の学生の頃(もう10年近く前)だとほんと渋谷ヒカリエぐらいしかなかったけど。それにしてもほんと渋谷は外国人が多くて「ここ日本だよね?」ってなってしまう。

先月末、英国王室が2022年4月から2023年3月までの王室助成金に関する会計報告書を発表した。スタッフの賃金にジェンダー格差があることが発覚、物議を醸している。問題になっているのはチャールズ国王とカミラ王妃、それぞれの私設秘書の賃金格差。国王の男性秘書クライブ・アルダートンは年収20万5,000ポンド(約3,700万円)から21万ポンド(約3,850万円)であるのに対して、王妃の女性秘書ソフィー・デンシャムは9万ポンド(約1,650万円)から9万5,000ポンド(約1,740万円)である。その差、2倍以上。ーーELLE(出典

 

英国王族の私設秘書の給料格差が報道されているが、秘書間の格差よりその額に驚かされてしまう。国王の男性秘書クライブ・アルダートンは年収20万5,000ポンド(約3,700万円)から21万ポンド(約3,850万円)だそうだ。クライブ・アルダートンは施設秘書といっても高校卒業後に外務省に入った元外交官である。

 

ちなみに、彼はRoyal Victorian OrdeのKnight Commander受章しており、"Sir"の称号がつく。英語では、"Sir Clive Alderton KCVO"と書くのが正しい。"Sir"を"卿"と翻訳しているケースがあるが、卿は男爵位以上の貴族につける"Lord"の訳語として定着しており、妥当ではない(Sirの称号の人は貴族ではないので混乱を招く)。訳語はないので、そのままサー・クライブ・アルダートンが良いと思う。

 

日本は公務員なので一概に比較できないけれども、日本だと特別職の宮内庁長官が年収約2,797万円、侍従長約2,385万円となっている。為替レートの問題もあるが、それにしても日本の給料は安い。

 

その他、英国の高位役職の給料をみてみると次のとおりである(LINK)。

・ロンドン警視庁警視総監:28万489ポンド(約3702万円)

・ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン学長:37万6190ポンド(約4965万円)

・公正取引局最高責任者:27万7500ポンド(約3663万円)

 

日本で相当する役職者は次のとおりである(LINK)。

警視庁警視総監:約2313万

東京大学総長:約2405万円

公正取引委員会委員長:約2,797万円

 

為替レートの問題もあるが、だいたい1000万円程度安い。そうというのも先進国では年収があがっていないので当たり前である。名目賃金では無残に一人負けである。

出典:厚労省「令和4年版 労働経済の分析 -労働者の主体的なキャリア形成への支援を通じた労働移動の促進に向けた課題-」

 

日本は解雇規制が強いために整理解雇ができず、余剰人員を抱え込まざるを得ず、新規事業への投資などが機動的に行えない。専門性が高い人材も、その専門性が陳腐化した際に解雇できないので、専門性が高い人材ではなく、日本企業ではゼネラリストが重宝される。そのため大学院を出て専門性を身に着けるメリットもないので、日本は大学院卒が先進国の中では少なくなっている(人口100万人あたり修士号取得者数は英米仏などの3分の1未満である)。社内は解雇されず年功序列なので頑張っても給料に反映されないので、スキルや労働生産性を高めるメリットに乏しく、だったらダラダラと働いて残業代で稼いだ方が割がいい。結果的になんのスキルもない、何の意見もなく会社にひたすらにしがみつく働かない無能な正社員が量産される。最近おまけにパワハラなどのコンプラ意識も強いので、何の指導もされない若手も多い。日本企業は構造的に無能を量産するよくできた装置である。日本社会はぬるま湯な社会だが、犯罪比率も低いし、給料も安いが物価も安いので暮らしやすいし、食事は美味しく、国内は北国から南国まであり風光明媚な場所も多い。

 

日本衰退論は根強いし、実際、衰退しているが、特にラディカルに何か変化を興そうという社会的な機運は無い。このままユーラシア大陸の隅っこの平和でそこそこ豊かな島国に甘んじるのもそれはそれでありなのではないかと思う。あまり報道されてないが、フランスでは検問中の警官が17歳の少年を射殺した事件がきっかけに暴動が起きている。過激な抗議はフランス文化だが、大人しく衰弱していくのが日本文化なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

20世紀に入り、様々な国で、王制は廃止されて、現在において地球上で王制(相当する天皇制などを含む)を維持するのは26か国程度である。世界200か国あるとすると1割ちょっとしかない。これは古い制度で、民主的な共和制こそが優れた政治制度であるという人もいるが、そうだろうか?一人当たりGDPで、上位層に位置するルクセンブルク、リヒテンシュタイン、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アラブ首長国連邦、イギリス(ニュージーランド、オーストラリア、カナダ等含む)、スペイン、ブルネイなどは全て君主が国を統治している。なぜ行き遅れの政治制度の国は経済的に豊かなのだろうか?

 

時代遅れの制度とみられがちだが、君主制は、その政治的な機能だけではなく、様々な要素によって成り立っている。それは歴史の風雪に耐えた正統性でもあり、民族的な象徴性でもあり、ある国においては宗教性でもある。本書では各国の王制の歴史などを振り返りながら、立憲君主の現在の有り様を浮き彫りにしていく。興味深いのはドイツの例である。英国外相ベヴィンは、ドイツは皇帝という象徴が退位したことで、ヒトラーを生み出すという心理的な門を開いてしまったと嘆いたという。君主制とはその機能的な側面に着眼すると、他の政治制度に機能を移管すれば、君主制は不要という結論になりえるが、しかし、君主制は必ずしも政治・行政的な機能を持つだけではない。北欧諸国において、君主が反ナチの象徴となり、国家統合に寄与したことが本書でも言及されているが、この点は我が国において理解しやすいだろう。何やらすごい人が我が国の君主だという意識が国家を統合しているのだ。

 

もちろん、君主制が完全な制度でもなければ、君主を廃した国家が誤っていたという気もない。しかし、君主制が存続している国において、君主制を廃止することは合理的か否かはよく検討されるべきだと思う。血統の裏打ちの無い僭称の跋扈と政治的な混乱をもたらすかもしれない。君主制は一朝一夕にできた制度ではなく、その歴史的な重みを踏まえる必要がある。一見すると旧態依然の君主制について再考させてくれる良書であった。