北村朋幹氏のピアノコンサートへ行ってきた。場所は代々木上原にあるMUSICASAという小さな音楽ホール。コンクリート打ちっぱなしのモダンな空間まがら、外光がほどよく採り込まれ、温かい空間となっている。故鈴木エドワード氏の設計だそうだ。素敵なホールなのだが、椅子が会議室とかにある移動式の椅子なのでお尻が痛くなりますね ( ̄▽ ̄;) 意図せず勝手に増量中のアラサーにはなかなか辛い汗。ピアノはベーゼンドルファーだったが、私は好みではない。音の響きは良いホールのはずだが、ピアノの周囲にも席があって、人が音を吸収してしまうせいか、響きが物足りなく、やや淡泊な印象。ただ住宅街に溶け込んでひっそりとある音楽ホールはなんとも素敵だった。

 

北村朋幹氏の演奏はテレビの「題名のない音楽会」で知っており、ラフォル・ジュルネ・オ・ジャポン(LINK)で生で拝聴して、気になっている若手ピアニストである。若手登竜門の東京音楽コンクールで第1位入賞、さらに浜松国際ピアノ・コンクール第3位及びシドニー国際ピアノ・コンクール第5位に入賞している。さらに名門リーズ国際ピアノ・コンクールでは第5位入賞を果たしている。かなり独自の音楽性を磨いている内省的なピアニストで、さらなる円熟に期待である。

 

(前半)
ドビュッシー:ピアノのための練習曲第8番「装飾音のために」
ガルデッラ:高地のソナタ(2021)
ショパン:舟歌 op.60
 
(後半)
リスト:巡礼の年 第2年「イタリア」S.161
 
(アンコール曲)

ドビュッシー:アラベスク 第1番

 

ちなみに、カルデッラ(Federico Gardella)は、日本語ではほとんどヒットしないが、イタリアの存命の作曲家で、公式サイトはこちら。2012年に武満徹作曲賞で第1位に入賞しており、また、日本人作曲家の細川俊夫との出会いがかなり彼のキャリアに影響を与えたらしく、日本にゆかりのある作曲家である。「高地のソナタ」は、「ソナタというものを”高知で”、つまり我々がホとんど感知できないような場所に響くような音楽」とのこと。「”言語を形成するというよりは、独自の声としての方言の”響きなの」だそうだ。2楽章から成るが、それらは「対立するものではなく、その古風な方言を用いることによって沈黙に語りかけることが出来るであろう、という想像を試みる同じ素材を、異なる視点から観察し、対象的に組み立てたもの」だそうだ(青字はコンサートの配布プログラムから引用)。コロナ禍において、外出できない環境にあって、高い山で自然と触れ合える場所にいたかったという経験が反映されているようだ。非常に高音部の響きや時折に響く低音部が印象的だったが、音楽の素人の私が言語化るのには難易度が高い。

 

全体的に北村朋幹氏の演奏は派手さはなく素朴で、真摯に音楽に向き合って、自己の音楽観を極めているようである。それゆえに内省的。技巧は素晴らしいが、あくまでも音楽表現が主眼にあり、決して見せびらかすようではない。思索的で哲学的な印象を受ける。まだまだ若いが今後の成長が期待される。コンサートピアニストとして人気を博すのではなく、独自の音楽観を追求するタイプの研究者肌のピアニストになるだろう。

 

これは痛快!!

バービー人形の実写版ということで子供向きかと思いきや、大人向けのコメディで、おまけにブラックなスパイスがなかなか効いてるし、映画のパロディなど教養も試される(「2001年宇宙の旅」「マトリックス」「オズの魔法使」など)。

表面的な映像などだけでも面白いが、ブラックユーモアを解する大人向け。「天然痘にやられた先住民と同じで免疫がないのよ!」とか笑っていいのか微妙なラインだったと思う笑。楽曲も良くラストのビリー・アイリッシュ 「What Was I Made For?」がほんとしんみり響く。娯楽、社会風刺、メッセージ性、エンターテインメントなどが絶妙に構築された良作。

もともとバービー人形は、何者にもなれるリベラルな女性の象徴でもあり、男性優位社会における自由な象徴でもあった。それゆえ、バービーの世界は女性優位の世界観となっている。しかし、本作はバービーの世界観と現実(男性優位社会)が行き来しており、そのバービーの世界観を描いた企業は男性が支配している現実も存在する。バービーの企画企業は女の子の理想郷を描いたゆえに、男性キャラがないがしろになっており、そのバービーの世界で男性はモヤモヤを抱えている(それの代表がケンだ)。この、女性はこうあるべき、男性はこうあるべきという世界観が、あちこちでせめぎ合あっているのが面白い。そして、そんな女性優位も男性優位もまるごと笑い飛ばしているのが本作だ。

本作の主人公の白人のブロンドのバービーは、理想世界では理想的女性だが、現実世界では軽薄な尻軽的な描かれ方だ。しかし、実際は「ファシスト(全体主義者)」の意味を理解し、「プルースト的」(フランスの作家プルースト「失われた時を求めて」の 無意識的記憶)みたいな難解な表現を使ったりと、とにかく決めつけと実際の差を見せつけてくる(主人公のバービーは自身を理想的(≒ブロンドの日焼けした人は頭が良くないというステレオタイプ)だと思って演じている)が、実施は周囲が求めるほどはバカではないどころか、知性派だったりする。最後の作戦では、男性の傾向(これ自体も凄いステレオタイプ笑)を把握し戦略を立てている。

一方で、ケンは、バービーの理想世界は取るに足らない存在であるが、男らしさに憧れており、男性優位社会に拘泥している(現実の世界は男社会だから人形世界は女性優位の世界観で企業は販売したが、その世界観では男性の人形は不満を持っているという重層的な描き方だ)。とにかく、ケンはバービーの付属品という扱いに辟易している。男性・女性のいずかれが優位となる世界観は、結局のところ個性を無視して、ただその性別イメージに服従させ、息苦しいだけなのだ。

本作は男性・女性という性的カテゴリーとそのステレオタイプの問題を抱える社会を皮肉たっぷりに風刺しつつ、個人の自己実現を絶妙に主張しており、そこにエンターテインメント性や楽曲の良さも加わって、素晴らしい出来栄え。

マーゴット・ロビーははまり役。アメリカ・フェレーラは「アグリー・ベティ」の主人公役だったが、こちらもいい味。ライアン・ゴズリングが、イケイケの俳優役なんだが、哀愁漂ってる。42歳にはきつい役かなと思いつつそれがいやにリアル笑。中華系のシム・リウは相変わらず、良いわき役を役を演じてる。

あまり日本ではヒットしていないが、アメリカでは批評家の評価が高いだけあって面白い。お気楽コメディを期待する人ばかりではなく、コアな映画ファンにもぜひ観てほしい一作である。

 

 

 

★ 4.0 / 5.0

 

 

エルメスは最も贅沢なブランドの一つである。定番の鞄などは100万円以上の価格帯であり、庶民にはなかなか届かない価格帯である。そんなエルメスのエスプリ、経営方針、歴史などから多角的に分析したのが本書である。本書は、さらに日本のブランド消費傾向をも射程に入れブランド論を展開しており、読みやすいがなかなか示唆に富んでいる。ちなみに、著者の戸矢理衣奈氏は、東大卒で現在は東京大学生産技術研究所の准教授であり、学術的バッググラウンドはたしかである。2004年が初版で20年ほど前の本であるが、エルメス入門書として読みやすく人気なのか、重版を重ねている。私が読んだのは、2012年の6刷である。

 

それにしても、冒頭で、エルメスの定番の鞄は50万円以上と書いてあり、2000年代前半はそんな値段だったのだと驚かされる。その価格帯であれば、大手企業の若手のOLでもボーナスをつぎ込めば手が届いただろう。ただ現在ではその倍以上はくだらない。日本はここ20年給料が上がらないどころか、増税で手取りが減っているので、ラグジュアリーブランドはどんどん高嶺の花になりつつある。基本的にラグジュアリーブランドは為替の影響はあるが、世界中で販売価格を平準化しているので、欧米のインフレする物価にあわせて日本の販売価格も上昇してしまう。おまけに新興国でもラグジュアリーブランドは人気が高く、特に量産できないエルメスなどの贅沢品は、需要と供給の関係で、値段が吊り上がっていく。2000年代前半の「どこが不況なの?」というほどの日本の購買力は、着実にここ20年で失われたのだなとしみじみしてしまった。

 

それにしても著者はエルメスに取材を申し込んだが、お断りされたそうだ。エルメスはその品質の高さや伝統ゆえに人気があり、マーケティングは行わないということだそうだ。「エルメスはブランドではない」(p.14)とまで言い放つ高踏的な態度はさすがというべきだろうか。このスノッブともいえる態度が、逆にエルメスというステータス性を強化している側面はある。実際、バーキンやケリーなどの人気のバッグはお得意様にならないと見せてすらくれない。

 

エルメスがここまで価値があるのは、職人の手作りであり量産ができない希少性と、その職人の高い技術に支えられた品質、フランスや上流階級のイメージなどが源泉である。伝統あるメゾンでありながら、保守的過ぎず、新しいデザインを取り入れたりと革新的でもある。実は機能性も重視しており、世界初のファスナーバッグを開発したのはエルメスだったりする。イメージ論でいえば、元女優でモナコ公妃グレース・ケリーや、歌手で女優のジェーン・バーキンに名前が由来する鞄など、その名前の持つ世界観も魅力的だ。しかし、一方で、「第6章 エルメスのエスプリ」の記述は興味深い。エルメスのデザインに残虐的だったり、破壊的なモチーフがと入れられていたりするのは個人的には驚いた。

 

それにしてもなぜエルメスは日本で人気なのだろうか?おそらくだが、欧州はまだ依然として階級社会が残っており、労働者階級や中産階級はわざわざエルメスで買い物をしようとは思わない。イギリスだと発音が階級によって違うので、労働者階級の発音で、ラグジュアリーブランドを持っていると成金か気の毒な見栄っ張りに見えてしまう。特にイギリス、スペイン、デンマーク等では公的に貴族制が存在するし、フランスやドイツでも爵位は民間の活動して承継されていっている(ちなみに、バイエルン王国のヴィッテルスバッハ家は現在でも玉座を失った代わりに基金から年間1400万ユーロ(約22億円程度)を受け取っており、経済的な地位は確保されていたりする。)。

 

日本は戦後に財閥が解体され、華族制が廃止されて上流階級が消滅し、総中流社会となったため、自己の社会的なステータスや社会階層や成功を示す手段(記号)として所有物のブランドが機能しているのだ、というのが私の見立ててである。アジアでこれ見よがしなブランドが好まれるのは、アジアの多くの国で階級社会ではないからだ。

 

ただ無知蒙昧に、その経済価値に拘泥して、その価格のヒエラルキーにこだわるのは、あまりにも消費者として幼稚であると思う。著者は、「やや極端な『ブランドブーム』は、同質的な閉鎖的社会から異文化交流型社会へと向かう、文化・社会面でのひとつの制度変化の過渡期にある現象」(p.166)だといい、「今後こなれていくものだと考えられる」(p.166)と指摘する。しかし、正直、本書の初版から20年経過しても成熟したかという、首をかしげてしまう。”今後に期待である” と締めくくりたいところであるが、日本経済の停滞と、ラグジュアリーブランドの価格上昇で、日本市場は今後緩やかに衰退していく。消費文化が成熟しないまま、経済的貧困というかたちで「ブランドブーム」が終息するという悲劇的な近未来しか見えないのが辛いところである。

 

渋谷のル・シネマで「ソウルに帰る」を鑑賞。カンボジア系フランス人の映画監督ダヴィ・シュー(Davy Chou)の作品。「ダイアモンド・アイランド」で長編映画デビューしている。彼の作品を観るのは初である。

主人公は、どこか影があり、孤独を紛らわすように享楽的になったり、突拍子もない行動をしてみたり、周囲にとげとげしい態度を取ったりする。近しい関係になれば突き放し、遠く離れると近づきたくなる。これは養子に出された過去が影響しているのか、はたまた生まれつきそうなのかは分からないが、前者の影響が強いと想像する。この人間関係の遠さと近さの態度の違いが非常に上手く描き分けられている。

外見から典型的な韓国人と言われる一方で、彼女はフランス人であることにこだわっている(自分を捨てた親の国の人間ではないという反発心だろう)。この自己の不安定なアイデンティティが、周囲への態度として現れているように思われる。彼女の態度はいずれも自己承認欲求の裏返しなのだ。

冷淡な態度をとってもそばにいてくれて、離れていっても遠くから想っていてくれる、そんな存在。本来はそれが親であるが、彼女の場合、養子に出されているので、生物学上の親と、育ての親という2つの存在がある。血のつながりはあるが、国籍も価値観が違う生物学上の親と、同じ価値観を共有するが血のつながらない親。その両者の間で彼女はもがいているのだ。前者とは外形的なコミュニケーションがうまくいかず、後者とは心理的な葛藤を抱えている。

結局、映画の冒頭で、初見演奏のくだりがあり伏線となって、ラストではそれが回収されている。なんと哀愁漂うラストだろうか。どこかこの退廃的というか倦怠感のあるような独特の雰囲気や、映像の色彩感が、明らかに本作が持つグルーヴ感は異なるものの、ウォン・カーワイを連想させた(というと、想像力が豊か過ぎるだろうか)。的外れな見方かもしれないが、主人公は、現代人の持つアイデンティティの不安定さの象徴であり、監督は見事に現代的なグルーヴを描写しているように思われた。

 

 

★ 4.0 / 5.0

 

ジンバブエにおける選挙腐敗を描いたドキュメンタリー。ロバート・ムガベが大統領をしていたといえば知っている人も多いだろうか。経済政策に大失敗し、1,000%以上のハイパーインフレを起こし、100兆ジンバブエドル紙幣も登場して話題になっていた。現在は廃止されている。米ドルの他、日本円、中国元、豪ドル、インド・ルピーが流通しているそうだ。

さてムガベ大統領はクーデターで失脚したが、側近だったムナンガグワが大統領に就任。その再選がかかった選挙において、対抗馬の若手弁護士ネルソン・チャミサを追ったのが本ドキュメンタリーである。

それにしても選挙不正や対抗馬への嫌がらせはなかなか酷い。体裁だけ民主主義を採用しているが、投票数の大胆な捏造など、滅茶苦茶である。結局、チャミサが最高裁に訴えるも主張は認められない。

よく結果が重要という人がいるが、手続きに瑕疵があれば結果が異なってくるので、手続きも重要であることが、本作を観て痛感させられる。果たして自由民主主義がジンバブエに根付く日は来るのだろうか?

ジンバブエは資源が豊富だが、それゆえに他国の介入を招き、また、安易に資源輸出に依存して、他の産業が育たないなどの弊害がある。また、豊富な資源の収入が利権となり、独裁者を生んでしまうのだ。資源が豊富なほど経済的に立ち遅れることを「資源の呪い」や「豊富な資源のパラドックス」といったりするが、ジンバブエはそのケースに該当する。果たしてジンバブエに自由民主主義は根付くのだろうか・・・?まだ対抗馬のチャミサが拘束されたりしていないため状況は他の独裁国家よりはマシかもしれない。

それにしてもジンバブエはもともと英連邦に属していた。だからジンバブエのインテリは英語を話すし、最高裁の判事は英国判事と同様に白いカツラをかぶっている。すでに英連邦から離脱しているが、こんなところに植民地の名残りがあり、興味深かった。

非常に骨太のドキュメンタリーだった。上映館が少ないがアフリカに興味があればオススメしたい一本である。

 

★ 3.9 / 5.0