公開当時に話題になってた作品。インドネシアの9・30事件を扱ったドキュメンタリーである。9・30事件はスカルノ大統領が失脚した事件で有名である(当時大統領夫人だったデヴィ夫人もこの事件の巻き添えになりかけ、その後フランスに亡命している)。この際、100万人が共産主義者”として”大虐殺された。ポルポトは200~300万人を虐殺して有名だが、インドネシアは反共の名のもとアメリカのバックはあったので、この事件自体が有名ではない。ちなみに、加害者は誰も裁かれていないし、今では英雄視されているし、金持ちになっている。監督はアメリカ人だが、アメリカは反共という点でインドネシア寄りなので加害者側は英雄である自分を撮ってくれていると思って、(大虐殺の)武勇伝を嬉しそうに語っていく。

 

このドキュメンタリーの異色なのは、大虐殺の加害者側がクローズアップされている点である。本来は、被害者にインタヴューする予定が、被害者が表に出たくないというので、虐殺に関わった加害者を取材し、自分たちでその虐殺行為を演じてもらい、映画を撮らせる手法を取っている。タイトルはそのまんま「アクト・オブ・キリング(虐殺の演技)」である。

 

感想だが、観なければよかったというのが率直な感想。個人的な「観なければ良かった映画ランキング」で堂々のトップ3には入る(他2つは「ボーイズドントクライ」「チェンジリグ」)。別に残虐なシーンがあるわけではない。しかし、観ているうちに何が正しくて、何がおかしいのか、自分の持っている倫理観の枠組みが崩れ去っていく感じがする。加害者がひたすらに自己の行為を正当化するならまだ頭がついていくが、加害者も自己が被害者役を演じたりする中で心情に変化が起きていくので観客は二回、三回と価値観を揺さぶられるので、精神にくる。

 

加害者は共産主義者を殺したことを名誉なことだと思っており、映画序盤で早々に針金でどうやって殺すのかを自慢げに語っていく。最初はなぐり殺していたそうだが、血しぶきが出るので針金で首を絞めるようにしたという。加害者の男性の一人は「当時付き合っていた女性の父親も華僑だからちゃんと殺したよ」と笑いながら言い、現地のこの加害者たちがつくる映画を取材する国営放送のアナウンサーも「効率的な殺し方を発明したとか?」と嬉しそうに質問、事件の主体となった団体の青年の一人は「当時は俺たちが法律だったから強姦しまくった」と自慢げに話す。映画中も華僑の店主に金を出せと迫ったり、逆に選挙に出馬した人が街へ出ると市民が金をくれないのか?(賄賂を寄こせ)と言い寄ってくる。何が正しいのか、何が普通なのかわからなくなってくる。当人たちは大真面目なのかもしれないが、あまりも馬鹿馬鹿しいシーンもあり、観ている側も「ハハハ」と思ってしまうが、その笑っている自分にゾッとする。

 

ここで命すらも相対的な価値に過ぎないと、相対主義の頭に切り替えることも可能だ。しかし、加害者の中にも、自分が被害者役を演じてから心情に大きな変化が生じる。村を焼き払うシーンでは、被害者の子供を演じる子役をみて「親が殺されて子供はどうするんだ」「殺した人を恨み続ける」のかと自問する。映画をつくる中で、まるで自分たちが悪者にみえて、共産主義者は極悪人じゃなかったことになるんじゃないかと迷い始める。最初、針金で人の殺し方を話していた加害者の男性は、映画の最期、被害者を拷問・殺害した場所で思わず嘔吐する。千数百人も殺したと誇らしげだったのがウソのよう。

 

本作は何らかの特定のメッセージの拡散などは目的ではないが、観終わった後で、価値観がグルグルすることだろう。インドネシアは人口世界4位で、ジャカルタは大都市である。しかしながら政治的にはまだまだ未成熟なのだとよくわかった。これが東南アジアの現実だ。籠池のニュースが終わったと思ったら、毎日毎日、獣医学部設置の問題が延々と続いてる日本はなんと平和だろう。ゴールデンタイムに本作を放映してみたらいかがだろうか。少しはリテラシーが上がるかもしれない。

 

テレビをつけたらいきなり「このハゲェェ―――」と絶叫する声が流れてきてビビったのだが、声の主は自民の豊田議員(離党済み)。秘書に絶叫しまくり、おまけに暴行まで加えていたという(顔に違和感があるほどに殴ったらしいので「傷害罪」である)。さらには叱責する際に、その秘書の娘が車に轢き殺される話を持ち出したりしていたという。何か行為を強要していたのであれば強要罪が成立する立派な犯罪だ。過去には招待されていない人を天皇皇后両陛下主催の園遊会に連れてきて入場させようとしてトラブルを起こすなどしていたらしい。この方は東大法学部卒だが、大学では刑法を勉強していないのだろうか。

 

そんな中で、この秘書にも問題があるという意見が出てきている。例えば次の記事によると、支援者へのバースデーカードの宛先等を秘書が間違えたため、議員が激高したらしい(そしてそれが録音された)。

豊田真由子議員が激怒するに至ったスタッフの「重大なミス」の詳細

 

こうした秘書のミスを知った人が、SNS等で「秘書も悪い」などと言い出しているので驚いた。この豊田議員の事務所は4年半でスタッフ100人が辞職したという。何人のスタッフがいるか分からないが、例えば公設秘書3人と私設秘書3人として、半年で全員辞めて入れ替わるとしても、合計で54人の入れ替わりにしかならないから、もっと短いスパンで秘書などが入れ替わっていたことになる。こんな事務所で、まともに支援者の名簿などの管理ができていたとは到底考えられない。これだけ人の出入りが激しい場合、業務の引き継ぎなどもちゃんと行われていたとは考えにくい。結局、議員は事務所を経営する側なので、従業員がすぐに辞めたり、業務でミスが発生するのは議員側の責任であって、秘書を責めるのは筋違いである。

 

こうした「秘書にも問題がある」という言説は、様々な場面でみられる。学校のいじめ問題でも「いじめられる側にも問題がある」とか、強姦された女性に「派手な格好をするからだ」なんていう人は珍しくない。発言者は加害行為に若干の正当性があったかのような含みを持たせる。しかし、犯罪を行う場合に「○○だから犯罪をしました」といえば、下線に入るのはもちろん「犯行動機」である。先の例をこれの文章にあてはめると、「相手がキモイのでいじめました」、「派手な恰好しててそそられたので強姦しました」、「秘書がミスしたので罵声を浴びせて暴行しました」となる。何が言いたいかと言えば、被害者の側の要素を持ち出して自己の正当化をしようとする人は、単に犯行動機を述べているに過ぎないことに気が付くべきである。

 

こうしたミスした人を責める論理はブラック企業にも根強い。労働環境が明らかに悪く、それゆえにミス等が発生しているにも関わらず、ミス等を労働者個人の問題に矮小化し、責任を押し付ける。ブラック企業の問題になると声高に企業を批判するのに、こうした問題になるとミスした秘書を責める思考回路は非常に不思議である。

 

いまでは録音・録画技術も上がっている。犯罪の証拠は容易に残せる。いままでは泣き寝入りしていたことも証拠を残せば警察も動く可能性が高まるし、裁判でも勝ちやすくなるし、権力者とも戦える。我々は賢くならなければならないことを、今回の事件は教えてくれている。会社におけるパワハラでも録音は良い証拠になる。SNSをみていると無断録音は証拠にならないと間違ったことを言っている人がいるが、民訴法上は、証拠能力に制限はないから無断録音でも基本的にかまわない。スマフォとかの録音機能はちゃんとチェックしておいた方が賢い。

昨日は「ソール・ライター展」を観た後で、アカデミー外国語映画賞を受賞した「セールスマン」を観た。イランのアスガー・ファルハディ監督の作品である。彼の作品で有名なのが、「別離」であろう。「別離」はイラン人夫婦の複雑な心理と、イラン社会が抱える問題をあぶり出した傑作で、ベルリン映画祭で金熊賞・銀熊賞を受賞した。本作は、アカデミー外国語映画賞の際に、トランプ政権に反対し、監督などが授賞式をボイコットして別の意味で話題になった。

 

新居に引っ越してきた演劇家の夫婦。彼らはミラーの「セールスマンの死」の舞台を控えている。そんな時、夫が不在中に、何者かが家に侵入し、妻が怪我を負ってしまう。妻は後遺症に苦しむ。誰が何の目的で襲ったのか。夫は犯人探しに精を出し、復讐を思いつく・・・。

 

事件が起きてからその後はやや展開が緩慢に思えたが、しかし、ラストの犯人への復讐シーンは、見事な緊張感に包まれ映画に見入ってしまう。夫、妻、犯人、犯人の家族、それぞれの心理が交錯し絡み合う場面は緻密に構成されていて見事である。

 

興味深いのは、映画中、主人公夫婦の舞台「セールスマンの死」のシーンがるが、それが映画のストーリーにリンクしてくる手法である。なぜ「セールスマンの死」の舞台なんだ?と思っていたが、ラストでその伏線を回収している。「セールスマンの死」は第二次世界大戦後のアメリカであるが、これは近代化するイランへの比喩だという。

 

「チャドルと生きる」という2000年のイラン映画だと、抑圧されるなかで必死に生きる女性が描かれている。それから20年近くが経過し、イランも近代化の波がきている。本作の主人公の女性は演劇の役者もこなす文化人であり、部屋には大きなテレビもあり現代的である。しかし、物質的に豊かになっても、ある場面ではとても保守的に動いてしまう。一方、映画中、夫がいなければ生きていけないという老女性も登場する。この女性像の違いは非常に対比的で興味深い。本作が描こうとした旧社会と現代社会への移行期に生じる軋轢であろう。こうした社会問題をベースに、人間の複雑な心理を描き出しているが、重層的で緻密に構築され、何とも見事な作品であった。

 

どうでもいいが、Bunkamuraの映画館で観たのだが、客席に傾斜が無さ過ぎて前の人の頭で画面の一部が観えなかったのが残念だった。良い作品をやってる上質なミニシアターではあるが、客席の仕様はなんとかしてほしい。

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SNSで同期が良いと言っていた「ソール・ライター展」が気になったのでいってきた(渋谷Bunkamuraで開催)。ソール・ライターは、ニューヨークのユダヤ人写真家で、1923年に生まれ2013年に没した。もともと「VOGUE」など商業写真で活躍したが、1980年代に突然商業写真から手をひき世間からも消す。彼はその間、NYの街角を撮り続けていた・・・。その後、2006年に彼の写真集が出版され再び注目を集め、ドキュメンタリーも作成されたという人物。

 

11時頃行った時点でそこそこ混んでいて、チケット売り場も6~7人が並んでいた。その後、14時頃にみたら30分待ちになっていて驚いた。知名度はそう高くないと思うのだが、かなり人気らしい。写真を撮る行為は、数十年前は写真家や一部のカメラ好きが行える行為だったが、スマートフォンのカメラ機能の向上で写真は誰しもが楽しめるものとなったので、彼に興味を持つ人が多いのだろう。

 

彼の作品は、曇った窓ガラスごしに撮った写真など、淡く絵画的なももが多い。そして色の対比が美しい。真正面から撮ることはせず、あえて余計なもので画面を埋めるなどの構図はあまりに大胆。彼の写真には人物がメインのものもあるが、多くの写真では、人はそこはかとなく映っているに過ぎない。なんとも独特の写真である。

 

こうした彼の作風は、彼がもともと画家志望だったことに由来するらしい。フォトグラファーは、光で描く人という意味であるが、彼はその通り、光でNYの街角を描写した。彼はナビ派の画家が好きだったことから、「ニューヨークのナビ派」と言われるという(ナビ派は、19世紀末にパリで活躍した前衛芸術家集団である;前行ったオルセーのナビ派展の記事)。他にも大胆な構図は日本の浮世絵の影響を受けているらしい。展示会では彼の絵画作品も展示されているが、たしかにナビ派の影響が大きいように見受けられた。

 

壁に書かれている彼の言葉もなんとも興味深い。

「写真を見る人への写真家からの贈り物は、日常で見逃されている美を時々提示することだ」

「人間の背中は、正面より多くのものを私に語ってくれる」

「私が写真を撮るのは自宅の周囲だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも、地球の裏側まで行く必要はないんだ。」

 

昨今SNSのインすタグラムでは日常の風景をアップする人が多いが、やっと時代が彼に追いついたということだろうか。

 

◆参考:『写真家 ソール・ライター展』をレポート NYの片隅で人知れず写真を撮り続けた、伝説の写真家の秘密に迫る - 展示会での写真も多く掲載されているページ。

 

P.S

ソールライターのドキュメンタリーも観てみた。本当に世間から逃れて隠居生活のような生活の中で写真を撮り続けたようで、ドキュメンタリーを撮られることもうっとうしいようである。一人でいいのは「Why?」と聞かれないことだという。なぜこうするの?なぜこう撮ったの?等。稀有な才能の持ち主は直感で行うのであり、説明を求めるのは野暮なのだ。彼の生い立ち等にも迫ってほしかったが、彼は自分をそこまで語りたがらないので、ほとんどソール・ライターのモノローグのよう。1時間20分ほどの作品なので興味があれば観てみると良いだろう。

 

 

 

青柳いづみこさんの本を読了。青柳さんはピアニストで文筆家で、先月、講演会にも行ってきた(その時の記事)。本書はドビュッシーに関する本だが、やはり興味がないのか、ドビュッシーの話はなかなか頭に入ってこない・・・。

 

本書で興味深かったのは、演奏法の2つの流れである。1つの流派は現代的なピアノが確立した時期19世紀に生まれた演奏法である。この当時はロマン主義音楽全盛期で、演奏家はその時々の霊感によって自由にテンポルバートし、楽譜にない音もつけたしたそうだ。リストが他人の曲を派手な技巧で演奏したことはよく知られる(シューマンの奥さんのクララは、シューマンがクララに捧げた愛らしい歌曲「献呈」を、リストが超絶技巧を使ってド派手に弾くのを聞いて憤慨したとか)。ピアノ経験者は「楽譜に書いてある通りに弾きなさい」と言われた人も多いだろうが、19世紀的な演奏をするピアニストは、全然楽譜通りに弾かないし、ましてドビュッシーなどの作曲家は自身も楽譜通りに弾かなかったという。

 

一方で、そうした自由奔放さが行きすぎると、作曲家の意図が反映されていないという批判も出てくる。その文脈で生じたのが「ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)」に基づいた演奏法である。主観主義を排し、楽譜に忠実に弾こうとつとめる。そのためにテンポを守り、楽譜に書いていない音など弾かない。日本ではピアノ教育界の重鎮である安川氏や井口氏が欧州でこの演奏方法の教育を受けたので、日本では後者こそが正統な演奏だという意識が広まってしまった。ちなみに、ピアノコンクールが出来始めた時期がこの新即物主義と重なっているので、コンクールでは楽譜通りに弾けることを重視する伝統があるという。

 

ポリーニやアルゲリッチによってピアニストに求められる技巧水準は飛躍的に上がった。結果、国際コンクールでも完璧に楽譜通りに弾けるというコンテスタントは多く、その上でいかに自分の解釈を加えて演奏するかが重要になっているという。日本人ピアニストは皆同じように弾いて機械のようだと言われるのは新即物主義の呪縛だろうか。

 

楽譜通りに弾かないとダメと狂信的に信じるのは、作曲家の意図は楽譜に余すことなく書かれていることを前提にしている。一方で19世紀的なロマンチズムの演奏家は、作曲家がその時々の霊感によって得られた音を、正確に一音漏らさずに楽譜に書いたとは考えない。だからこそ、霊感に従い音も加えるし、自由にテンポルバートするのだ。

 

よくコンサートでもミスタッチに異常に固執する人がいる。もちろん、ミスタッチはないほうがいいのかもしれないが、重要なのは些末な音のミスではなく、演奏によって立ち現れる音楽の霊感である。いまや正確無比な自動演奏ピアノを自宅でも楽しめるが、コンサートに通う人は途絶えない。それは物理的な音をただ聴いているのではなく、演奏家によってその瞬間に生まれる音楽の霊感を聴いているからに他ならない。フジコ・ヘミングのようなヴィンテージ・ピアニストはたしかに技巧的に拙いこともあるが、高い人気がある。それは彼女の数奇な人生を反映した音楽の霊感が人を惹きつけるからであろう。