青柳いづみこさんの本を読了。青柳さんはピアニストで文筆家で、先月、講演会にも行ってきた(その時の記事)。本書はドビュッシーに関する本だが、やはり興味がないのか、ドビュッシーの話はなかなか頭に入ってこない・・・。

 

本書で興味深かったのは、演奏法の2つの流れである。1つの流派は現代的なピアノが確立した時期19世紀に生まれた演奏法である。この当時はロマン主義音楽全盛期で、演奏家はその時々の霊感によって自由にテンポルバートし、楽譜にない音もつけたしたそうだ。リストが他人の曲を派手な技巧で演奏したことはよく知られる(シューマンの奥さんのクララは、シューマンがクララに捧げた愛らしい歌曲「献呈」を、リストが超絶技巧を使ってド派手に弾くのを聞いて憤慨したとか)。ピアノ経験者は「楽譜に書いてある通りに弾きなさい」と言われた人も多いだろうが、19世紀的な演奏をするピアニストは、全然楽譜通りに弾かないし、ましてドビュッシーなどの作曲家は自身も楽譜通りに弾かなかったという。

 

一方で、そうした自由奔放さが行きすぎると、作曲家の意図が反映されていないという批判も出てくる。その文脈で生じたのが「ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)」に基づいた演奏法である。主観主義を排し、楽譜に忠実に弾こうとつとめる。そのためにテンポを守り、楽譜に書いていない音など弾かない。日本ではピアノ教育界の重鎮である安川氏や井口氏が欧州でこの演奏方法の教育を受けたので、日本では後者こそが正統な演奏だという意識が広まってしまった。ちなみに、ピアノコンクールが出来始めた時期がこの新即物主義と重なっているので、コンクールでは楽譜通りに弾けることを重視する伝統があるという。

 

ポリーニやアルゲリッチによってピアニストに求められる技巧水準は飛躍的に上がった。結果、国際コンクールでも完璧に楽譜通りに弾けるというコンテスタントは多く、その上でいかに自分の解釈を加えて演奏するかが重要になっているという。日本人ピアニストは皆同じように弾いて機械のようだと言われるのは新即物主義の呪縛だろうか。

 

楽譜通りに弾かないとダメと狂信的に信じるのは、作曲家の意図は楽譜に余すことなく書かれていることを前提にしている。一方で19世紀的なロマンチズムの演奏家は、作曲家がその時々の霊感によって得られた音を、正確に一音漏らさずに楽譜に書いたとは考えない。だからこそ、霊感に従い音も加えるし、自由にテンポルバートするのだ。

 

よくコンサートでもミスタッチに異常に固執する人がいる。もちろん、ミスタッチはないほうがいいのかもしれないが、重要なのは些末な音のミスではなく、演奏によって立ち現れる音楽の霊感である。いまや正確無比な自動演奏ピアノを自宅でも楽しめるが、コンサートに通う人は途絶えない。それは物理的な音をただ聴いているのではなく、演奏家によってその瞬間に生まれる音楽の霊感を聴いているからに他ならない。フジコ・ヘミングのようなヴィンテージ・ピアニストはたしかに技巧的に拙いこともあるが、高い人気がある。それは彼女の数奇な人生を反映した音楽の霊感が人を惹きつけるからであろう。