パルムドール賞受賞作。日本社会の深部をえぐる傑作。日本の首都東京を舞台に擬似的な家族から、日本社会の暗部を描きだす。 

労災の対象にならない日雇い労働、性風俗に従事する少女、児童虐待、児童養護施設、万引きなど、日本の問題を描いていく。本作を日本の恥部を描いたと批判する輩がいるが筋違いだ。日本のこうした問題は国際的にはすでに知られている — 例えば、巨匠ダルデンヌ兄弟の映画「少年と自転車」は日本の養護施設にインスピレーションを得たという。日本の恥部を直視せず、”臭い物に蓋”をしてきたからこそこのような問題が放置されてきたのではないか。

日本においては法は家庭に入らずの原則に固執し、家庭内において弱者が虐げられていたとしても、それは仕方がないものであるという判断がそこにある。また、血縁主義が強く、血のつながりを重視する。本作ではとりあげられていないが、日本では里親制度がほとんど機能しておらず施設に頼りっきりだ。日本のこうした現実は直視せねばならない。

少女を保護した家族は、擬似的な家族として細々と暮らす。これは誘拐であり刑法上犯罪かもしれないが、そこに極悪な犯罪性は感じない。本作中、亡くなった祖母は家の床下に埋めるが、そこにすら犯罪性は感じられない。家族の男の子も実の子ではない。パチンコの車内にいるところを保護の名目で誘拐したのだ。倫理と違法性の狭間で観客の価値観は揺れ動く。

結局、被虐待児の少女は、肉親のもとに戻るが、これは彼女の幸せなのだろうか。一方、少年は意図的にこの擬似的な家族から離脱する。「絆って自分で選ぶからこそ強いんじゃないかな」というセリフが心の中でこだまする。

一方で、性風俗で同じ傷を持ち、お互いに共感する男女が印象的。また、駄菓子屋の親父さんも重要なファクターだ。子供の万引きに気がつきつつ、黙認していたのだ。妹にやらせるなよと少年に言葉をかける。人間的なつながりを感じるシーンだが、そんな親父さんも亡くなってしまう。監督は、人間的なつながりがなくなり、刹那的な関係性に安らぎを求める現代人の諸相を描き出す。

それにしても是枝監督の作品はどれもリアリティがあり、作為性がない。なぜここまで子役を自然体で撮れるのだろう。作為を感じられないし、特に価値観の押し付けもなく、ただ様々なテーマや問題を提示していく。本作をみて、多くの人が社会問題を考えるきっかけになればいいと思う。

本当に素晴らしい作品だった。

 

★4.5 / 5.0

 

※ブログ主のFilmarksより転載(一部改訂)

 

 

ピアニストは世界中に膨大にいるが、各国にピアニズムがある。その系譜とはどのようなものだろうか。本書の著者はその壮大な疑問に挑み、なんと1000人にも上るピアニストを調べ、系譜をつくりあげた。国別にピアニストの系譜図を作成するとはもはや執念に近い。

 

本書ではピアニストの祖をチェルニーに位置付けている。チェルニーの師匠はベートーヴェンであるが、ベートーヴェンは職業ピアニストではなく本業は作曲家だった。ベートーヴェンの時代は作曲家と職業ピアニストは未分化だったのだ。ようやくチェルニーの時代に職業ピアニストが誕生し、彼の弟子たちが各国へと広がり独自のピアニズムを構築していったのだ。その後、時代を経て作曲家とピアニストは分化するが、やはりF.リスト等がピアノの技巧のレベルを押し上げてしまったのが要因だろう。作曲家もそれに応えるように難易度の高い曲を作曲するが、一方で自分は弾けないという自体となった。シューベルトは自作曲が難し過ぎると演奏中にキレた記録が残っており、またドビュッシーもピアニストを試すような難易度の高い曲を残している(作曲した当人は弾けなかったらしい)。

 

ピアニズムと言えば、ロシアンピアニズムが有名だろう。原田英代「ロシア・ピアニズムの贈り物」を以前読んだが、本書でも一番ページをさいて書かれている。現代でも一大勢力である。重量奏法、情熱的なロマンチズム、濃厚なカンタービレが特徴だろう。一方、フレンチピアニズムも影響力が大きい。絶妙なテンポルバートや夢見がちなロマンチズムが特徴だろうか。バッハ・ベートーヴェン・ブラームスを輩出したドイツのジャーマンピアニズムも忘れられない。楽譜に忠実に演奏する真面目な演奏が多い。とはいえ、ピアニズムは一面的ではない。本書にはピアニストのインタビューが掲載されているが、各国のピアニズムは多様で一言では言い表すことは出来ない。その内部は複雑だ。

 

さらに言えば、現代のようにピアニストがグローバルで活躍する今日では、その個人のピアニズムを各国のピアニズムとして語るのは不可能に近い。なぜなら世界的ピアニストは各国でマスタークラスを開き、また学習者も海外の音楽院で学ぶので、様々なピアニズムの影響を受けるのだ。しかしながら、各国にある音楽院で行われているピアノ教育には、少なからずその音楽院で育まれたピアニズムがあるはずである。だから、こうした系譜論は、決定論的に考えてはいけない。あくまで各国に流れるピアニズムの潮流を示したものだ。最終的にはピアニズムを自分なりに解釈し取り込み、自己のピアニズムを構築していく。しかし、もしあなたがあるピアニストを好きになったとき、そのピアニストのルーツをたどるのに、本書は大いに役立つだろう。演繹的な理解が重要なのだ。

 

本書は系譜に焦点があり、各ピアニストの説明はかなりあっさりしている。その点ではやや物足りなさを感じるかもしれない。すでに有名ピアニスト個人について知っている人が、そのルーツをたどるには本書は最適である。本書である必要性はないが、このようなピアニストの系譜は、ピアノ学習者は必読だと思われる。

 横浜国立大(横浜市保土ケ谷区)は5日、2019年度入学者から法科大学院の学生募集を停止すると発表した。文部科学省によると、既に廃止された法科大学院も含め、募集停止は計36校となった。 -- 日経

 

今年も募集停止の法科大学院が出た。信州大・静岡大・鹿児島大・熊本大・島根大など中堅以下の地方国立大は入学者がおらずあっという間に募集停止になったが、ついに首都圏の上位国立大までも募集停止に追い込まれた。これで神奈川県に法科大学院は存在しないことになった。

 

もはや74校中36校が募集停止なのであと2校募集停止が出れば過半数を割り込む。横国の今年の入学者数は9人だったが、それを下回る愛知大7人・金沢大7人・南山大6人・西南学院大6人・近畿大5人も募集停止が時間の問題だろう。2ケタ入学させているところも、補助金のためにギリギリ倍率2倍を保っている程度なので、入学者のレベルは高くない。司法試験受検者の劣化が著しいのだ。

 

当初は地方の中堅以下の国立大や中堅以下の私立大が募集停止していたが、青学・立教・横国と上位大が募集停止に追い込まれ始めたので、いよいよ法科大学院も窮地だ。法科大学院志願者数の減少も止まらない。いまは新卒採用は売り手市場なのでわざわざ法科大学院に行くのは経済的にみれば不合理な選択だ。弁護士になっても初年度は年収300万円、おまけに今後どんどん市場の飽和が進んでいる。おまけにいえば裁判件数は減少傾向、弁護士の食いぶちである犯罪も減っているし、離婚もいまは増加傾向だがピークをむかえたあとに減少に向かうだろう。

 

もはや政府は法科大学院設置の失敗を認め、廃止すべきだ。旧司法試験の体制に戻し、新自由主義的な競争原理を導入したいのであれば、司法試験合格者を2000人にすればいい。法曹の質云々の議論があるが、”質”の判定は市場が行うべきという新自由主義的な意見には個人的にはそこまで批判的ではない。ただ法科大学院が事実上の参入障壁になっており、法曹市場がうまく機能していない。コストだけかかるがリターンが少ない市場ゆえに参入者が少なく、市場全体が沈没傾向なのだ。そのためには参入障壁である法科大学院を撤廃するしかない。そもそも学部で法学部がない米国だからこそ法科大学院があるのであり、法学部がある日本には法科大学院は不要だ。若者を借金漬けにするだけだ。

 

法科大学院の補助金をそのまま理系の研究に投資したほうが、投資効率もいいだろう。少子高齢化で財政難の我が国に、税金の無駄遣いをしている財政的な余裕はない。

 

「内戦によりクメルルージュが優勢となるカンボジアを舞台に、ジャーナリストのシャンバーグと通訳のプランの友情を描いた実話。思いのほか、クメルルージュの大量虐殺などによるカンボジア社会の荒廃はその全容が描かれず、あくまで、シャンバーグとプランの視点からストーリーが構成されている。クメルルージュの思想等は描かれていないので、おそらく背景知識が無い人だと、映画を観ても、途上国で内戦あったんだな程度の認識になってしまうだろう。その点ではやや物足りなさを感じた。ただ、カンボジア内戦の混沌や切迫感は伝わってくる。カンボジア内戦の悲劇を伝える良作。★3.7 / 5.0 」-- filmarks よりブログ主のレヴュー転載

 

アカデミー賞3部門受賞作であるが、1984年の作品であり、また人気が高い作品というわけでもないので、なかなかレンタルできる店舗がなく、やっと観れた作品(結局、渋谷のツタヤまで借りに行ってきた)。思ったよりジャーナリストと通訳の友情を描いたヒューマンドラマ的で、カンボジアの内戦は背景に過ぎない印象を受けた。

 

日本でも共産主義が一定の議席を有しているが、これは共産主義が平等で平和な優しい社会を理想としているからだろうが、歴史をみれば、共産主義は恐ろしい悲劇を数々生んできた。エンゲルス・マルクスの想像した共産主義は決して荒唐無稽ではなく、理論的・数学的・思想的な裏付けがあった。実際、日本でも多くのエリートがその思想に共感した。しかし、それはあくまで机上の空論で、現実には全くうまくいなかった。

 

そもそも共産主義は、原始共産主義を平和で安定した社会だったと考え、農業社会となり余剰生産が生じたことで、それを独占する富める者と、貧しき者に階級が分離したと考えるているが、これは反証されている。原始的生活を送る部族の研究では成人男性の多くが他の部族との抗争で殺害されている。原始社会は殺し合いをしていたのだ。聖書に描かれるような「エデンの園」でホモサピエンスは暮らしていたのではない。共産主義の考えるのとは逆で、農業社会になったことで殺人は減り平和になったのだ。これは、「ゲーム理論」で説明可能だ。原始社会では自然界に存在する既定量をを収奪しなければならないので、ゼロサムゲームである。故に、競争相手から奪うことが自己の利得を最大化する。しかし、農業のように生産を開始すると、「比較優位」が働く。自己は自己の得意な生産に特化し、余剰生産物を他者と交換することで、自己の利得を増やすことができるので、相手と協調することが、合理的行動となるのだ。この原初状態の錯誤は、知識人追放にもつながる。

 

結局、原始共産主義の妄想はただ社会を荒廃させただけだった。この悲劇は中国でも起きている。チャンイーモウ監督の「活きる」に描かれているが、主人公の子供が大けがをしたため病院に運び込んでも、医者含む知識人は追放したため、病院に行くと子供しが医者になりかわり医療行為を行うが、治療できるわけがなく、その子供は死んでいく。そんな異常な状態に陥った。

 

しかしながらこうした異常な状態はいつの時代、どこの国でも起こり得る。文化が爛熟した欧州で、ナチスドイツのような蛮行が起きるなどとは、ときの知識人は誰も予測できなかった。それは過去の話という人もいるが、現代日本における過労死、セクハラ・パワハラ、日大アメフト事件に示される体育会系の蛮行等の問題も、程度のこそあれ、異常な事態だと思う。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。そろそろ日本も成功体験に固執しないで、国の衰亡を歴史的文脈のなかで考えていっていい時期だろう。歴史映画は、歴史の回顧の重要性を教えてくれるものだ。

 学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設計画で、安倍晋三首相は愛媛県の文書に記された加計孝太郎理事長との面会を全面否定した。記憶も記録もないので問題ない――。そんな強気の論法で強行突破を図るが、愛媛県による記録を覆す説得力には乏しい。-- 朝日新聞

 

以前、「アホな偏向報道をいつまで続けるのか?」との記事で、モリカケ問題を一体全体いつまで続けるのかと記事を書いたのだが、それからほぼ1年近く経過しているが、全く同じようなニュースを延々と続けている。よくもまぁここまで飽きずに続けられるものだと、感心してしまう。防衛省の日報問題も報道していたが、ニュースを再放送しているのかと一瞬思った。

 

ここ数年の朝日新聞の劣化は凄まじい。愛媛県から出てきた新文書で安倍首相と加計理事長との面会があったことを報道しているが、各新聞の首相動静にはそのような面会は記録されておらず、安倍首相も否定している。愛媛県の文書は伝聞の伝聞のメモ書き程度のもので信憑性に乏しい。おまけに一部フォントが異なっている等の改竄疑惑も出てきている(公文書が本文の途中でフォントを変えることはあり得ない)。立憲民主党の枝野は、面会記録がないから会っていないことにはならない、首相動静に載らない面会もある等と主張しているが、加計理事長と会っていないことの立証は不可能だ。首相に「悪魔の証明」を求めるなら、立憲民主党の山尾議員の不倫の不存在を立証し、見本を見せてほしい。

 

朝日新聞や野党は、怪文書を論拠に首相に「悪魔の証明」を求めているが、もはや倒閣のためなら手段を択ばないようだ。野党はパフォーマンスにしても、エビデンスもなく、堂々と報道できる朝日新聞の厚顔無恥ぶりはもはや異常だ。朝日新聞は本業が赤字に転落し、不動産業で利益を稼いでいるので、もはやゴミのような記事を書いて購読者が減っても怖くないのだろう。朝日新聞は2010年に800万部だったが、ついに2018年2月に600万部を割り込んだ。8年で25%も発行部数が減っているが、この減少の勢いは止まらないだろう。

 

朝日などの必死な倒閣運動のわりに、内閣支持率は回復している。FNN・産経の調査だと、希望の党と民進党が合同した国民民主党は支持率1%だった。希望の党と民進党の支持率を足せば2.9%だったので、支持率はマイナス1.9%になったことになる。立憲民主党も支持率を落しているが、自民党は回復基調だ。

 

倒閣のために朝日新聞があることないこと書き連ね、野党がそれに乗っかり騒いでいるが、国民は意外と冷静なのだ。政策・対案やビジョンもない野党等に自民党政権が倒された場合、その後の政治的混乱の方がよほどリスクが大きい。森友問題で問題になっているのはたった8億の値引きだ。100兆円近い国家予算を扱う財務省が、こんな小さな問題にあげあしとられるとは思わなかっただろう。野党は審議拒否して18連休を満喫して批判を浴びたが、国会にかかる費用は1日3億円というから、54億円を無駄にしたことになる。どちらが損失が大きいか問題かは猿でも分かる。

 

野党は次回の選挙で一掃されるだろう。国民民主党は支持率1%だから、ほとんど生き残れない。朝日新聞の凋落は酷い。エビデンスを確認する基本的な作業も行わず、自己の願望と妄想を記事する。韓国の大統領府からは記事の捏造で無期限出入り禁止を言い渡されている。仮にも日本の二番目の発行部数の新聞社が出禁とは、もはや国辱に近い。朝日新聞は不動産業に特化したほうが利益を出せるのだから、この際にいっそのこと廃刊したらどうだろうか。イスラエル問題が再燃し、北朝鮮の動きが注視される中、こんなくだらない問題を騒ぎ続けているとは、日本の知的劣化はもはや絶望的だ。