カナダにいるが、日本から持ってきていた新書を読了した。経済学とは何かと答えるのは昨今難しい。数学・物理学・心理学・法律学などと結合し、多様化したためだ。本書はそんな百花繚乱の経済学における主要分野であるゲーム理論・行動経済学・制度論について概説している。非常に丁寧に書かれており入門書として最適だ。

 

「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」(通称「ノーベル経済学賞」)は、ほとんどを米国の学者が受賞している。その受賞者をみると、経済学の多様性を感じる。例えば、ゲーム理論の「ナッシュ均衡」で有名な数学者ジョン・ナッシュ(1994年)は数学者だし、行動経済学の開拓者であるダニエル・カーネマン(2002年)は心理学者、時系列分析手法を確立したクライブ・グレンジャー(2003年)は統計学者、経済的なガヴァナンス分析の研究成果が評価されたエリノア・オストロム(2009年)は政治学者である(カッコ内は受賞年、以下同様)。

 

経済学は「社会科学の女王」とも呼ばれるが、たしかにその研究領域の広さや分析手法の汎用性、研究成果の影響力は大きい。ゲーリー・ベッカー(1992年)の理論は経済学者からは評判が悪かったが、しかしその分析的な視点は社会学に受け入れられた。国際政治で学ぶ「安全保障のジレンマ」はゲーム理論であり、私が法学部生時代に授業で契約理論を取り上げている教授がいたが、これはハート・ホルムストロームに(2016年)よる研究成果である。

 

社会科学を学ぶ上ではこれからは基礎的な経済学・統計学は必修になるだろう - 他に心理学・生物学・法律学・社会学など学際的な知識が必要になってくると思う。経済学に興味がある人にはぜひ本書をオススメしたい。ただ個人的にはもう少し研究の実例がより豊富にあれば良かったと思う。

 

どうでもいいが、「第53回学生生活実態調査の概要報告」だと、1日の読書時間を「0分」と答えた大学生が53.1%らしい。読書している人も小説などを呼んでいる人が多いだろう。これだけ学問が百花繚乱で興味深い研究が蓄積され、新書などのかたちで平易に紹介している本も多いのに、全く関心がない大学生が大半とは嘆かわしい限りである。

 

 

こちらにきてから教会の無料のESLに週に4日ほど通っており、キリスト教への関心が高まっていた。家がキリスト教で、また幼稚園からミッションスクールだったので、プロテスタントについても普通の人よりは知識はあったが、いまいち判然と分からない部分もあった。特にプロテスタントといってもドイツの福音派と、アメリカの原理主義的な福音派は全く性質が異なる。なぜこのような差が生まれたのだろうか。非常に気になっていた。本書はルターの宗教改革から、アメリカ及び東洋の伝播までその概略を鮮やかに描き出している。Amazonのレビューで4.6、また読売・吉野作造賞の受賞が決定したらしい。本書を読んで、様々な疑問が解消され、プロテスタントの大まかな潮流を理解することができた。

 

1517年、ルターが贖宥状に関する「95か条の論題」を教会の扉に打ち付けたことで、贖宥状に関する議論が噴出。結果的にルター支持者は、カリック教会と分離し、西ヨーロッパのキリスト教は2つに分裂することになった。ドイツは諸外国に先駆けて信教の自由を保障し、フランス革命よりも先に近代社会を準備したのだ。

 

こうした説明がなされることがあるが、これは幾重にも間違っているという。まず、ルターは「95か条の論題」を張り出していない。単に知人に送っただけだ。小さいグループで議論して修正したり、そもそもその論題を発表するのをやめるのか決める予定だった。しかし、それが当時の活版技術のおかげで複製され、知人に共有されていき、たった2週間でドイツ全土に広がってしまったということが実際らしい。別にルターは新しい教会をつくる予定もなく、単純に教会を改革したかっただけなのだ。結局、ルターは異端審問にまでかけられるので、ルターとしては本意ではなかっただろう。

 

ドイツはたしかに「アウクスブルクの和議」でルター派を認めた。これを信教の自由を認めたと、意図的に曲解したのは、ドイツ統一の際に政治的に利用されたためだ。実際は、その和議において、領主が宗派を選べることを認めたのであり、個人の信仰を保障したわけではない。また、この和議は、当時オスマントルコの脅威が迫っていたドイツが一致団結のために、信仰の問題で分裂したくなかったので、認められたという政治的な妥協の結果であった。その後、ルターは、和議により、政治・行政制度に組み込まれ、皮肉なことに、カトリック同様に保守化していく - カルヴァニズムも結局長老派としてスコットランドで国教になった。興味深いのは、ルター派のお上思考だ。結局、領主の宗派に従うという志向から、ナチスが登場した時に、ルター派は反抗しなかったが、その理由は、このお上思考にあるという。

 

プロテスタントは、動詞のプロテスト(抵抗する)からきている。しかし、これはカトリック側からみた場合の呼称であり、文句言う人・不平不満を言う人という蔑称に近い。「福音主義」と名乗る場合も多いが、プロテスタントが福音的であれば、カトリックはなんなのか。そこで、カトリックはプロテスタントを用いているが、プロテスタント自身は積極的にその語を使用しない。

 

それにしても贖宥状はカトリックが金儲けのために発行したとあるが、発行のいきさつは金儲けではないようだ。キリスト教では、洗礼を受ければ、それまでの罪は帳消しになる。だから、死の直前に洗礼を受ければ天国に行ける。しかし、洗礼を受けずに死んだ場合、地獄行きだ。当時は、乳幼児死亡率が高かったために、我が子を地獄に落さないように、生まれたらさっさと赤ちゃんに洗礼を授けていた。しかし、洗礼を受けた後も、人間は罪を犯す。じゃ、この罪はどのように償われるのか?そこで司祭に懺悔することで罪は赦されるとした。しかし、日曜日に教会にいって、罪を犯して水曜日に死んだらどうなるのか?毎日教会に通うのは無理だ。そこで、聖職者が肩代わりして罪を償うという制度がつくられる。つまり、聖職者が代理して罪を償ってくれ、その証明書が「贖宥状」なのだ。これはゲルマン法的な考えだという。ゲルマン法では損害を与えたらそれは賠償すべきであるが、その賠償は代理弁済も認められる。つまり、宗教的な罪は、神への損害であり、それを聖職者が代理弁済してくれるという、非常に合理的な制度であるのだ - ゆえに「免罪符」という語は適切ではない。だから、カトリックが金儲けのために発行したものだというのは単純な理解だ - 発行のいきさつはどうであり、その後、金儲けに転換されたが。

 

しかし、ルター派やカルヴァン派も体制に取り入れられ保守化していく。そうすると、”改革の改革”を行う人々が登場する。例えば、幼児洗礼の否定である。バプテスト派は、言葉もわからないままに受けた洗礼は無効であり、成人後に洗礼を受けるべきだと考える。アルザスでは厳格な宗教的訓練を志向してアーミッシュが誕生する。トレルチによると、ルター・カルヴァンのグループと、その後に誕生した”改革の改革”のグループはかなり異なる性格を持つという。前者を「古プロテスタント」、後者を「新プロテスタント」と呼ぼう。

 

古プロテスタントにおいては、政治・行政からの自立を忌避し、自発的な結社を志向する。古プロテスタントの教会は要は国営であり、牧師も公務員である。教区があり、そこから信者が供給されてくる。一方で、新プロテスタントは自発的な結社で、自主的に教徒を集めなければならないので、企業家精神にも近いものがあり、信者獲得が上手い教会はメガチャーチとなる。


アメリカをつくったのは「新プロテスタント」だ。アメリカに渡ったのはピューリタンだが、キリスト教の純化・潔癖(ピュア)を求めたので、ピューリタンという。ピューリタンといっても、長老派・会衆派・バプテスト・クェーカーまで様々なグループがあるが、共通項は、政治的支配者からの自立である。そして、このピューリタニズムこそがアメリカに通底する思想になったのだ。アメリカが、民営化・自由化を志向するのは宗教的な素地があるのだ。アメリカにおいて一流大の多くは私立大であり、多くはピューリタンによって創立されているが、まさに国家よりも民間という思考を見て取れる。そして、自発的結社である以上、極めて多様な宗派が誕生することになる。アメリカは自由な国だから宗派がたくさんあるのではなく、自由を求める宗派が建国したからこそ多様なのだ。アメリカで特徴的なのは「ペンテコステ運動」だという。これは聖霊による癒しを実践するグループであり、ゴスペルを熱狂的に歌い、恍惚に踊る - フラッシュライト・ディスコなどでの普及がこうした運動を受け入れやすくしたと指摘されている。

 

日本のプロテスタントは、アメリカからの宣教師によってもたらされた。しかし、神学についてはドイツに学んだため、体はアメリカ、頭脳はドイツというキメラになった。政府から排除された士族にプロテスタントが多いが、アメリカ・プロテスタントの政府嫌いは居心地が良かったのだろう。日本では国家主義の一方で、アメリカ型の自由な市場を志向する人々も多いが、これは法律・行政制度はドイツから輸入し、思考的にはアメリカの影響を受けているからだろう。日本は混淆型なのだ。大学においても文科省の国立大優遇にも関わらず、私立大が強いのは、混淆型ゆえだろう。

 

ルターはまさか知人に送った手紙が拡散されて、まさか世界史を動かすとは思っても見なかっただろう。プロテスタントの歴史を平易な語り口で見事に描き出す本書は、プロテスタントの導入本の決定版だ。

 

 

良い本とは聞いていたが、2分冊で忌避していたが、カナダに来て時間があるので、ようやく読了。ホモサピエンスという種の長大な歴史を、生物学・考古学・歴史学・政治学などの多様な知見から描き出す。著者の博識ぶりには頭が下がる。本書を読めば「人類の歴史」を読み解くにも、リベラルアーツがいかに重要なのか分かる。これは人類史、現代社会を考える上で、必読の一冊だ。特に上巻は見事で、様々な発見があった。なぜホモサピエンスというサバンナにおいて取るに足らない存在が、地球を支配するまでに繁栄することになったのか?その問いに「認知革命・農業革命・科学革命」の3つの革命という観点から説明していく。

 

最も興味惹かれた革命は「認知革命」だ - この箇所を呼んで「目から鱗」が落ちた。当たり前のように、私たちはお金を使い、法律に従うが、なぜだろうか。それは我々が虚構を共有し、架空の事柄について語りえるからだ。お金には価値がある、みんながそう信じるからこそ価値がある。逆に言えば、価値があるかどうかというのも虚構に過ぎない - レコンキスタがアメリカ大陸に到着した当時、インカ帝国の人々は、異国の人々がなぜ柔らか過ぎて武器にも仕えない「金」という金属に異常に興味を示すのか分からなかったという。自動車メーカーの「トヨタ」は法人格を持つが、物理的な実態はなく、皆がトヨタという会社の虚構を信じることで、存在している。近代になり”国民国家”という政治的な物語が、各国で受容され(一部で悲惨な内戦も引き起こしたが)、みんながそうした物語を共有する能力がなければ、そうしたムーブメントも起きえなかった。また、歴史がある時点までは生物学的な視点から読み解くのに、ある時点以降は、人類が構築してきた政治・宗教・経済など”虚構”に関する学問に置き換わるのは、この認知革命に起因するのだ - 経済・宗教・政治などの本質は、ホモサピエンスが共通して有している「虚構」の分析に他ならない。こうしたホモサピエンスの認知能力が、巨大な集団でも協力を可能にし、秩序を保つのだ。この協力の力で、か弱い人類は勢力を増し、数多の種を絶滅に追いやってきた。

 

言われてみれば、現代社会にある「差別」などの社会問題も全て虚構から生じる。ある特定の社会集団・宗教・人種・に対するステレオタイプというのも、皆が虚構を共通して保有することで生じている。ルワンダ虐殺は、ツチ族・フツ族の民族対立により生じたが、元をたどれば、もともとこれはベルギーが植民地化する中で、人種差別観を持ち込み、ツチ族が優れているという虚構をつくりあげたことに起因する。ナチスはアーリア人の至高性を主張し、科学的なこじつけを行い、一方でユダヤ人の有害性を宣伝したが、これも虚構に過ぎない - 科学というと普遍性がありそうだが、当時は科学も虚構を正当化する手段に堕し、虚構に隷従していた。そうだとすれば、差別などに抗する手段は、この虚構の欺瞞を暴き、別の虚構を広めることだ。

 

著者はなぜ多くの社会で家父長制なのか、男性優位なのかと疑問を呈しているが、たしかに言われてみれば不思議だ。筋力・攻撃性などから説明しようとするが、どれも説明力がないという。歴史をみれば、聖職・政治家など非力な仕事を男性が行い、畑仕事・家事という肉体労働は女性が行い、非力な貴族が野蛮な兵士集団を指揮し、屈強な黒人奴隷は非力な白人に隷従を強いられた。筋力・攻撃性は権力に比例しないのだから、女性が権力を有していてもおかしくなかったはずだし、実際に女性の為政者もいた。他の生物では家母長制も多く、ホモサピエンスにおいてのみ家父長制となる合理的な理由は見当たらないという。生物学的根拠がなく、たまたま成立した神話に基づき家父長制となっているとすれば、その普遍性と永続性はあるのだろうか。生物学的な性別は不変だが、虚構に基づく文化・社会的な性別は時代によって変化していくので、我々は戸惑ってしまう。しかし、文化・社会的な制度・観念など、根拠のないただの虚構だと皆が気がつけば、より柔軟に変化に対応できるのではないだろうか。

 

著者によれば、人類は統一に向かっているという。少し前まで、世界の秩序は各地域ごとにバラバラだったが、現在では西洋で生まれた”資本主義システム”と”近代国家システム”に飲み込まれている。各国はグローバルな世論にさらされ、国際法の基準に従うことが求められる。帝国はローマ帝国、イスラム帝国などにみられるように長らく一般的な統治システムだったが、それは各地域の帝国に過ぎなかった。しかし、現在ではグローバルな帝国が地球を統一しつつあるといい、これは人類史において初めて出来事である。

 

著者は、農業革命に対してネガティブな見方をしており、特に家畜の扱いについては強い嫌悪感を持っているようだ - 著者はヴィーガンだらしい。個人的にはたしかに家畜の非道な扱いは一考しなければならないが、激増する世界人口を支えるには幾分の非道も致し方が無いように思う。

 

著者は本著でこれまでの人類の歴史を明らかにしたが、次作「ホモ・デウス」では、こちらでは人類が向かう先について論述している。そちらはまだ読んでいないが、時間があればトライしたい。それにしても、今後、マクロ的に人類の長大な歴史を考える上では、ジャレド・ダイヤモンド「銃・病原菌・鉄」に並んで本書は必読書だろう。

 

 

カナダのトロントで本記事を書いている。カナダ生活関連は管理上ブログを分けたが(ソクラテスのカナダ留学記)、書評等についてはこちらのブログで引き続き書いていきたい。カナダへ渡航中に読了した本である。

 

「科学」は「神」とは相いれないという人がいるが、有名な科学者300人中8~9割は神の存在を信じているという。なぜ科学者は神を信じるのだろうか?現役の科学者にしてカトリックの助祭である筆者がその難解なテーマについて論じている。本書の大半は「科学史」の話であったので、宗教系の本としてより、科学史としてとても良本だった。


本書は宗教論ではなく、「神」についての本であり、「宗教」・「神」・「教会」は別概念として論を進めている。「神」は信仰の対象であり、「教会」は人が集まり祈る場所、「宗教」は神の教えの伝達手段である。宗教・教会は人間が介在するので誤りも犯すし、失敗もするが、それをもって神の不存在の証明とすることは出来ない。説明不可能なことをすべて神に理由を求めるのは思考停止だが、筆者はそうしたありがちな指摘・批判にも注意しながら論を進めている。キリスト教の正当性を主張しているわけでもなく、有神論を熱烈に主張しているわけでもない。単に科学者が神を信じることの無矛盾について焦点を当てている。

 

私はキリスト教系の学校に通ったし、家はキリスト教だが、キリスト教を絶対的に正しいとは信じていない。聖書の無謬性を信じろという方が無理な話だ。特にカトリックは官僚的で独善的で嫌いだ。キリスト教が宗教覇権を取りえたのは、中絶・堕胎を禁止したことで出生率が高かったために、時代を追うごとにその教徒の数が増加し勢力を増したからだ。結局、ローマ帝国も勢力を増すキリスト教の存在を認めざるを得なくなった。また、近代に入り西洋列強が植民地化の中で、布教を拡大したことでキリスト教徒の人口が激増した。しかし、西洋先進国は出生率が低下し、一方でイスラム諸国の人口増加が続いているので、予測では2070年にもイスラム教が世界最大の宗教になる(どちらもアブラハムの宗教であるが)。キリスト教が正しいから広まったという結果論はナンセンスだ。宗教の教徒の多さは、布教する力等によって変わるが、布教力の強さをもって正当だとは言えない。

 

私は個別の宗教を信仰しないが、しかし、社会的に「宗教」が、社会の円滑な潤滑油として機能するのであれば、その限りで存在意味はあると思うし、宗教の社会的な機能に着目して教会に通うことも別にかまわないと思う。トロントで教会通うつもりだが、私の信条との矛盾はない。

 

本書の著者は、科学法則があるが、その科学法則の創造者を神であると考えるので、科学法則がいくら解明されようと、神の否定にはならないという。個人的には、神の存在証明など出来ないわけで、逆に不存在も証明できないわけだから、神の存在自体も含めてその人の信仰の領域にあり、他者への説得行為は不毛だと思っている。しかし、本書は「科学者が神をなぜ信じるのか」というよくある疑問に、一定の答えを出しており、一読に値すると思う。特に科学者とカトリック教会との関係性については勉強になるので、キリスト教徒というより、理系の方は教養として読んでおいていいのではないかと思う。

なかなかブログ更新ができないが、久しぶりに書評を投稿。

 

話題の本だし、友達に勧められたので読んでみた。

 

 

著者は慶應文学部哲学科卒業後、大学院では美術史を研究し、その後、電通・ボストンコンサル・ATカーニーに勤務したという変わった経歴だ。

 

軽薄なタイトルだったので忌避していたが、中身はかなり面白い内容で、経営における「アート」の重要性を的確に論じている名著である。特に興味深いのは経営における論理・理性の限界だ。論理的戦略立案には情報が不可欠で、既存の情報を分析する必要性があるが、不確実性が高い経営環境においては役に立たず、ビジネスは停滞してしまう。また、結局、論理的・合理的・数値的な戦略は模倣が可能であり、コンサル出身者が世に出れば出るほど、それはコピーされていき、価値が希薄化・非差別化してしまう。結局、みんな同じ戦略をとるようになり、勝ち抜くためにはコスト・スピードが重要になり、どんどん戦略遂行がきつくなっていくのだ。昨今のコストカット・スピード重視の傾向はこうした理性・合理性重視の行き着いた結果だという。理性的になればなるほど、どんどん市場は「レッドオーシャン」になってしまうのだ。

 

日本企業の不祥事が止まらないが、これは「科学的マネジメント」の追求の結果だという。結局、戦略的に差別化できない以上、無理な目標を立てて馬車馬のように働くしかなくなり、結局、それも限界を迎え、不正に手を染めるというわけだ。東芝にしてもエンロンにしても最初は科学的経営管理で称賛を受けていたが、その後、大規模不正が発覚した。著者は我が国の企業環境を、「行き先が見えないままにただひたすらに死の行軍を求められている状況」と表現しているが言いて妙だ。

 

決して本書は合理的・理性的な経営を否定していない。指摘しているのは、サイエンスだけではダメであり、「アート」「クラフト」も、経営において重要な役割を演じるという事実である。しかし、アートは感覚・感性なので、説明や言語化ができない。合理的な説明の過剰な追求は、天才を排除してしまう危険を孕んでいる。スティーブ・ジョブズがクールなiPhoneを発明するのに合理的な思考プロセスがあったと思うのは、ナンセンスだ。日本家電は、異常に高機能だが、価格は高くて、デザインはダサいし、人を惹きつける世界観もない。ここにはアートがない。機能はさほどだが、クールなデザインだし、おまけに安い韓国・中国製品の方がいいのだ。

 

デザイン界でも合理性の追求をした時期がある。モダニズム・デザインがそれである。モダニズム・デザインは建築などにも影響を与えたが、結局、非装飾的なデザインは味気なく、街を無味乾燥で冷徹な都市景観にしてしまった。ル・コルビジエの合理的・理性的な都市計画は悲劇的な末路をたどったことを知っている人も多いだろう。

 

また、脳科学の「ソマティック=マーカー仮説」も興味深い。情報に接触することで呼び起される感情や身体的反応が、意思決定に影響し、効率的な意思決定を可能にするという。感情は排除して合理的な意思決定をするという人がいるが、脳科学が示すのは逆で感情をふんだんに取り入れた方が意思決定の効率性は高まるのだ。エリオットという人は脳に損傷を負い、知能指数には問題が無く、論理的な思考力はあるのに、日常生活での意思決定ができなくなってしまった。これは、意思決定は単に理性・合理性だけで行われているのではないということだ。実際、どんなに理性的な人でも、何時に起きて、何分間歯を磨き、何を飲み、何を食べて、何時に家を出て、どのようなルートで行けば最も自己の効用が最大化されるのか、いちいち合理的な意思決定など行っていない。そんなことしていたら組み合わせの爆発が起きて行動できなくなってしまう - 実際エリオットはそうなった。なんとなくそれが気分が良いからその選択肢を選んでいるに過ぎない。

 

美術や音楽などの美しいものに接することに何の意味があるのだろうかと不思議だったのだが、美しいものに接することで、脳の意思決定に関する部分の血流量は増加することが分かっているという。美術鑑賞や音楽鑑賞は脳の活性化させ、効率的な意思決定を促すのだ。

 

日本の偏差値エリートの末路についての指摘も興味深い。偏差値は分かりやすく単純なシステムであり、偏差値エリートは、いわば「極端に単純化された階層性への適応者」だという。しかし、現実世界は不条理に満ちており、重要なのは清濁を併せ呑む絶妙なバランス感覚だ。偏差値エリートは、受験勉強に没頭して偏差値という階層世界に異常に適応してしまい、結局、複雑怪奇な現実世界の方を誤りと考えるようになり、オウム真理教が描くシンプルな世界観に魅了されてしまった。「頭が良いのにオウムになぜ魅了されたのか?」という人がいるが、そうなったのは偏差値エリートゆえにそうなったのだ。

 

また、興味深いのは、イェール大の研究チームが、絵画をつかった資格トレーニングを行ったところ、皮膚疾病の診断能力が向上したらしい。絵画鑑賞や音楽鑑賞などの芸術活動は私たちの様々な能力を向上させる可能性を秘めていることを示唆している。詩の朗読なども、レトリックなどを磨くのに良いらしい。オウム真理教は高学歴だったが、文学を読んでいない人が多かったという。文学は答えは示さないが、この答えのない問題について自分なりに考えることで感性が磨かれるという。

 

ホントに素晴らしい名著なので一読をおすすめしたい。様々な知見を併せ持つ著者に敬意を表する。

軽んじられてきた「アート」に息吹を与える力強い一冊だ。