著者の呉 善花は、韓国生まれだが、大学の時に来日し、現在は帰化している。もともと韓国の偏向教育を受けて反日だったが、日本に来てから様々な葛藤を経て知日派になり、現在は文筆家として活躍している。そんな日韓双方をよく知る著者が、韓国の性質を、儒教という側面から明らかにしている。
韓国は大陸の大国に翻弄された弱小国であり、時々の中国に栄えた王朝に隷従して生きていた。初の統一王朝の新羅のときには名字を中華風の一文字に改め(いまでも韓国の姓は一文字だ)、かと思うと高麗のときは元に支配されたので完全にモンゴル化し、元寇では日本侵略の一翼を担った(朝鮮は歴史的に日本に一方的に侵略されたというが嘘である - 元寇のほか「応永の外寇」でも対馬に侵略を試みている)。中国の華夷秩序では、中国こそ文明が最も発達した「中華」であり、中国から離れるほどに文明水準が下がる「夷狄」と考えている。しかし、李王朝のときに中華である明王朝は、夷狄である女真族(後の満州族)の後金(後の清王朝)に倒されてしまう。李王朝は明王朝を支持するが、ホンタイジに征伐され、9回も頭を地面にこすりつけて土下座して謝罪して、夷狄の清王朝の属国となる。ここで朝鮮は、中華が夷狄に滅ぼされるという大きな矛盾に直面するが、朝鮮は、中国が夷狄化した以上、朝鮮こそが中華文明の継承者であるということで自己を納得させたのだ(小中華思想の発端)。現実では夷狄に服従するが、精神的に小中華であるという、現実と精神の分離がここで生じる。高麗は仏教が栄えていたが、小中華である李朝は中国から伝わった儒学(朱子学)を尊び仏教を弾圧し朝鮮の伝統等を拝し、徹底的に社会改変を行った。そんな李朝が500年も続いたので、現在の朝鮮半島にもその精神が根付いており、李氏朝鮮こそが現在の朝鮮半島の精神的な基盤となっているという。
朝鮮の歴史観でいえば、遅れた不毛な土地の日本に文明を伝えてやったのに、その恩義を忘れて豊臣政権では朝鮮に浸出し、また20世紀に武力を背景に朝鮮半島を併合し、朝鮮半島を苦しめたということになる。朱子学は、理想を追求する「あるべき論」が強い強固な理念主義の思想であり(ともすれば空理空論なのだが)、それが朝鮮の思想的なバックボーンになっている。古墳や当時の人口の規模などをみても、文明の進んでいた朝鮮と、遅れた未開の日本という構図は実際には違うが、現実よりも、理想が重要なのだ。理想を求める思想的な姿勢が、「そうあるべきだ ⇒ そうに決まっている」という自分勝手な妄想にひた走り、ついに現実の方がおかしいと主張し始めるのだ。朝鮮では理想・理念が現実に優先する。
朱子学が色濃い朝鮮では、道徳を法よりも重んじる風潮があり、現在でも、詐欺・背任・横領などが日本の数百倍の規模で起きている。儒教では上下の秩序は説くが、横の連帯の観念は希薄で、それゆえ韓国では同僚・近隣トラブルが絶えず、人口は日本の4割程度なのに、訴訟件数は日本の6倍という多さである。儒教では家族を尊ぶ故に、李氏朝鮮の宮廷では各一族は不毛な権力争いを500年もしていた。李氏朝鮮は、部で足の引っ張り合いをして社会経済を停滞させただけだったのだ。国民性の問題なので良い・悪いという善悪論はなじまないが、日本人と全く違う感性を持っているのは確実である。
中国の影響が大きい朝鮮は、「天命思想」に基づき、王朝が徳を失うと易姓革命が起きて滅びると考える。滅んだ前王朝の正当性は一切が否定される。韓国では、大統領が代わると前政権に近かった高級官僚も一掃されるが、まさに王朝の交代なのだ。韓国大統領は全員が投獄・自殺・暗殺されるが、これは「王殺し」の伝統に由来する。天皇が2000年も続いてきた日本とはこれまた異なる。
儒学では、儒学者や文人が尊ばれるが、肉体労働の職人や芸能・芸術家は卑しい職業として見下された。李朝では21代国王は、武芸と芸術の才があるが学問が好きではない実の息子を米櫃に閉じ込めて殺している。それゆえに朝鮮半島には市民文化がほとんどなく、工芸レベルも極めて低く、芸術もせいぜい中国の模造品の白磁と青磁ぐらいである。それらも国力衰退で廃れてしまった。商業も卑しいとみなされたので、経済は発展せずに、李朝は極貧状態で人口もろくに増えず、悲惨な状況にあった。
韓国の博物館では日本統治時代の拷問の様子などを展示しているが、それらの刑罰は著者によれば、李朝時代に行われていた拷問だったという。李朝を倒した日本は悪者だから、これぐらいの悪行をやっていただろう、いややっていたに違いないというただの決めつけだが、韓国にとって歴史的事実よりも重要なのは理念である。現実はおいておいて、日本は悪役でなければならないのだ。当時、日本は西洋の法律を輸入した近代国家であり、国際的な評判の観点からもそのようなことを行っていたとは到底考えられないし、同じく日本統治下の台湾・パラオでは然様の話はないから韓国側の話のほとんどが作り話である。開化思想に共鳴し福澤諭吉に学んだ金玉均を凌遅刑という残虐な刑罰に処すなど、残酷な刑罰を行っていたのは前近代的な李氏朝鮮の方だった。ちなみに、金玉均の死体が残酷に解体され路上で晒し者にされたことに衝撃を受けて、福澤諭吉は「脱亜論」を著したのだった。ここら辺の歴史的文脈を無視して、福澤諭吉はアジア軽視論者などというのは無知蒙昧であろう。
極貧を極めた李氏朝鮮の一方で、日本は武家の政権が長く、商工業も発達して繁栄し、ハイカルチャーからサブカルチャーまで文化が爛熟し、文化的にも経済的にも大国になっていた。しかし、朝鮮からすれば、武人が支配し、卑しい職業が幅を利かせているという風に見える。結局、朝鮮は武人を蔑んだので軍隊が弱く他国に侵略されまくり、商工業が発達しなかったので極貧にとどまり、文化もろくにない不毛な土地だったわけだが、そんな現実よりも儒教的な理想を追求していたということが重要なのだ。
韓国の理念主義は整形文化にも垣間見えるという。つまり、理想像を追求することが是とされるので、現実が理想と違うなら(理想の顔と自分の顔が違うなら)、整形して現実を変えればいいという発想になる。朝鮮の美意識は、統一性・シンメトリーを好み、素材性の排除、造形における理念と形態合致を志向する。実際、朝鮮の青磁・白磁は表面がつるんとしていて、左右対称なものが多い。これは日本とは真逆である。日本の美意識では、素材を活かし、その物が持つ造形的な個性を尊ぶ。日本の茶碗などのごつごつした風体に味わいを感じるのはなんとも日本的感性なのだ。こうした理念的な完璧思考の挑戦と、あるがままを受け入れるという日本的な感性は全く相いれない。韓国では、こうした理念主義に立脚する美意識が、同じような整形顔の蔓延や芸術の多様化を阻害しているのだろう。ただ西洋音楽との相性は良いと思う。楽譜に書かれた音楽という理想の音色を追求するのは理念主義に合致している。実際、音楽コンクールで韓国人が活躍している。
この現実を直視しない姿勢は文大統領によく表れている。前大統領の朴の行った政策をことごとく否定し、反日政策で韓国経済の首を絞めているが、現実に負けても精神的に勝利するからいいのだと居直っている。こうした現実を直視しないで理念を追い求める理念主義こそが朝鮮思想なのである。日本と韓国は相いれないと割り切って、適度に付き合うのが良いだろう。徴用工問題を捏造して日本企業の財産を差し押さえる国と深いかかわりは結ぶことは不可能だ。資源も技術力もない人口5000万の小国だ。もうすぐ世界第1位の人口大国になるインド(人口13.5億人)や、6億人を超える市場のASEANとの関係強化の方が有益である。80年後に世界人口は100億人を超えるが、韓国は人口が2000万人を割る。騒がしい隣国は時間の経過とともに国際社会で存在感が薄れていってくれる。日本としては適度に距離を保って、関わらないのが合理的だろう。どうせ韓国の国力は現在がピークなのだ。