日本では格差社会が叫ばれて久しいが、もはや格差社会は前提のものとなり、新しい世代が生まれ、再び階級社会化してきている。これは日本だけの話ではなく、自由の国アメリカでも生じている現象であり、本書は「新しい封建制」という刺激的なタイトルで、新階級社会の到来について記述している。

 

工業社会を経て、IT産業が興隆したことで、GAFAMを代表するメガテックなどの創業者が富を独占し、メガテックはネット空間に仮想の自社の領域を拡大し、そこからの収益等で莫大な利益をあげている。これはかつて領地を持ち、そこからの収入で優雅に暮らしていた貴族と類似している。実際、アメリカでは政界は寡頭支配となっており、トランプ大統領は大富豪であるし、その取り巻きも経済的な成功者がそろっている。学歴的にも彼らはアイビーリーグを始めとした名門大学出身者であり、知的・経済的なエリートである。

 

本書で興味深いのは、こうした富裕な経営者層を貴族とすると、中世時代は彼らの権威付けを行っていたのは聖職者(教会)であるが、現代では彼らに権威付けを行うのは官僚、弁護士、大学教授、医者、アーティスト、コンサルタントなどの知的職種であるという。彼らの富がなぜ正当化されるのかは、たしかに自由経済学の学者やジャーナリストだろうし、彼らのビジネスの合法性は法律家が行い、彼らのビジネスの倫理性・公共性・環境適合性等はコンサルティングファームが正当性を付与している。いわれてみると、こうした知的職種は経済的には企業経営者等に遠く及ばないが、社会的な地位や信用等は高い。これはたしかに中世社会の聖職者と貴族との関係性に類似するといわれればその通りである。

 

これで第三身分もある程度豊かならいいのだが、問題は中流層は没落して、「デジタル農奴」「新しい奴隷階級」が増加していることだ。本書は中流階級の没落と、下層階級の増加を詳述しているが、例を1つとると、教育があげられる。アメリカでは私立大は年間数百万円の学費であり、経済力がないとそもそも名門校には通えないので、教育システムを通して階級化が進んでいるのだ。都市をみても、富裕層が住むエリアはかつての城塞のように塀で囲まれて、その周りに中流層が住み、そのさらに外側に貧困層が住むエリアがあるなど、中世の城塞都市のようになっている。この新しい階級社会の最先端がシリコンバレーだという。

 

私も世界的に階級社会化が進展していると思っている。実際、世界の上位1%の超富裕層の資産は世界全体の個人資産の4割を占め、下位50%の資産は全体の2%しかない。これは異常な偏りである。この傾向は今後も強まるだろう。世界的にインフレしているので貯金している人や資産がない人は貧しくなる一方で、株式・不動産・貴金属品・暗号資産などの資産を保有する人はより豊かになる。日本は金融資産の半分が貯金というありさまなので、インフレの中で貧しくなっていく。

 

私が大学生のころはまだ日本は経済大国の面影があったが、まさか経済規模でドイツに追い抜かれ、一人当たりGDPで韓国に追い抜かれるまで落ちぶれるとは思わなかった。ただ少子化の加速、投資意欲の低さ、高い国民負担率による消費の低迷をみていると、日本は衰退していくしかないと思う。本書は日本がアジアのスイスになるかもしれないとの説に言及してくれているが、どちらかというとかつて栄えていたポルトガルのような感じになると思う。すでに一人当たりGDPはほとんど同じになってきている。

 

 

本日は仕事終わりに浜離宮朝日ホールで、ルーカス・ゲニューシャス ピアノリサイタルを拝聴。ルーカス・ゲニューシャスは、ロシア人ピアニストで、祖母は名教師ヴェーラ・ゴルノスターエワという音楽一家出身。ショパンコンクールとチャイコフスキーコンクールという二大コンクールで各第2位入賞の実力者である。

 

(前半)

シューベルト:
即興曲集
D935 第1番 ヘ短調
D899 第2番 変ホ長調
D899 第3番 変ト長調
D935 第4番 ヘ短調
メヌエット 嬰ハ短調 D600

 

(後半)
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 op.28 《オリジナル版/日本初演》
 
(アンコール)
ゴトコフスキー:トリアコンタメロン、3拍子による30の雰囲気と光景 より 第11曲「懐かしいウィーン」
シューベルト(ゲニュ―シャス編):38のワルツ、レントラーとエコセーズ 作品18 より 第6曲
デシャトニコフ:ブコヴィナの歌 より 第22番

 

シューベルトは繊細なタッチで、どこかあえて素朴に、音を紡ぐ。派手さはなく、ペダルも控えめで、どこか古風な印象を受ける。珍しく「メヌエット 嬰ハ短調 D600」を取り上げているが、舞曲とは思えないテンポのシリアスな、どこかバッハを思わせる曲想。

 

一転して、後半はラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番のオリジナル版。ラフマニノフは遅れてきたロマン派ともいわれるが、本局はロマン派よりモダンな響きに驚かされる。ゲーテの「ファウスト」に着想を得たようであるが、標題は放棄されている。40分におよび長大なソナタであり、複雑さと曲の深遠さに畏怖を感じる。

 

ルーカス・ゲニューシャスの曲の深い理解と、その演奏の卓越性は、素人の私の理解の域を超える。ただこれだけの類まれな才能であるのに、ショパンコンクール及びチャイコフスキーコンクールで優勝しなかったというのは、その深淵で仙人のような、”近寄りがたさ”になるのだろうと想像する。コンクール優勝者が持つカリスマ性とスター性とは異なる、音楽の極致に向かう崇高な才能なのだ。

 

それにしてもアンコール曲が素敵だった。ゴトコフスキーの「懐かしいウィーン」は、ウィーンの華やかさと愛らしさとどこか都市の背負う歴史故か、哀愁を感じる。ラストのデシャトニコフ作曲の「ブコヴィナの歌 より 第22番」が、個人的にはヒット曲だった。ショパンの24の前奏曲を模して作曲されている。現代的だが、ブコビナ地方(北部がウクライナ、南部がルーマニアにまたがったカルパティア山脈の丘陵地帯)の民族音楽を取り入れた独特の曲想がある。知名度は低いが、素晴らしい作曲家は果てしなくいるのだと思い知らされる。

 

 

かつては都内でも、マンションは5000~6000万円が主流であり、年収1000万円ぐらいの中流サラリーマンでも購入ができた。しかし、昨今では「億ション」が当たり前で、特に都心五区では、2~3億の物件がザラになっている。いまや副都心の池袋や、神奈川の横浜・武蔵小杉等でもタワマンの上層部は2~3億が主流で、「億ション」は珍しくはない。そうした近年のマンション価格の高騰についてまとめているのが本書だ。

 

要は戦後約80年が経過し、3~4世代を経るごとに資産を相続する上流層と、資産を持たない下流層に分離し、上流層は相続税対策でタワマンを購入するので、需要が高まっている。また、日本は外国人の不動産取得の制限がゆるいので、特に中国人富裕層がこぞって日本の高級不動産を購入している。加えて、日本では少子化でブルーワーカーが減少し、施工コストが増加している。さらにはウクライナ戦争でのエネルギーコストの高騰、半導体不足、さらには円安が相まって、不動産価格の高騰を招いているという。

 

20年前であれば考えられなかったかもしれないが、もはや東京の不動産は香港・シンガポールはもちろん、北京・上海・台北と比較しても手頃になっている。日本が経済成長しない間に、アジア諸国は経済成長したのだ。中国は土地が持てないので、中国系の富裕層にとってみれば、継続的に所有権を保持できる日本の不動産は魅力的なのだ。

 

それにしても、本書で耳が痛いのは、社会階層の分離である。都心の2~3億円するマンションは大手企業勤めのエリートサラリーマン(年収1000~1500万円)でもまず手が出ない。大手ディベロッパー等が豪華マンションで相手にしているのは、金融資産で数億円を有する富裕層と呼ばれる階級の人々である。一代でそこまで成すのは難しいが、戦後80年経過し、世代を経るごとに社会階級の分岐が如実になっているのだ。昨今の高騰する不動産市場は社会階級の分岐を示唆している。

 

本書の指摘で鋭いのは、昨今のタワマンは、住むところではなく「金融商品」だという。豪華な共有部などは住んでみると使わないが、ディベロッパーからすればそれをネタに高く売れればそれでいいし、買い手も数年後にそれが価格が上がって売却できればそれでいい。要はタワマンは住むところではなく、豪華な設備という”記号”を持つ金融資産に過ぎないのだ。

 

一方、本書では、相当したタワマンの脆弱性も視野に入れている。要は街が投資物件だらけになると、地域コミュニティは薄弱となり、街としての魅力はなくなってしまう。大手ディベロッパーは売ってしまえば、その後に関心はないかもしれないが、公共性という観点では大いに問題があるし、街の趨勢はそこにある不動産価格にも影響がある。不動産を買う場合、今後の街の趨勢も見極める必要があるという。

 

184頁程度の薄い新書だったが、軽く読みやすく、示唆に富んだ一冊であった。

 

本日は上野の東京都美術館で開催中の「ミロ展」へやってきた。ミロはスペイン・カタルーニャ州に生まれた画家である。シュルレアリストと呼ばれることもあるが、古典的・写実的な手法も多様されている。太陽や星、月など自然の中にある形を象徴的な記号として用いたり、また、ポップな色彩と躍動感ある独特な画風で人気が高い。本美術展では、初期から晩年までの各時代を代表する絵画・陶芸・彫刻を配し、生涯を通じて彼が創造してきたミロの芸術を包括的に展示している。

 

全体的に色彩感が豊かで観ていて心地よかった。また、デフォルメされたモチーフは画面に絶妙に配置され躍動感があり、活き活きとしており、生命力にあふれている。ミロの生きた時代のスペインは戦争や独裁政権など苦難も多い時期だったようで、それが作品に反映されており、各時代の展示を通して鑑賞することで、ミロの人生に思いをはせ、作品の持つアウラにより一層魅了された。

 

雨だったからか、日曜の午後でもそこまで混雑しておらず、ゆったりと鑑賞できてよかった。

たまに美術館に来ると、リラックスできるし、創造的な刺激を得ることができる。

 

 

 

 

 

 

成功した企業経営者の主人公が、若きインターンに出会い、内に秘めた願望を発露していく。会社での権力関係が、男女間では逆転し、次第にその深みにはまっていく様をスリリングかつ官能的に描く。本作でニコール・キッドマンは、ヴェネツィア国際映画祭で最優秀女優賞に輝いている。

本作はフェミニズムの映画である。女性は支配されることを欲するマゾヒズムを生来的に持つというフロイトの説が昔は一定の影響力があった。実際、本作の主人公は企業経営者として成功し、権力を持つが、実は権力欲や支配欲は強くない。社会的に求められたからそうした役を演じているように見える。しかし、内心には被支配欲があり、それを若きインターンに見抜かれて、欲望に溺れてしまう。主人公のアシスタントのエスメは、権力ある女性は違うことを求めると思っていたと話すシーンがあるが、まさにこれを示唆している。しかし、映画の終盤では我に返り、企業経営者の役割に復帰している。

これは社会的役割と、自己の欲望の葛藤である。主人公がもし男性であれば、もはや本作は批判の対象だったかもしれないが、主人公が女性であることで、フェミニズム作品として出来上がっている。成功した女性と欲望を描いている点で「TAR/ター」との類似性が指摘できるだろう。

主人公がこうした精神構造となった背景として、幼少期のカルト団体での経験がもとではないかと考えているが、そうではなく、私が生まれつき持つ気質という結論に行きつき、自身と向き合えるようになったように描かれている。過去の出来事に責任を転嫁するのではなく、自己の内なる欲望や欲求に正直になり、社会的役割と折り合いをつけたのだ。

それにしても本作は音楽の使い方もすごい上手だった。丁寧に描かれた上質な映画だったが、前提知識がないと、ただの中年女性が若い男性に溺れてるだけに観えてしまうのも事実。

 

★ 3.9 / 5.0