「ギルデッド・エイジ ー ニューヨーク黄金時代」に最近ハマっている。アメリカ版「ダウントンアビー」。1880年代の金ぴか時代のニューヨークを舞台に、大富豪の邸宅での人間模様や恋愛等が描かれている群像劇。ギルデッドは金ぴかの意味で、時代区分として、1865年の南北戦争終結から1893年恐慌までの28年間を指す言葉で、資本主義が発展し、また、西部開拓が進んだ時期である。

アメリカは自由平等の国という人もいるが、上流階級はおり、メイフラワー号に乗ってきた人々の血筋などの歴史ある一族で、かつ、経済的に成功した一族が名家とされる。逆にジャガイモ飢饉で移民でやってきたアイルランド系等は逆に下層にみなされがちである。米国は人種差別が激しいが、白人同士でも階層があるのだ。

それにしても、欧州文化に憧れるアメリカの上流階級の描かれ方が面白い。経済的には裕福になっても文化的にはまだまだだった。本作は当時の社会の様子が面白のだが、その中で、裕福な黒人が出てくるが、実際にそうした黒人はいたようで、勉強になった。

ちなみに、本作は全くの創作というわけではなく、鉄道事業に成功した新興富裕層の成金ラッセル家は、ヴァンダービルト家がモデルである(ヴァンダービルト家の豪邸は一部現存している)。旧勢力のキャロライン・アスターなどは実在の人物(アスター家のウィリアムは英国に帰化し子爵になり、その三男は男爵を受爵し英国貴族となっている;二家とも現存)である。アメリカ赤十字創立者のクララ・バートン 、ラッセル家の設計者スタンフォード・ホワイト、社交界で顔が広かったウォード・マカリスターなども実在する。

 

下記がニューヨークに実際にあったヴァンダービルト家の豪邸であるプチシャトーである。こちらは現存しないが、巨大な別荘等は残っており、観光地化されているので、いつか訪れてみたい。

(出典)LINK


「ダウントンアビー」よりは内容が軽いが、その分、気軽に観れる。当時のニューヨークの上流階級の生活模様などが面白い。ただ建物や風景が明らかにセットだったり合成で、服装も派手な色遣いが逆に安っぽいのが残念。第3シーズンに更新されているので、続きが気になる。なお、視聴者数がシーズンを重ねるごとに増え、第4シーズンも決定している。

ちなみに、本作の脚本は「ダウントンアビー」と同じジュリアン・フェロウズ作だが、彼自身が一代男爵の英国貴族だったりする。彼の奥さんはキッチナー伯爵の姪にあたり、マイケル王子妃のマリー=クリスティーヌ夫人の女官だった。なお、彼の実父は妻と死別し、その後、ゲインズバラ伯爵の令嬢と再婚しているため、義母が伯爵令嬢にあたる。貴族社会・上流社会への造詣の深さが作品に深みを持たせている。

 

なお、ニューヨークの上流階級が、英国貴族とのつながりのために、莫大な持参金と引き換えに英国貴族に嫁に出すことはあったようで、本作でも描かれている。ダラー・プリンセスという。「ダウントンアビー」のほうのコーラもまさにそれである。なお、本作のヴァンダービルト家のコンスエロ・ヴァンダービルトも、実際に、第9代マールバラ公チャールズ・スペンサー=チャーチルと結婚している(後に離婚)。

 

いまは第3シーズンの途中だが、第4シーズンが楽しみである。

 

 
さて、仕事終わりにツィメルマンのピアノリサイタルへ行ってきた。場所はサントリーホール。
毎度ながら溜池山王駅内で迷う(;´∀`)
 
ツィメルマンはポーランド出身のピアニスト。ベートーヴェンコンクール優勝後、弱冠18歳でショパン国際ピアノコンクールに優勝し、時の人となった。誠実で真摯に音楽に向き合う精緻な演奏は、高い評価を得ており、フランスのレジオン・ドヌール勲章も受章するなど、名声をほしいままにしている。
 
プログラム
(前半)
シューベルト:4つの即興曲 Op.90, D 899
ドビュッシー:アラベスク第1番
ドビュッシー:月の光(ベルガマスク組曲より)
(後半)
プレリュード&Co(その仲間たち)~アーティスト・セレクション 16曲
 
前半はオーソドックスな構成だが、後半のプログラムが面白い。奏者によると、作曲家は連作として作曲していない限り、連続して引く必要はないという。ショパンのバラードやスケルツォを1~4番までまとめて演奏する必要はないというリヒテルの言説を引用し、また、東京の展覧会での体験(案内図等はなく鑑賞者が歩き回り探索していく)にも起因し、バッハから現在までの任意の曲を、真珠のネックレスのようにつなげることを思いついたという。すべての調を網羅する必要もないし、順番に並べる必要もない。決まりきったプログラムではなく、一緒に未知の体験をしてほしいという。
 
それにしても、初めて聞くが、演奏は、本当に一級品。長年にわたり聴衆を魅了してきたことがよくわかる。とにかく、音が透明でクリスタルのよう。どうしたらあんな音が出るのだろう。優しいタッチでふわっと音が響き、そして、煌びやかな音が降り注いでくる。静謐な大聖堂で、天使が舞い降りて、優しく歌っているような情景が浮かぶ。しかし、近寄りがたさはなく、どこかほっとする温もりがある。安定的な技巧、知的な解釈、豊かな音楽的感性、絶妙なペダリングからなる妙技である。
 
本当に素晴らしい演奏だった。
 
(追伸)
ただ冬の演奏会あるあるだが、曲の合間の咳払いがうるさすぎる。マナーを守ってほしいと思う。生理現象とはいえ、ハンカチで口を覆えばそんなに音しないですよね?響くようなゲホゲホ、ゴホゴホはさすがにマナー違反で取り締まってほしいですね。

 

 

チャン・イーモウ監督最新作。中国では大ヒットし、イーモウ監督の歴代No.1ヒット作となった。日本では上映館も限定的。テイストが好き嫌い分かれると思うが、個人的にはかなり面白かった。当時の歴史的な背景を知っていると楽しめると思う。ただコミカルな描写やら、癖のある音楽の使い方がやや不釣り合いに感じ、もっと重厚でシリアスなタッチでもよかったのでは?と思うが、エンターテインメント性を重視したのだろう。

舞台は、12世紀の中国。南宋は、北方の強国の金に脅かされていた。領土回復を目指した南宋の英雄の岳飛(がくひ)がいたが、南宋の宰相である秦檜(しんかい)の謀略で処刑され、秦檜はついに金国との和平交渉に臨もうとしているというときである。しかし、その前夜、金の使者が暗殺され、南宋の皇帝に渡るはずだった密書も消えてしまう。事件に巻き込まれた主人公は、密書を探すよう命じられるというストーリー展開である。終盤のどんでん返しの連続は目が離せなかった。

それにしても、岳飛の謀殺のくだりは描かれていないので、この歴史を知らないと話の対立軸がよく分からないと思う。中国では岳飛は英雄であり、秦檜は裏切り者の悪人とされる。ここは中国では描くまでもない有名な話だが、日本では知らない人も多いので、観ても「?」となった人もいるのではないかと思う。なお、満江紅は、岳飛の実在する遺詩であり、背中に「尽忠報国」の入れ墨があった。映画は史実を織り交ぜながら、刺激的なストーリーを創作しているのだ。

それにしても南宋と金はその後、モンゴルに滅ぼされている。金は、女真族(後の満州族)の王朝であるが、その後、後金を建国し、明王朝を滅ぼして、清王朝に続く。民族が入り乱れる中国の歴史は栄枯盛衰であるが、スケールが大きく面白い。

 

★ 3.9 / 5.0

パナソニック汐留美術館で開催中の「ウィーン・スタイル ビーダーマイヤーと世紀末」へ行ってきた。それにしても汐留は廃れたなと思う。アクセスが悪いのもあるが、コロナで大企業がオフィスを撤退などしたことの影響が大きいだろう。私が学生時代はほんとに先進的でスタイリッシュなオフィス街だったが、時代の変化には抗えない。正直、レストランエリアも閉店していたり、過疎っていて、寂しい限りだ。そんな汐留にパナソニック汐留美術館があるが、こじんまりした小さな美術館だが、なかなか良い展示をしているので、たまに訪れている。

 

 

19世紀前半のビーダーマイヤーと世紀転換期という、ウィーンの生活文化における二つの輝かしい時代を取り上げ、銀器、陶磁器、ガラス、ジュエリー、ドレス、家具など、多彩な作品をご紹介します。両時代の工芸やデザインに通底するのは、生活に根ざした実用性と快適さ、誠実で節度ある装飾、そして自然への眼差しと詩的な遊び心です。これら両時代に共通する美意識を、相互比較や空間構成によってご体感いただきます。


ウィーンは19世紀から20世紀初頭にかけて、独自のモダン・スタイルを築きました。オットー・ヴァーグナーが実用性と合理性を重視する「実用様式」を提唱し、その思想に共鳴した弟子ヨーゼフ・ホフマンらが推進したウィーン世紀末のデザインは、幾何学的で建築的な造形を特徴とし、実用性と快適さを実現する機能美が備わっていたといえるでしょう。一方で、1920年頃には幻想的で装飾性豊かな作品も生まれ、一元的な様式にとどまらない多様な造形が広がります。


この世紀末のデザイン革新の背景には、19世紀前半のビーダーマイヤー様式への回帰があります。手工業の質の高さ、模倣ではない主体的なデザイン、自然モチーフへの親しみは、世紀末のデザイナーたちにとって「近代的な住文化の出発点」として賞賛されました。過去の遺産を意識的に継承し、造形の基盤として参照しながら、より時代に即した造形に発展させることで独自の「ウィーン・スタイル」を獲得したのです。


本展は、こうした「ウィーン・スタイル」のありようを、両時代のデザインや工芸作品はもちろん、グスタフ・クリムトの繊細な素描作品や、当時際立った存在であった女性パトロンや文化人の活動、また女性デザイナーたちの仕事にも注目することで、多面的にご紹介します。さらに最終章では、世紀末ウィーンを越えてなお継承されるそのスタイルについて検証します。

 

NUNOが本展のためにデザインした織物を作品の展示面に使用した、特別な鑑賞空間で皆さまをお待ちします。ー 公式HP

 

さて、本展示会では、ウィーンで巻き起こったビーダーマイヤー様式を中心に、19~20世紀初頭の工芸デザインについて展示している。当時の豊かな都市社会の諸相を垣間見れて興味深かった。として100~200年前というと、現代人からすれば大昔だが、正直、デザインはいまからみても先進的で古さを感じさせない。当時、興隆していた上位中流階級~中流階級も洒落たデザインを楽しんでいたことがわかる。

 

やはりウィーンには一度行きたいなぁと思う。世紀末ウィーンは文化が爛熟し、様々な芸術や文化が花開いた。そんな都市を堪能してみたい。来年あたり行ってしまおうかな。

日本人は桑原さんが第4位に入賞して、二大会連続の入賞者となり、話題となったが、得点の詳細が公開された。今回は採点方法が変更され、次のラウンドに進ませるかどうかというYES/NO方式は廃止され、また、予選から本選の点数のスコアが最終結果に影響するので、全ラウンドで一定の水準だった人が有利であった。一次10%、二次20%、三次35%、ファイナル35%の比率であるので、特に三次とファイナルの比重が重要だった。ただこの結果にはかなり賛否両論であるが、数学的にみても、こんな大規模なコンクールで、完全に公平な採点方法などありえないので、これは一つの結果として受け入れるしかないと思う。

 

■詳細結果

 

スコアを見てみると、やはり審査員によって評価がかなり異なる。豊かな音楽性とか素晴らしい演奏とはいったものの、実際は個人の主観が入り込むものである。演奏は、奏者の精神状態やコンディションなどで左右されるが、それは聴き手も同様で、どの座席でどんな気分で座っていたのかによっても評価は変わる。音楽は刹那的な芸術であり、そもそも速度とかスコアといった、スポーツのような明確な基準はないのだ。

 

第三次予選の結果を眺めてみると、ファイナルに残れなったYang (Jack) Gaoに、審査委員長ギャリック・オールソン(ショパコンとブゾーニの優勝者)と、音楽学者のJohn Rinkは満点の25点をつけている。パレチニが18点、ヤブオンスキーとダンタイソンが17点と辛口だが、"ファイナルに残れなかったから悪い演奏だった"などということは到底言えない証左である。逆に、第三次予選の結果だけみると、第4位入賞の桑原さんの演奏には、満点をつけた人がいなかったりする(24点は2名おり、総合的には高評価である)。そして、第2位に入賞のケヴィン・チェンの演奏には、ヤブオンスキーが満点をつけて総じて高評価だが、なんとギャリック・オールソンは16点、エヴァ・ポブウォツカも18点とかなり厳しい採点である。これだけでも、いかに音楽の評価が分かれやすいかわかるだろう。別に順位などは音楽性の評価ではなく、たまたま選ばれた審査員の平均的な結果に過ぎないので、審査員が変われば結果も変わる。

 

そんな中で、Sir アンドラーシュ・シフの高松宮殿下記念世界文化賞受賞時のインタビューが話題になっている。Sir シフのコメントを下記の記事から引用しよう。

「演奏家はあくまで再創造者であり創造者は作曲家で神聖な存在です。作曲家に奉仕し自分を捧げるべきです。作曲家の指示に従わなければなりません。とはいえ、演奏家の個性が表れるものです。(中略)私にとってコンサートはエンターテインメントではありません。良い時間を過ごしてほしいですが、ショービジネスではないのです」

「コンクールは良くないものだと思います。音楽はスポーツではありません。芸術には計り知れない多くの要素があり、速さや距離などで数値化することができません。審査員の嗜好や感情が入り込んでしまうのです。私自身、ショパンの音楽は大好きですが、聴きすぎるのは健康に良くない。優勝した若者(エリック・ルー)のことは、彼がカーティス音楽院の学生のときに演奏を聴いたのでよく知っています。以前、彼はリーズで1位を獲ったと思いますが、なぜショパンコンクールに出なければいけないのか……そんなことを考えてしまいます」

「成熟していくプロセスがワインと音楽家は似ていると思うのです。ボトリングされてから1年のワインはまだ若く、熟成しなければいけない。10年、20年経ってから美味しくなるものもあります。 私が20歳のときに学んでいたべートーヴェンのソナタと、今日の演奏を比べると、全く違います。考え方が変わったわけではありませんが、私という人間が変わりました。それは、多くの経験を通して出会った人たちや様々な書籍から影響を受けて変わっていったのです。 若い音楽家に何か言えるとしたら、『ずっと練習しているのではだめだ』ということ。賢く練習をすれば、一日3時間で十分なはず。残りの時間で本を読み、美術館や博物館に行き、友人と触れ合い、自然に親しむ——これらすべてが音楽づくりに貢献していくのです」

 
Sir シフの音楽観に私は共感するが、やはり一方でビジネス的な側面も考えないと、音楽家は食べていけないという現実もあるものだ。Sir シフはコンクールを批判するが、彼自身もチャイコフスキーコンクール第4位の入賞者であり、その経歴がキャリアにつながったことは否定できない(なお、コンクール出場は国からの命令だったようであるが)。生存バイアスがあることは斟酌すべきだ。
 
ただ最近はコンクール入賞が自己目的化しているように感じられる。たくさんの入賞を重ねて、結果、コンサートピアニストとしては名前を聴かなくなったピアニストは枚挙にいとまがない。もちろん、教鞭をとっていらっしゃる方もいるが、音楽を深い次元に昇華して、ワインのように熟成を重ねる名演奏家がもっと多くてもいいのではないかと思わないでもない。技巧はコピーできてしまうが、年月を重ねた独自の音色や演奏の風合いはコピーできないのだ。