樸たるあの日の人々は | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は古代世界の人間について。

 

どういう話かと言うと、僕らは普通、縄文時代とか新石器時代に生きたような人々について、何処か賢くなかったり、原始的で劣った生活をしているというイメージを持っているということが多いと思う。

 

けれども、実際に古代の段階に書かれた文章や、古代人についての本を読んでいると、彼らは彼らなりに賢いというか、僕らと賢さの方向性が違うだけで、彼らの社会の中で生きるのに必要な沢山の知識を持っている様子が読み取れたりする。

 

この記事はそういう話についてで、古代人とて僕らと同じように生きていたし、辛いことも楽しいこともあって、無知が故の楽園ということもなかったという話を以下ではしていくことにする。

 

例えば、古代インドのバラモン教のテキストを読んでいると、当時の人々の生活習慣や儀礼、儀式の際に唱える呪文の数々が記述されていて、僕はウパニシャッドと呼ばれるバラモン教の聖典を読むまではそれら全てを一つたりとも知らなかったけれども、彼らはそのような知識について習熟していて、それが故にあれらの本は書かれたのだろうなと思うようなことが書かれている。

 

今から2000年以上前の時代を生きた彼らは、今現在の科学知識や現在誰でも知っている生活習慣や法律、例えば道路交通法と言った僕らが持っている常識は持っていなかったとしても、彼らがインドで祭祀階級として生きていくのに必要な知識は持っていたとテキストから読み取れる。

 

彼らと僕らとでは知識の方向性が違っていて、彼らに必要だった方向性については、僕らより彼らの方が遥かに賢かった様子がある。

 

他の地域の、例えば古代中国戦国時代のテキストを読んでいると、コンパスと定規で何らか図形を書いて、それによって設計をしていた様子が『荘子』という道教の本を読んでいると読み取れる。

 

「 恵子が荘子にむかって話した、「私のところに大木があって、人々はそれを樗(おうち)とよんでいますが、その幹はこぶだらけでであって直線はひけず、その小枝は曲がりくねっていてコンパスや定規は使えないということで、道ばたに立てておいても大工はふりかえりもしません。ところで、あなたの話も大きすぎて用いようがないなら、人々みんなにそっぽを向かれるのですね。(荘子 『荘子 第一冊 内編』「逍遥遊篇第一」  金谷治訳 岩波書店 1971年 p.39)」」

 

 

この説話自体は、『荘子』の主張は色々と大層な事は言っているけど、そんなものは役に立たないという話をしていて、どんなに大きな木があったところで、枝が曲がっていて幹が瘤だらけであったならば、建材として使えないのだから、大工は見向きもしない様に、貴方のお話は大きいだけで役に立たないと、恵子が荘子に向かって言った場面になる。

 

これに対して荘子は、なんでも使いようであるのだから、貴方は私の言葉の使い方を知らないだけだと返答するというやり取りになっている。

 

『荘子』の思想のあれこれについてはこの場ではどうでも良くて、ここにコンパスと定規についての話がある。

 

『荘子』を書いたのは古代中国人であって、古代世界の人々となると、何処か原始的で何処か劣ったやり方を行っていると普通の場合思いがちな一方で、コンパスと定規で線を引いて形を決めて、それから木材を切り出すというのは現在でも行っていることになる。

 

今だと、斬るのには電動のこぎりとかを用いるだろうけれども、そのようなものが出てくるまでは鉄器によって切り出しは行っていて、つい100年も前まではおそらく、古代中国人と全く同じやり方で、木に線を引いて、そこから形を決めて木を切り出していただろうという推論がある。

 

古代人と言うと大体の場合、非常に稚拙なやり方でありとあらゆることをこなしていたというような漠然としたイメージが誰にでもなんとなくあるだろう一方で、古代世界についての本を読んでいると、彼らは彼らなりに賢いというか、僕らと彼らとでは、学ぶべき事柄と、貯えるべき知識が違うだけでしかないということが分かってくる。

 

古代人と現代人の違いにしたところで、DNAはさほど変化しているわけもなくて、結局、学校教育を受けているかいないかで、現代の科学を知っているか知っていないかだけで、脳の構造自体は全く変わっていない。

 

今回の記事は、古代に生きた人々とて賢かったし、彼らとて生きるのは大変だったというような話してきたいと思う。

 

僕はこの前、エッツィというか、アイスマンについての本を読んでいた。


エッツィというのは1991年にアルプス山脈の氷河の中発見された、今から5000年前のミイラになる。

 

研究者がこの死体にエッツィと名付けたらしくて、日本だとアイスマンで知られているけれども、この記事ではエッツィで通すことにする。

 

そのエッツィと後に呼ばれたミイラに関しては、現地の研究者がその死体を色々研究していて、その研究結果を世界で初めて発表した本が邦訳されていて、それがこの前ブックオフで200円で売っていた。

 

 

僕はこの本を買って読んだのだけれども、まぁ200円で買ったにしては良い内容だったと思った。

 

この本全体としては別に大して言いたいことはなくて、この本はエッツィと呼ばれるミイラについて世界で初めて専門家が解説したような本で、それが故に、情報が少し古かったりする。

 

現在だとこのエッツィの死因は、敵から矢を受けて死んだからということが分かっているのだけれども、この本が書かれた当時だとまだそこまで分かっていなくて、彼は雪山で野垂れ死んだという説明がこの本ではされている。

 

僕は最初から、矢で射殺されたということを知っていたから、丁寧にどのように野垂れ死んだかを説明するこの本の記述に、「うーん」と思ってしまったところがあった。

 

日本語訳が出版されたのが1994年で、始めてこの死体を解剖したのが2012年なのだから、色々仕方がないのだけれども。

 

ただけれども、この本を読んでいて、頭では分かっていたはずの事柄について、実際の所、自分がそうと考えているよりも遥かに分かっていなかったことがあって、その事が今回の趣旨になる。

 

そのことは何かと言うと、古代人はやはり賢いというところになる。

 

僕は先の本を読む前の段階から、この記事の冒頭で言及した古代インドと古代中国について、その当時を生きた人々についての見解を持っていて、古代人とて賢いということは知っていたはずだった。

 

ただ、その認識が甘かったというのが実際のところで、古代インド人と古代中国人が賢いのは当然として、そうではない地域、文字が残されていないような地域の人々も賢かったということを頭では分かっていたというのに、実際にその本に書かれた彼らが当時持っていた技術についての記述を読んで驚く部分があって、驚いたということは彼らを甘く見ていたというのが本当のところになる。

 

…ここで実際の記述を引用してその高度さの話をしようと思ったのだけれども、100ページ以上にわたって彼が所持していた物品の技術についての話がされていて、その話を読んで先のように僕は驚いたとはいえ、引用してその驚きを共有するにふさわしい箇所を今発見することができなかった。

 

5000年前の時点で針と糸を持っていて、針に関しては骨器で、糸に関しては動物繊維で、かなり緻密な技術と、動物の利用に関する知識があった様子があるのだけれど、こう書いたところでまぁそりゃそうだろという話で、やはり本全体を読まなければ言いたいことが伝わらないような話である様子がある。

 

火口となるサルノコシカケの破片を所持していて、それに火をつけて燻ぶらせた状態で持ち運んでいつでも焚火を起こせるようにしていたとか、当時から牧畜も農業もしていて、脱穀した麦の殻が衣服に付着していたりとかそのようなことが書かれている。

 

5000年前とは言え、その農業のやり方にしても多少道具に関する技術は進歩したとしても、やっていることは大きく差はないはずで、放牧にしたところで機械の登場まで技術の向上もそれほど大きいものではなくて、5000年前の時点で、数十年前の田舎の農村と大きな差がない暮らしをしていた様子があった。

 

考えてみればシュメール人が国家を作り出したのも5000年くらい前で、シュメール人が文明を作ったのと同じような時期にヨーロッパに生きた人物がエッツィで、彼が高度な技術を持っているのは考えてみれば当たり前の話にはなる。

 

彼は銅で出来た手斧を持っていて、彼の仲間たちは冶金技術を持っていたということであって、これを読んでいる多くの人は、鉱石から銅を精錬する技術も知識もないはずで、その点に関しては多くの場合、僕らは5000年前の彼らに負けているという話になる。

 

これは偶然5000年前のミイラが出て来たからこの時点で彼がそのような高度な技術を持っていたと分かったというだけの話で、他の地域の人々も同じように賢く、同じように優れた技術を持っていたはずで、けれども、多くの物は有機物によって構築されていて、それが故に、朽ち果てて現在まで残っていないだけの様子がある。

 

古代人はなんとなく無知蒙昧なイメージがある一方で、少なくとも情報が分かっているエッツィや古代中東の人々などは、かなり高度な知識や技術を持っていた様子が汲み取れる。

 

中東の場合は文字を記録したのが偶然粘土板で、偶然良く保存できるようなものであったから残っていただけで、古代中東にしても、粘土板以外に羊皮紙などで筆記は行っていた様子が当時のレリーフから汲み取れて、けれどもそれは残っていなくて、粘土板がただ保存に関して有用だったから、情報が残り得たというだけの話である様子がある。

 

古代中国に関してもあまりに古い時代だと、甲骨文字とか青銅器に刻まれた文章しか残っていなくて、甲骨文字は基本的に占いの言葉だし、青銅器に刻まれた文章はその青銅器を作った経緯についてが書かれていて、大体の場合は何かの記念であるという話がされている。

 

そのような文字資料しか多くの場合は残っていないけれども、文字は普通に占いや記念碑以外にも用いられていたらしい。

 

『河南安陽市殷墟大司空村出土刻辭牛骨』という、骨に刻まれた行政文書が出土していて、そこから、当時とて文字は普通に統治に使われていたけれども、現在だと朽ちて残っていないだけということが分かる。

 

 

(『甲骨文通釈 河南安陽市殷墟大司空村出土刻辭牛骨』:参考)

 

偶然このようなものが出土したから、今から3000年以上前の中国にこのような文字や文化、行政担当者や命令書があって、人々はそのような形で統治されて、視察もあったということが分かる一方で、文字記録のない地域にはそのようなものがあったとしても、その事を伺い知ることは出来はしない。

 

結局、古代人だと何処か平和で、生きていくのも楽そうな漠然としたイメージがある場合があって、けれども、例えば今見た古代中国の殷の時代の文字資料を考えるに、今から3000年以上前の段階で高度な文化的な社会があっただろうという推論はある。

 

そしておそらく、文字がなくても同じような高度な社会の存在があったはずで、少なくとも5000年前のミイラであるエッツィの生きた社会には文字がなかったけれども、農村があって、そこで麦を育てて、脱穀して精製して、更には牧畜をして羊を育てていたという事実がある。

 

縄文時代の日本にしても瓢箪や陸稲などは栽培していたわけで、そうとすると、古代中国殷の時代で見たような何らか高度な社会があったはずで、古代インドのウパニシャッドや原始仏典を読んでいても、彼らが生きるのに必要な知識は沢山あって、そのような知識に彼らは習熟していたわけで、縄文人とておそらくは、何らか高度な知識や文化を持っていたはずになる。

 

実際、小田原城の博物館には神津島でしか産出されない黒曜石が展示されていて、どうやら、縄文時代にも人々は船で交易をしていて、伊豆諸島の黒曜石を運んでそれを売っていたりしていたらしい。

 

縄文時代となると、なんだかドングリ食って鹿を追いかけて、楽に生きていそうなイメージを持っている人が少なからずいるようだけれども、実際問題として、狩猟採取生活というのは今を生きる僕らからしたら辛すぎる生活になる。

 

その話は、『直立歩行』という本で紹介された、現在を狩猟採取生活で生きている、南アメリカのアマゾンに住む人々の話を読めば分かると思う。

 

「 一行は明け方に野営を撤収し、一列に並んで森に入っていった。男たちは身長が一五〇センチほどしかなかったが、自分自身が小人に見えるくらい巨大な木の弓を担いでいた。女たちも一部はきていたが、大半は野営を撤収してあとからくることになっていた。私たちが道と認識できるような道はたどらず、昇る太陽に向かって一心不乱に歩きつづけた。そのペースは、なかばジョギングと呼べるほどだった。森の地面に絡み合って生えている植物をかき分けて、驚くべき敏捷さで進んだ。

 一行は午前の半ばまでに八キロほど進んだ。アルマジロを捕まえるために束の間立ち止まっただけだ。その後ハチミツ、地虫、ヤシの実、そして南アメリカの小さなげっ歯類であるアグーチを一匹見つけ、つかまえた。たそがれが近づいて、やっと探していたものを見つけた。森の樹冠が形づくる天蓋のなか、遠くでけたたましい音が鳴り響いた。それは、サル―――この人間たちが好むオマキザルがいることを意味した。一行は止まり、男の一人が、子供のオマキザルが困ったときに出す音を真似て静かに口笛を吹いた。彼が繰り返して口笛を吹く間、一同は辛抱強く待った。やがて一〇〇メートルほど離れた木のてっぺんにサルが一匹現れ、それからまた一匹、さらにまた一匹現れた。オマキザルの集団は口笛を子ザルが困っている徴(しるし)と考えて、音がするほうに移動してきたのだ。

 サルが近づいてくると狩人の一人が弓を立てて、矢を放ち、一匹の脇腹に命中させた。サルはほとんど射手の足元に落ちた。ほかのサルたちは仲間の死を無視して、迷子になった子供を捜しつづけた。オマキザルは一匹また一匹と狩人たちの矢に倒れていった。サルが矢で傷つきながらも、生きたまま地面に落ちることもあった。その場合には狩人たちはサルを捕まえ、手で殺した。一行は合わせてサルを七匹殺して、ここを離れた。

 男たちは、はるか後ろからついてきている女と子供たちに自分らの位置を合図で伝え、森のなかが闇に閉ざされると、集団は全員が集まり、夜を明かすための小屋をつくり、キャンプファイアでサルの肉をあぶった。およそ二四キロ歩いた末に、狩猟採集民の集団は休息をとった。次の日もまた同じことの繰り返しだとよく承知しながら。(クレイグ・スタンフォード『直立歩行 進化への鍵』 長野敬 林大訳 青土社 2004年 pp.170-171)」

 

 

彼らはサルの肉を得るために一日24キロを歩いたとあるけれど、ただ24キロメートルを歩くのではなくて、歩く場所は下草の鬱蒼と生えたアマゾンのジャングル地帯になる。

 

それを一日中歩き回って、それを一回やるのではなく、365日ほぼ毎日行うようなそれが、ジャングル地帯に住む狩猟採取民族の生活スタイルになる。

 

縄文時代の日本に関しては、おそらくは大部分の場所が森林地帯や湿地帯で、そのような場所を先のアマゾンの民族がそうしたように、縄文人とて歩き回ったはずで、次の日もまた同じことの繰り返しだとしても、そのような方法で動物の肉は獲得していたはずになる。

 

縄文人の生活は何故だか楽だと思っている人が少なからずいるけれども、僕らがアマゾンに住む人々のような生活を明日から毎日死ぬまでやれと言われても出来ないのが普通で、一方で、アマゾンに住む彼らはそのように生きているし、おそらく、縄文人とてそのように生きていた場合もあったと思う。

 

そのような推論はある一方で、そうとは言えどもどのような社会が縄文時代にあったのかは良く分からない。

 

ただおそらく、古代中国とかなり似た社会もあったのだろうという推論がある。

 

縄文時代の遺骨の中には抜歯と呼ばれる風習の名残として、特定の歯が生前に抜かれた状態のそれが出土している。

 

その抜歯の習慣なのだけれども、どうやら、古代中国にも同じようにあったらしい。

 

墓地に見る社会構成

 ところで、半坡村の共同墓地には、百七十余の墓があったが、それらには少年期をふくむ年齢以上の人びとが、浅い長方形の土坑墓に伸展葬されていた。これに対して幼児は、大部分が居住区の内部の家の周囲や床下に甕棺に入れて埋葬されていた。遺跡でも同じような状況であった。したがって少年期に達すると、村の共同墓地に埋葬される資格を与えられたことがわかるが、おそらく五歳ぐらいで若者組にいれられ、村の後継者として教育され、一定の仕事を負わされることになったと見られる。

 若者組の年齢上限は、墓の随葬品から見て十五~十六歳であったと考えてよい。地域は全くことなるが、大汶口文化では、抜歯の風習がかなり広く見られ、男は十四~十五歳、女は十六~十七歳で行われている。これは成人になるための一つの儀礼であった。仰韶文化においてはこの風習は見られないが、おそらく何かのイニシエイションが行われて、村の正式の構成員となったものであろう。これに対して幼児は村の構成員とは見られず、両親に付属すものとして考えられていたと言うことができよう。(貝塚茂樹 伊東道治 『古代中国』 講談社 2002年 p.92 下線部引用者)」

 

 

これは古代中国の仰韶文化についての話で、本来的に最後の大汶口文化のくだりだけが必要だったんだけれども、そこだけ引用すると色々あれなので、少し前のところから引用することにした。

 

大汶口文化は山東半島の古代遺跡の話で、どうもその辺りの海岸線に紀元前4100年前から紀元前2100年くらいの間を生きた人々のことを言うらしい。

 

彼らの文化には抜歯というそれがあったらしくて、彼らが海岸線を生きたということは漁労もしていたはずで、聞いた話だとオーストラリアのマンゴ湖から出土した4万から3万5千年前の遺跡からは、漁労のための網を使っていた痕跡が出土しているらしい。

 

そもそも、アボリジニの人々は今から5万年前に船を使ってオーストラリアにまで渡っているわけで、古代中国人にしてもおそらく、相応の航海技術はあったはずで、少なくとも縄文人は神津島と関東の間を船で交易していたわけであって、彼らは航海技術を持っていたのは確実になる。

 

そして、大汶口文化に抜歯の風習があるということと、縄文人に抜歯の風習があるということは、無関係ではないと思う。

 

考えるに、縄文人に大汶口文化の人々が抜歯の文化を伝えたか、縄文人自体に大汶口文化の地域から船で渡ってきた人々のグループがあって、それが故に彼らも同じように何らかの理由で歯を生前に抜いていたという話になると思う。

 

そのような歯を抜くというのも社会の中で決められたルールがあったが故にそうなっているのであって、僕らには伺い知ることは出来ないけれど、殷の行政文書に見たような高度な社会がおそらく縄文時代にもあったと僕は思っている。

 

他には以前言及した三内丸山遺跡についての本には、三内丸山遺跡で発見される出土品の類について、中国大陸で似たようなものが発見されているし、どうやら日本海や太平洋沿岸では船を使って交易を行っていたらしいという話もされていた。

 

 

僕らが普通考えるより遥かに、縄文時代の生活は高度であった様子がある。

 

加えて、そのような原始時代だと人々は平和だったという認識が多くされている様子がある。

 

まぁその話は以前したよね。(参考)

 

その事について、やはり古代世界とて殺伐としていて、人が人を殺すようなことは当然としてあったという話が、この記事で言及している5000年前のミイラについての本で言及されていた。

 

彼は青銅器時代…というより、銅器時代に生きた人だけれど、それくらいの時代に、村の住民が女子供問わず皆殺しにされた事件があったらしい。

 

以下の話はエッツィの生まれ故郷は所持品から推測出来て、けれども、その故郷から死体の発見場所は離れているから、何故あんな場所に死体があったのだろうという話で、村が敵に襲われて逃げてきたという可能性もあるという話からの流れです。

 

「 だが考古学的には、村同士の敵対関係を証明する証拠がほんのわずかしかないことは確かだ。たとえば新石器時代の集落跡には、広大な面積が燃えた跡が残っていることがよくある。だからと言って、その村が戦闘の結果焼けたのか、それとも不注意の火災だったのか、あるいは古い家を建て直すためにわざと燃やしたのか、その断定はなかなかつきかねるのが実態だ。

 ただし、新石器時代に戦闘が行われた証拠を明瞭に残す遺跡が一ヵ所だけあるので、必ずしも今回のハウスラプヨッホの一件と関係があるわけではないが、ご参考までに紹介しておく。

 それはドイツ南西部のハイルブロン近郊で発見された新石器時代の村の廃墟である。一九八三年にその村のはずれで共同墓穴が見つかったのだが、長さ三メートル、幅一・五メートル、深さ一・五メートルのその墓の中に三十四人の骨が埋められていたのだ。調査に当たったドイツの考古学者と法医学者の記述にはこうある。

「半数以上はうつ伏せ。手足はあちこちの方向に曲がっており、奇妙な方向を向いているものもある。仰向けの人の手足も、無理矢理ねじ曲げられている。一人の手足とほかの数人の手足が交錯している」

 つまり、雑然と放り込まれたような状態だったのだ。

 考古学調査を行ったところ、副葬品も皆無、装飾品なども皆無。これは当時にあっては実に珍しいことだ。通常は装飾品や道具類、武器、容器類が副葬されるからである。しかも遺体は何も身につけていない。間違いなく、これらの人たちは、衣服を剥がされてから殺されたのだ。

 人類学調査の結果、遺体の内訳が判明した。子ども・青少年が十六人、そのなかには一歳児か六歳児までの子どもが七人含まれていた。残り十八人が大人で、うち四人は五十歳以上の人、一人は六十歳を越えていた。大人のうち男性は九人、女性は七人(二人は不明)。子どもの性別も調査され、その結果、子どもの男女比もほぼバランスがとれていた。大人の女性の中で、年齢的に出産能力を有する人は六人いた。以上のことから、これらの遺体がほぼ新石器時代の一つの村の住人全員と推定された。

 法医学調査で惨劇が明らかになった。全員が殴られていた。骨に残った打撃の跡から、石斧とこん棒が使われたことが判明した。うち二人は、石の矢尻が付いた矢で殺されていた。そして殺害後はまとめて穴に入れられておしまい、だったのだ。

 0歳児の遺体がまったくなかったことから、逃げおおせた人がいた可能性もある。これだけの人数がいれば0歳児が一人ぐらいはいるものだ。柔らかい幼児の骨が地中で消えた可能性もないではないが、さらわれたとも考えられる。原始民族の場合にはよく、部族若返りのためにそうした「誘拐」を行うことがある。0歳児なら、言葉や風習も教え込みやすいという事情もある。その惨劇のあと、人肉食いは起きなかった。新石器時代には人食いも稀ではなかったのだが、今回の人骨には、人食いに特徴的な切り込みの跡などはなかった。

 この例に見るように、新石器時代の戦闘は村人全員の殺戮にいたることもある。勝者は容赦なく敗者を虐げるのだ。副葬品がなかったことから、財産が略奪されたことは確かだ。

 ではなぜ、このように完膚なきまでに殺害しておきながら、荒っぽい方法にせよ埋葬したのだろうか?

 それはおそらく、この村の家屋や家畜、農地などすべてを以後利用するつもりだったからである。遺体が転がっていては邪魔だったのだ。

 この例は「原始」民族の行動形態を明らかにしてくれるが、それと同じ行動様式は、悲しいかな、現代人からも失われていない。(コンラート・シュピンドラー 『5000年前の男 解明された凍結ミイラの謎』 畔上司訳 文藝春秋 1994年 pp.355-357)」

 

 

結局、この本が書かれた時には明らかになってなかったとはいえ、エッツィの死因は敵から受けた矢が動脈を裂いたことなのであって、古代世界では殺し合いがあったというのは事実であって、エッツィにしても何らか人間同士の殺し合いで死んだ後に、氷河の中で氷漬けにされたというのが実際のところになる。

 

先のドイツの遺跡については偶然そうと判断できる材料があったから、村一つが襲撃されて、女子供もまとめて殺されて埋められたということが分かったというだけで、おそらくは、そういう風に遺物が残っていないだけで、そのように村人が皆殺しにされるような事件は古代世界でも沢山あって、縄文時代にもおそらくあったというのはそうだろうと思う。

 

確か、縄文時代に関連する本を読んでいたら、縄文人の遺骨の中に人肉食の痕跡が残っているようなそれがあって、著者はそのような痕跡は関して、それは食べたわけではないと主張していて、犬さえ埋葬する優しい縄文人の中で食人などという風習はある筈はないと言及していた記憶がある。

 

ただ、犬や家族に優しくするのと、敵対する人物に暴力性を発揮するのとでは大分事情が違っていて、戦場で敵を沢山殺すような勇者が、家庭においては非常に愛のある振る舞いをすることもある筈で、ユダヤ人の大量虐殺を行ったドイツ人のある人物はけれども、家庭では非常に優しい父親であったと『夜と霧』の解題には言及されていた覚えがある。

 

 

結局、縄文人に見られた食人の痕跡も、おそらくは実際に食ったから残った跡で、縄文人同士で殺し合いもあっただろうし、そうでなくても、日々の暮らしは厳しいものだったのだろうと僕は思う。

 

そもそもの問題として、今現在僕らが時に非道とも思える残虐性を見せるのは、そのような行為を発生させ得る遺伝的な形質が存在しているからであって、今現在の僕らにそのような遺伝的な形質があるというのなら、古代人にも同じようにある筈で、現在の人間に残虐行為があるというのなら、古代人に残虐行為がないなんて普通に考えたらあり得ないよなと思う。

 

まぁ、小学校とかにあった、縄文時代の歴史を描いた漫画とかだと、普通に縄文時代とか平和そうだからそういうイメージなんだろうけれど。

 

そんな感じの日記。

 

この記事を作った動機は9割くらい、古代ドイツの族滅の話をしたかったというそれに基づいていて、その話が出来たのでとてもよかったです。(小学生並みの感想)

 

それ以上でもそれ以下でもないですね…。

 

まぁ多少はね?

 

では。