ブラッディ・ナイフの横顔 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

書いていくことにする。

 

今回はいつもやってる小さなトピックを色々言っていくやつになる。

 

まぁともかく持ってくることにする。

 

・ジェンダーギャップ指数について

日本の男女格差について、それは世界的にあまり高くないようなそれであるというニュースを見聞きすることがあるけれど、実際の項目を読む限り、むしろ世界に誇っても良いのではないかって感じなんだよなあれ。

 

もちろん、内訳を見ても良くないと思うような部分はあるのはあるけれど、お国柄で済ませても良いようなところもあって、そのような所は仕方がない部分もあるのかなと思う。

 

というかそもそも、なんで日本が西欧的な価値判断に従わなきゃならんのかと個人的には思ってしまう。

 

以上。

 

ジェンダーギャップ指数という言葉があって、まぁ早い話、国ごとの男女格差の数字のことで、そのような指標を日本に当てはめた場合、あまり順位がよろしくないという話がある。

 

今年は世界で120位くらいなんだっけか。

 

僕はそのような話に触れる場合、どのような指標で評価されているのかがまず真っ先に気になってしまう。

 

例えば、世界幸福度ランキングなどのようなものが公表されることがあって、その順位で日本が芳しくなかったりする。

 

けれども、このランキングの指標には「寛容さ・気前の良さ」という項目があって、これは国民がどれ程寄付をしているか、どれ程ボランティアをしているかの数値であって、日本には寄付やボランティアを積極的にする文化的土壌がそれほどない。

 

そりゃ、上流階級やインテリの人たちだったなら、チャリティーや慈善活動を行うようになっているのはそりゃそうなのだけれど、一般的な日本人はそのようなことをあまり行わないのだから、そのような数値はどうやっても日本でやると低くなってしまう。

 

…僕のかつて通ってた大学は、キリスト教系の大学だったからやたらチャリティーとかやっていたということを覚えている。

 

けれども、そのような文化は西欧的な発想なのであって、日本人にはなじみが薄い。

 

キリスト教の伝統ではそのようなチャリティーや寄付と言ったものが強く根付いていて、そのような伝統の延長線上に今あるような国々は、そのようなことを人々がしがちなのであって、そのような文化を持つ国は世界幸福度ランキングで必然的に高くなる。

 

じゃあそのようなことが人類の普遍的な福祉かと言えば、そんなことは全然ない。

 

古代中国のテキストを読んでいて、寄付したり、慈善活動をしたり、貧者に恵んだりという行為の一切についての記述がない。

 

為政者の立場から、市井を慰撫するというような発想は見て取れるけれど、キリスト教の文化で見るようなチャリティーと呼べるような行為についての言及は一切存在していない。

 

道教などはそれどころか、財産を分けるという行為すらも非難していて、『荘子』という道教の聖典にその記述がある。

 

だから、そのようなチャリティーはホモ・サピエンスの生来的な形質ということはなくて、ただ西欧的な文化的な伝統でしかないし、そのようなことを日本人がやっていないのはそのような文化を日本人が持っていないからというだけの理由であって、その事を言って、日本人が幸福ではないと示すような議論にどれ程の価値があるのかと僕は思う。

 

キリスト教の伝統ではそうなのだろうとは思うとはいえ、日本人は必ずしもキリスト教徒ではないし、キリスト教的道徳はただの西欧の文化で、普遍的な正しさなどはないし、それに日本人が従う理由もない。

 

そのように、国連などが発表するようなランキングには日本人の文化には合わないような指標が用いられている可能性があって、ジェンダーギャップ指数についても何を基準にあれこれ言っているのかが分からなかったので、実際にその指標を見ることにした。

 

検索してみたら、東京都福生市が作っているパンフレットのPDFファイルが検出されて、そこに具体的な判断基準が書かれていた。

 

それを読む限り、むしろ一部の指標は世界に誇っても良いのではないかと思えるような内容が書かれていた。

 

まぁ見た方が早い。

 

(https://www.city.fussa.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/027/56.pdfより)

 

本来的には右の方に更に具体的な指数が書かれていたけれど、まぁ数字だけ見ても意味不明だし、見やすさを考慮して今回は省くことにした。

 

気になる人は上記のURLから見れるので、はい。

 

この表を見る限り、日本は中等部までの教育格差の低さは世界一で、出生時の男女比率の均等さと男女の健康寿命も世界一である様子がある。

 

出生時の男女比に関して言えば、日本以外の国は何らか女児もしくは男児が間引かれているという話であって、日本では一切間引かれていないということを意味していると理解して良いと思う。

 

つまり、日本のジェンダーギャップ指数は低いかもしないけれど、日本よりジェンダーギャップ指数が高い国を含めた全ての国は、何らか新生児は出生時に間引かれているということになってくると思う。

 

健康寿命の格差の少なさに関しても世界一であるということについても、政府はそこんとこを努力しているとは思えないから、おそらくは他の国では女性は医療を受けられないという場合があるという話だと思う。

 

女児の教育について、高校生になったら数字が低くなるのはちょっとどういうことか分からないから、僕からはコメントはできない。

 

…と思ったら高等教育ってのは大学教育の事か。

 

中等教育というのが高校までの話だったならば、日本においては大学進学は女性より男性の方が望まれるのは実際そうだから、その話をしているのかもしれない。

 

ともかく、総括すると日本は高校生まで世界で一番男女平等で、仕事に関しては男女差別はあるけれど、健康に生きているという観点では差別はないという話で良いと思う。

 

他の数値に関して言えば、日本の場合はやはり、男性の方が出世しやすいという風潮はあるから、それに関しては低くなっているし、女性の政治家の数も他国に比べたら低い様子があって、そこのところが数字として低く出ていることによって、ジェンダーギャップ指数が低くなっている様子がある。

 

男性の出世のしやすさと女性の政治家の少なさについては良いとか悪いとかは言わないけれど、ジェンダーギャップ指数が121位というのは、その見た目よりも遥かにその内実は悪くないのではないかと思う。

 

男の方が出世しやすい話に関しては、女性からしたらたまったものじゃないから、やはり是正が必要なのかなと思う一方、女性の政治家については、そもそも政治をやりたい女性があんまりいない所が大きいのではないかと思う。


もっとも、指標から分かるように、女性の所得は男性の所得より低いのであって、政治家になるための金を捻出できない部分もあると思う。

 

ただ、女児に碌に教育を与えていない国や、そもそも女児が生まれた場合に間引いている国々に、このことについてあれこれ言われる筋合いはないよなと思う。

 

とはいえ、日本単体で見て、悪いところは悪いと認識して良くしていく必要はあるとは思う。

 

まぁそうと思ったところで、僕がこのような問題に対してできる何かなど存在していないので、思って終わりなのだけれど。

 

次。

 

・ネアンデルタール人の顔について

ネイティブアメリカンのブラッディ・ナイフの顔を見て、ネアンデルタール人の古い復元図ってあれはアメリカ先住民の顔がモデルなんだろうなと思った。

 

以上。

 

古いネアンデルタール人の顔の復元図はなんだか顔の彫が深くて、如何にも原始人風なそれとして描かれている。

 

(Wikipediaより)

 

このイラストは1925年に出版された本に掲載されたものらしいけど、まぁネアンデルタール人ってこんな顔ってイメージあるよね。

 

けれども、最近だとなんだかこういう風に掘りを深く描かないで、より現代人に近いような顔として描かれる場合が多い。

 

(https://humanorigins.si.edu/evidence/human-fossils/species/homo-neanderthalensisより)

 

まぁ実際、ネアンデルタール人と現代人とではそれほどに相貌に差はなかったそうで、もしネアンデルタール人が電車に乗っていたとしても、彼がネアンデルタール人であると我々は気付かないだろうという話を僕は読んだことがある。

 

その話は『最古の文字なのか?氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』で読んだと思ったから、今引用しようと思って本棚をまさぐったけど見つけられなかった。

 

 

まぁこの本は今後、参照することはないだろうと思って、何処かに仕舞い込んだ記憶があるから、箱の奥の方にあるのだろうと思う。

 

ちなみに、この本は氷河期の洞窟に残された記号っぽいものに関する本で、それが文字なのかどうかって話なんだけど、結論としては分からないというそれでした。

 

…まぁ科学者的な判断保留で素晴らしいとは思う反面、ようこの結論で本出したなと思った。

 

議論の内容自体は科学的で良かったんだけどねぇ。

 

まぁともかく、ネアンデルタール人の顔貌は今現在だとホモ・サピエンスとそれほど差がないように描かれることが多い。

 

その事は現代人の遺伝子の中に、ネアンデルタール人のそれがいくらか混じっていると分かったという話とかも遠因としてあるのだろうけど、どうしてそうなってきたのかとかの詳しい話は存じ上げない。

 

けれどもおそらく、古いネアンデルタール人の顔の復元図に関しては、モデルはネイティブアメリカンの人々なのだろうと思う。

 

僕は少し前に、西部開拓時代のネイティブアメリカンの有名人について色々調べていた。

 

その調べごとの中で、ブラッディ・ナイフという人物についての話があった。

 

そして、そのブラッディ・ナイフの顔を見て、ネアンデルタール人の顔のモデルは彼らなのではないかと僕は思った。

 

まぁ見た方が早い。

 

(Wikkipediaより)

 

座っている男性の左に居る長髪の人物がブラッディ・ナイフで、彼の顔は非常に堀が深くて、ネアンデルタール人の顔と似ている部分がある。


(WIkipediaより)

 

特に眉のあたりが非常に似ていて、ネアンデルタール人を最初に描いた人は、原始人であるということで、同じように原始的であるネイティブアメリカンの人々をモデルにしたのではないかと僕は思った。

 

あと名前分かんないけど、座ってる人の右上のネイティブアメリカンの人の顔も古いネアンデルタール人の顔の復元図に似ている部分があって、西欧人は彼らを原始人として扱っていたのは事実だから、そのような理由で似ているという可能性はないではない。

 

そのような"いわゆる原始人"を西欧人がどのように扱ってきたかについては、僕は以前、「アフリカの子供たち」の記事で言及している。(参考)

 

西欧の人が如何にネイティブアメリカンの人々やアフリカ人を原始的で"遅れている"と扱って、如何に先進的である西欧人が教化して初めて現代人になれると理解していたかを考えると、そのような差別的な理由でネアンデルタール人のモデルとしてネイティブアメリカンの人々が用いられたのではないかと思う。

 

まぁ実際のところは分からないし、同じことを言っている人にも出会ったことがないのだけれど。

 

次。

 

・インガオホー

因果応報や自業自得という概念について、あれはなんとなく仏教の用語だと思い込んでいる節が僕にはあったのだけれど、あれはおそらく中国の文化なんだよな。

 

ウパニシャッド読んでいても原典訳の仏典読んでいても、修行の成果がもたらされるという意味での応報はあったとしても、生きている間で悪行に罰が報いられるような話は殆ど聞かない。

 

一応、原始仏典中部経典の『アングリマーラ・スッタ』にはそういう話があるにはあるけれど、むしろ古代中国のテキストでの方がそのような発想に出会うことが多い。

 

おそらく、日本人が語彙として使うところの因果応報は、中華的な価値判断に基づいているのだと思う。

 

以上。

 

僕はこの前、『春秋事語』という古代中国の出土文献を読んでいた。

 

…ここでAmazonアフィリエイトを貼ろうとしたら貼れなかった。

 

あぁん?なんで?

 

と思ったけど多分、在庫切れの商品はリンク対応してないんだろうと思う。(参考)
 

この本がどういう本かと言うと…まぁ、古代中国の短い説話集みたいなもので、因果応報したようなエピソードが18個くらい集められたようなものになる。

 

これは出土文献だから一部朽ちてしまった部分もあって、本来はもう少し分量があるようなテキストだったかもしれないとは言及が解説ではされていた。

 

その18個のエピソードのうち、17個までが悪い行いをした結果として、身を滅ぼしたような話が並べられていて、一つだけ、諫言を聞いた結果、厄災を免れたという話が収録されている。

 

僕はそれを読んでいて、僕らが日常語で使うところの因果応報はどう考えても中国由来だよなと思った。

 

僕は通常の何十倍も仏典を読んでいて…いや、通常が0~1程度なので、そりゃ数十編読むだけで何十倍なだけだとはいえ、とにかく、人より仏典を読んでいる。

 

けれども、僕らが普通使う文脈での因果応報の話はあんまり目立たない。

 

一応、原始仏典の『アングリマーラ・スッタ』に因果応報の話はあるにはある。

 

アングリマーラは若い頃盗賊をしていて人を殺しまくったのちに出家をしたという設定の人で、仏陀の言葉を受け盗賊をやめて修行しているというくだりの中で、以下の言及がある。

 

「 そのとき、長老アングリマーラは、朝早く衣を着て鉢をもってサーヴァッティーに托鉢のために入った。

 しかし、そのとき、他の人が投げた土塊が、長老アングリマーラの体にあたった。また他の人の投げた棒が、長老アングリマーラの体にあたった。他の人が投げた小石が、長老アングリマーラの体にあたった。そのとき、長老アングリマーラは、頭が傷つき、血が流れ落ち、大衣がびりびりになって世尊の元に近づいた。そのとき世尊は、長老アングリマーラが遠くから戻ってくるのをご覧になった。御覧になって、長老アングリマーラにこういった。

「婆羅門よ、そなたは忍受せよ、婆羅門よ、そなたは忍受せよ。そなたがその行為の果報として、何年、何百年、何千年、地獄で苦しむであろう。その行為の果報を現在受けているのだよ」(中村元監修『原始仏典 第六巻 中部経典 Ⅲ』 春秋社 2005年 pp.212-213)」

 

こういう風に、一応原始仏典にも因果応報の話がされている。

 

どうでもいいのだけれど、「ご覧」の直後に「御覧」が来るのは書き写してて戸惑うから校閲しっかりして…(哀願)。

 

とにかく、仏教にも因果応報の話はあるとはいえ、僕らが日常で使う因果応報とは少し内容に差がある。

 

僕らが因果応報だと言うような場合だと、生きている間に行った行為の報いを受けるような場合が多くて、アングリマーラのこの話は死後に来る応報が今来ているというような感じで、このような死んだ後に来るような報いの話だと、やっぱり僕らが使う因果応報とは用法に差が出てくる。

 

『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』という本にも、そのような文脈での応報の話はあって、酒を飲んだり師匠の妻を寝取ったりした場合、来世で被差別民に生まれるという話が言及されている。

 

そのような事柄は実際、因果応報なのだろうけど、僕らが日常で使う因果応報とはイコールではないと思う。

 

一方で古代中国の場合、因果応報という言葉は使わないとはいえ、エピソードとして因果が応報されるようなものも多くて、それらは僕らが日常で使う因果応報の場面であって、おそらく、そのような発想は中華由来なのだと思う。

 

一例として『春秋事語』の文章を見てみる。

 

「 呉が越を伐ち、(捕らえた)越の民の死罪を赦免して、これを連れ帰り、もはや……することがないので……閽人とする刑罰を与え、舟守りをさせていた。

 紀䜊がいう、「刑罰を慎重にしないで舟を守らせるのは、その禍いを後日に残すものである。刑人は刑を受けたことを恥じて己に罪のないことを哀しみ、恨みを隠してその隙を伺うものである。(呉子には)千万に一つ幸運もないだろう」と。

 (果たせるかな)呉子余蔡が船を観覧しに来たとき、閽人が呉子を殺してしまった。(野間 文史訳『馬王堆出土文献訳注叢書 春秋事語』 馬王堆出土文献訳注叢書編集委員会 2007年 pp.82-83)」

 

閽人は門番とかのことで「…」の部分は元のテキストが破損して解読不能な所です。

 

呉という国の君主が戦争捕虜を適当に舟守にあてがった結果、後日、船に自分が乗るときに暗殺されて、その事について賢人である紀䜊は呉子の捕虜の始末を聞いた時点で予見していたというエピソードになる。

 

ここで、呉子余蔡が越人の捕虜を適切に扱っていたならば、彼は死ぬことがなかったという話で、こういう因果応報の話は古代中国では多い。

 

ていうか、『春秋事語』だけで17個のエピソードが収録されている。

 

他には秦という国の将軍で白起という人物がいて、彼には長平の戦いで40万人生き埋めにしたという信じがたいエピソードが残っているけれど、彼は最後、政争に敗れて死刑を言い渡されて、そのために死ぬ時に、自身の死は長平でやり過ぎたことが理由だと嘆じている。

 

「秦の昭王は、応侯や群臣と論議し、「白起が陰密へうつるとき、心中なお快々として承服せず、恨みがましいことばがあった」として、使者をやって白起に剣を与え、自害を命じた。武安君(引用者注:白起のこと)は剣を引きよせ、まさに自らの首をはねようとして言った。「私は天に何の罪を犯して、このような運命に立ちいったのだろうか。」

 しばらくして、また言うよう、「私は、もとより死ぬのが当然である。長平の戦さで、降服した趙の士卒は数十万あったが、わたしはいつわってことごとく穴埋めした。それだけで十分死ななくてはならない」と。ついに自殺した。(司馬遷『世界文学大系 史記 5B』小竹文夫他訳 1962年 p.75)」

 

この白起の諦観を説明するとしたら、彼は君主から与えられた賜死を自身の行いの因果応報と理解して死を選んだと言っても良いわけで、僕らが日常で使うところの因果応報の文化は中国にはある。

 

白起は自らの行い、すなわち業のために死んだのだから、自業自得である部分もあって、そのような発想は古代中国のテキストでは割と見かける。

 

一方でインドでは…ほとんど見ないよなぁ。

 

『アングリマーラ・スッタ』の因果応報も僕らが使う因果応報とは少しズレていると個人的に思っていて、おそらく、日本語の因果応報は中国由来なのだと思う。

 

実際のところはまぁ、仏典をもう少し読み進めないと分からないけれど。

 

そんな所かな。

 

では。