某鬱漫画の須藤の思想の解説 | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

本来的にはどう考えてもあのサイトに書く内容だけれども、まぁなんとなくこっちに書きたいからこっちに書くことにする。

 

…なんというか、あのサイトはもう更新したくなくて、最近している更新は鬼頭先生の漫画の販促だけであって、それだって本当は公開したくて公開しているわけではない。

 

結局、僕が『なるたる』の解説を書かなければ、ある一定数の人々は鬼頭先生の新作漫画に、以前のような鬱展開を期待していたはずなわけであって、そのような人は鬼頭先生が新連載を始めるとしたならば、『なるたる』『ぼくらの』を求めて素直に買っていたはずになる。

 

けれども、僕が今後、鬼頭先生の漫画でそういうのは期待できないよとねっとりとした方法で解説したことによって、一定数の人たちはもう、鬼頭先生にその方向性を期待しなくなっていて、その事である程度売り上げは落ちていると思う。

 

実際、落ちた売上なんて、僕の影響力を考えると大したことはないのだけれど、それでも僕のせいで売り上げが数十部落ちているかもしれないのであって、そのための義理として、鬼頭先生の漫画が出るたびに、販促の記事をあのサイトで上げている。

 

とはいえ、あのサイトはもうかつてのようなアクセス数はないのだから、あまり意味があることでもないのだけれど。

 

今回は、『なるたる』の須藤直角の思想について。

 

以前の僕は、『なるたる』の登場人物の主要な人々の解説をねっとりとした方法で行っていて、この須藤という人間についても解説を行っている。

 

けれども、解説したとはいえ、僕自身、須藤が何を考えているのかイマイチ分からなくて、彼の言動と行動が一致していなくて、僕は解説作業に苦労したということを覚えている。

 

須藤については解説を書きあげた後に、須藤についてのコメントで質問をされたこともあったけれども、僕はそれに対して、「僕も須藤の行動については良く分かっていない」と返したことを覚えている。

 

なのだけれど、最近、須藤の言動と行動がどういう意味なのか理解することになった。

 

その理解は『ぼくらの』の解説をねっとりとした方法で行ったという出来事がなければ決して得られなかった理解だから、須藤の解説を書いた5年前の僕には分らなかったのはどうしようもないね。

 

…5年前か。

 

まぁともかく、この度、須藤があんなことになっている理由についてを理解したので、その事について書いていくことにする。

 

僕は今月の4月1日に、「私は須藤直角の行動原理について真に驚くべき理解を発見したが、ここに記すには余白が狭すぎる。」って『なるたる』の画像投稿用アカウントで呟いていたけれど、あれはエイプリルフールのネタではなかったんですね。(参考)

 

そうそう、この記事は全体的に僕が書いた『ぼくらの』の解説の内容を前提とするから、『ぼくらの』に関係する言及で何言ってるか分からないところがあったら、『ぼくらの』の解説を確認してください。(参考:『ぼくらの』の記事の道しるべ)

 

さて。

 

5年前に須藤の解説を僕は書いているとはいえ、5年前に書いたものを読み直す胆力を僕は持ち合わせていないのであって、以前の解説の内容は全て無視して以下は書いていくことにする。

 

須藤は作中で、色々自身の考えについて言及している。

 

(鬼頭莫宏『なるたる』5巻p.102 以下は簡略な表記とする)

 

須藤は5巻の時点では、疲弊した世界を変える、自分自身で考えることのできる人間によって構成された社会をつくる、それには痛みが必要だと言及している。

 

そのような発想は7巻の時点でも健在で、同じ思考や思想の元に吐き出されたと判断できるような事柄を言及している。

 

須藤はまず、平等な社会をつくると言い、学校を退学している。

 

(7巻p.20)

 

この平等な社会というのも、先に言及した痛みを伴う改革によって生み出されるものと考えれば、別に何も問題はないと思う。

 

この後、須藤の退学の話を聞いて、須藤の元担任が須藤と色々会話をする。

 

(7巻pp.25-26)

 

アキラの話を導入として、須藤の思想について語られるのだけれど、一つ、以前の解説の時に言及していない事柄に気が付いた。

 

ここで、親を権力者と見立てているから、父親殺しは特殊だと言っているけれど、そんなこと考えているの多分、東アジアの地域の人々だけだと思う。

 

父親殺しという事柄自体は、フロイトという近代ドイツのおっさんのオイディプス・コンプレックスの話があって、父親を殺すということを特別視するのは精神分析学という西洋の学問に見られる発想になる。

 

けれども、権力者や国家と父親を同一視するのは精神分析学の考え方ではなくて、儒教の考え方になる。

 

これを読んでいる人の10人に10人はその話に興味ないからわざわざ引用はしないけれども、儒教の聖典である『礼記』とかにその話は書いてあって、この会話では一般論として父親殺しを権力簒奪と同一視して語っているけれど、それは儒教の文化的伝統にある日本や中国だけに見られる特殊な発想になる。

 

鬼頭先生はそのように、西洋的なものと東洋的なものの区別がついていなくて、そこら辺を一緒くたに一般論として語っていることが結構ある。

 

親と国を同一視してるのは日本人と中国人、それと韓国人くらいなんだよなぁ。

 

話を須藤の思想に戻すと、須藤はあれこれと今生きている人々が間違っていて、その間違った人々をどうすべきかについての話を続けていく。

 

(7巻pp.27-31)

 

結局のところ、須藤は現状の"生きる力"が弱い人間や役に立たない人間が生き残っている現状が気に食わないらしくて、そのような人々が浪費しているリソースを能力がある人間が使うべきだと主張している。

 

…改めてこの話を読むと、鬼頭先生の進化論についての理解が甘いせいでガバガバ理論になってるよなと思う。

 

まぁともかく、このようなことを須藤は言うけれども、実際にどうやってそれを行うかが問題で、その方法についてはこの話の中で言及がある。

 

(7巻pp.34-36)

 

要するに、優秀である日本民族が世界のリソースを全て使うことによって、優秀な人間にだけパンが配られる世界を作るという話になってくる。

 

7巻の時点ではそういう話をしていて、この時点ではあくまで宮子巽に協力して、アメリカを攻撃したり色々してそのことを行おうという話なのだけれど、11巻の時点ではなんだか須藤の言っていることが急に変わってくる。

 

(11巻pp.237-238)

 

7巻まで自分で考える能力がない人間を全員殺そう、だったのだけれど、11巻の時点では人間は全員殺そうに変わっている。

 

さっきまでと言ってること違うじゃない、という感じだけれど、12巻では更に言っていることが違っていて、彼の言動は混沌を極めている。

 

(12巻p.133)

 

5巻、7巻の時点ではあれこれと自分の思想を語っていたというのに、12巻で唐突に「僕には思想がない」とか言い始めている。

 

5年前の僕がこのことをどう処理したのかは覚えていないし、何を書いたかを読み返す胆力は僕にはないからどうしようもないのだけれど、当時の僕なりに色々書いていたとは思う。

 

けれども最近、どうして須藤がこのザマになったのかを理解した。

 

結局、このことは鬼頭先生の性質を考えれば分かる事柄になる。

 

『ぼくらの』において3~4か所くらいあるのだけれど、鬼頭先生は当初の予定を変更してキャラクターの性格や、行動、展開を組み替えるということを行うことがある。

 

『ぼくらの』では、例えばコモが最初の予定では精神的に追い詰められまくって父親との関係性に悩む話だっただろうけれども、設定の変更によって大して精神的に苛まれないし、父親との関係性にも大して悩みがないような展開として『ぼくらの』では描かれている。

 

他にはチズの姉は最初、キリエに対して畑飼を庇って「あの人だっていい所がある」だとかそういうことをキリエに言うような設定だったものを、聖人君子の性格へと変更したということがあった。

 

また、本来的には違う何かをする予定だったけれども、予定を変更してマチとウシロはジアースのパイロットの遺族へと挨拶回りをする展開にしたということが、インタビューの中で鬼頭先生が答えた内容から分かっている。

 

このように、鬼頭先生は最初に設定した物語の展開を実際に描くに際して変更をするということがあるということが分かる。

 

そして、この変更がなかなかに厄介で、当初のそれでは物語は成り立っていたけれど、変更に際して物語が破綻するということが実際に起きている。

 

コモについて言えば、コモは父親に嫌われていると思っていると独白するシーンがあるけれど、コモの回想やコモ編に出てくる父親はコモのことを嫌っているとは判断できないし、コモ編の前ではコモに冷たく接していた父親ではあるけれど、実際にコモ編が始まった時に古茂田一佐は全然コモに冷たくなくて、最初にコモに冷たく接したのは何だったんだという話になっている。

 

(鬼頭莫宏『ぼくらの』3巻p.35)

 

このようにコモに冷たくして、そのせいでコモが辛そうにしているけれど、このことはコモ編で一切拾われていない。

 

加えて、コモ編が始まる前はコモの頬はこけているのだけれど、いざコモ編が始まるとその頬のこけは消えてなくなっていて、頬のこけという描写は展開の変更で意味のなかったそれになってしまっている。

 

チズの姉に関しては、畑飼はチズの姉が大切だと言って、その大切さを示すために、チズの姉の姉にはキスしかしてないと言っている。

 

(『ぼくらの』6巻p.16)

 

そうであるのにもかかわらず、妹と関係を持って、更には金で売って撮影して脅して、妊娠させた上に出産ビデオが撮れるとまで言っていて、けれども姉にはそれを明かさないという不誠実さを示すという、意味不明な振る舞いを畑飼はしている。

 

(『ぼくらの』3巻p.185)

 

こんなことをしておいて黙っているということはチズの姉を全然大切にしていないし、チズと出会う以前からチズの姉と畑飼は付き合っていたのだから、それなのにチズに手を出した時点で、チズの姉に対して全然誠実じゃない。

 

(『ぼくらの』3巻p.149)

 

これはチズがまだ小学生の頃のエピソードだから、畑飼はチズと出会う前からチズの姉と付き合っていたわけであって、チズに手を出した時点で不誠実で、けれども、チズの姉にはキスしかしていないという誠実さを見せている。

 

(同上)

 

支離滅裂で意味不明でしかないのだけれど、僕が『ぼくらの』の解説で示したように、最初は畑飼はチズもチズの姉もほしいままにして、両者ともに弄ぶつもりだったけれども、実際にチズの姉を漫画に描いたときに、畑飼に弄ばれるような人間じゃないキャラクターとして描いてしまって、それがために畑飼はキスしかしない誠実さを見せることになって、それがために物語が破綻していると考えれば色々筋は通る。

 

マチの挨拶まわりについては、インタビューで本来的に挨拶まわりなんてなかったと鬼頭先生は言及しているけれども、挨拶まわりに際して、偽パイロットのカタリくんの家へとマチは挨拶に行っている。

 

それに際して、カタリくんはジアースのパイロットであるという設定で行くと予定を変更したようで、それによって政府がコクピット内にカメラを入れる理由が行方不明になってしまっている。

 

このように、鬼頭先生の漫画では当初の予定の変更に際して、物語が破綻するということが起きているということが分かる。

 

特に畑飼は『鬼頭莫宏イラスト&バックヤード集『ぼくらの』』にしっかり、チズの姉は畑飼を庇うという設定が書き残されているのであって、設定の変更はあったと考えた方が妥当だと僕は思う。

 

結局、鬼頭先生はキャラクターの行動や性格を変えるに際して、物語全体の整合性に注意を払い損ねて、その事で物語が破綻するということをしてしまうということでいいと思う。

 

そして須藤について。

 

まぁ、最初は5巻とか7巻で言っていたように、自分で考えられない人間が存在しない社会を作らせるつもりで動かしていたけれども、何処かの時点で須藤の思想を虚無キャラに変更したんだろうな、って。

 

唐突にそのようなキャラクター性に舵を切ったせいで、須藤は矛盾した言動をするキャラクターになってしまったのだと思う。

 

鬼頭先生はそのように、キャラクターや展開を当初の予定から変更して、そのせいで物語を破綻させるという場合があるということを考えると、須藤についてもその辺りを変更した結果、"あのザマ"になってしまったのではないかと思う。

 

(同上)

 

散々に思想を語った人間が、唐突に「僕には思想がない」とか言い始めるということを説明するとして、そのキャラクターを作った人間が他の場面で設定の変更に際して物語を破綻させているのなら、このこともそうだと考えるしかないと思う。

 

結局のところ、当初用意されていたシナリオは、シイナが色々あって名前を受け入れて、けれども世界は滅んで、シイナと涅見子の二人の子供が新たな世界を作り出すというそれであって、『なるたる』というのはその新しい世界から見た神話、すなわちメルヘンだから、『なるたる』という物語は「未来に向けるメルヘン!」というキャッチコピーがついているのだと思う。

 

この「未来に向けるメルヘン」は国立国会図書館で確かめたけれど、毎月ってレベルで『なるたる』のページの端に書いてあったよ。

 

須藤はシイナたちの作る前の世界を破壊するというところは想定としてあって、須藤が世界を滅ぼすか、滅ぼす寸前まで持っていくことが当初の予定だったのだろうと思う。

 

そして、具体的にどのように滅ぼすかについては、5巻7巻で言及しているように、能力のない人間のいない世界を作るためとか色々想定があっただろうけれど、『なるたる』本編では須藤が虚無キャラに目覚めて、全てのことを破壊し始めたと考えればまぁ筋は通る。

 

須藤はそれまで考えられる人間で構築された社会の事しか言っていなかったのに、11巻で急に「地球は人間がいなくても 悲しんだりはしない」とか言い始める。

 

(11巻p.239)

 

その急変をどう考えればいいのかだけれど、やはり、『ぼくらの』で設定の変更による物語の破綻が3か所以上見て取れる以上、このことも設定の変更による物語の破綻と考えて良いと思う。

 

散々に思想を語った人間が、「僕には思想がない」とか言い始めるという破綻は、『ぼくらの』の例を考えると、路線変更して滅茶苦茶になったんだろうな、って。

 

じゃあいつ変更したのかだけれど、これはもう、分からないとしか言いようがない。

 

『なるたる』はオムニバス形式の群像劇で、あるキャラクターについて描かれている間に、他のキャラクターの物語が進行するということが多々あって、11巻で須藤が急にみんな死ねと言い出すまではシイナや他の人々の話がずっと描かれていて、須藤がその間何を考えていたのかを知る手掛かりがない以上、どのタイミングで須藤のキャラクター性を変更したのかは分からない。

 

そうとは言え、11巻の「地下に眠る夏」の時点で須藤は痛み云々といっていて、その数話後にみんな死ねに変わっていたから、結構あの話の直近で変更がされたのかもしれない。

 

(11巻p.66)

 

総括すると、須藤の思想が一貫しておらず上手く読み取れないのは、そもそも一貫なんてしていなくて、途中で予定変更があったが故に、支離滅裂になってしまっているのではないかという話。

 

…多分、そうなんだよなぁ。

 

という須藤の思想の解説。

 

この内容なら解説じゃなくて考察だけれど、細かいことはいいんだよ。

 

あとついでに、ちょうどいい機会だからちょっと『なるたる』と『寄生獣』の話をしていく。

 

鬼頭先生は岩明均先生の漫画のファンで、その事はほぼ確実な事柄になる。

 

なんか、聞いた話だと、インタビューで漫画を描く際に『寄生獣』の最終話が載ったアフタヌーンを2010年代になっても未だに下敷きとして使い続けていたって言ってたらしいっすよ?(伝聞)

 

僕としてはそういうことを抜きにして、前々から鬼頭先生は岩明先生の漫画のファンなのではないかと思っていて、所々に岩明先生の漫画由来であろう描写が存在している。

 

須藤は「地球は人間がいなくても 悲しんだりしない」と言っている。

 

(同上)

 

以前にも言及したけれど、これは多分、寄生獣の最終巻が元なんだよな。

 

(岩明均『寄生獣 完全版』8巻p.181)

 

言ってることは違うけれど、意味内容は大体おんなじだから、多分、『なるたる』の須藤のセリフはこの『寄生獣』のやり取りが元だと思う。

 

他には、『なるたる』で須藤が取り調べ中に宮子の名前を告げて、その事で取り調べが終わるというシーンがある。

 

(7巻pp.140-141)

 

『寄生獣』でも取り調べ中に"その筋の"人物の名前を言って、その事で取り調べが終わるという場面がある。

 

(『寄生獣 完全版』6巻pp.35-39)

 

両者ともに、その人間が知っているはずのない人物の名前を挙げて、その人物は物語で重要な事柄についてを専門的に扱っている人間であって、その人間と引き合うことによって超法規的措置に近いことが行われている。

 

しかも取り調べ室では調べる側が両者ともに二人で、一人は座っていて、一人は立っているところまで類似している。

 

須藤はこのあと超法規的措置という感じで宮子の下につくことになるし、『寄生獣』の探偵も事の重大さから特別扱いをされている。

 

(『寄生獣 完全版』6巻p.70)

 

総合的に勘案して、先の『なるたる』の須藤の振る舞いは、『寄生獣』由来であるという可能性はあると思う。

 

他には『寄生獣』は10巻で過不足なく終わった名作だという風聞が古くから存在していて、おそらく鬼頭先生もその風聞に影響されている部分もあると思う。

 

『なるたる』は全12巻だし、『ぼくらの』は全11巻だけれど、おそらく『ぼくらの』に関しては全10巻の予定だったものが、最後の方に詰め込みたい内容が出てきてしまったが故に1巻分はみ出ただけで、全10巻を目指していたのだろうと思う。

 

鬼頭先生はインタビューで「感覚的に、長編漫画は10巻以上続いたら駄目だと思っている。」と言及しているし、『なるたる』も全10巻を目指していて、「(『なるたる』は)10巻は超えない?」という質問に、「それは目指しているんですけどね。最初はそのくらいの予定だったんですけど、今のところよくわかりません。でもこの場で語らせたら30分で終わりです(笑)」と答えている。(参考)

 

おそらくこのことは、『寄生獣』が10巻で過不足なく終わった傑作だという話が影響を与えていると思う。

 

別に…10巻で終わろうとも11巻で終わろうとも、物語の良し悪しには関係ないというのにそういうことを言っていることを考えると、世間様の『寄生獣』評が鬼頭先生になにがしかの影響を与えていたのではないかと思う。

 

そのような影響を受けるくらいに『寄生獣』などの鬼頭先生の作品が好きなのではないかという話で、まぁそうでもなければ十年以上も『寄生獣』が載ったアフタヌーンを下敷きに漫画を描いたりはしないだろうと思う。

 

加えて、須藤は価値のない人間が必要ないと考えている様子があるけれど、そのことも『寄生獣』に影響があると思う。

 

(岩明均『寄生獣 完全版』7巻p.184)

 

間引きということは不要な人間を殺すべきだという話であって、結局、『寄生獣』の広川は敵対勢力で、その敵対勢力の首領が人間を間引きして減らすべきと主張している一方で、『なるたる』の敵対勢力の首領である須藤がそのような価値のない人間が不要で減らすべきだと主張していることは、『寄生獣』の影響なのだろうと僕は思う。

 

広川はこの場面で「生物(みんな)の未来を守らねばと…」と言っているけれども、須藤も今のままでは未来がないと言うようなことを言っている。

 

(同上)

 

『寄生獣』という物語にはガイア仮説という、地球を一つの生態系として捉えるような発想が存在している一方で、『なるたる』もガイア仮説的な物語なのだから、『寄生獣』の影響はかなり色濃く存在していると思う。

 

そんな感じの『なるたる』の解説。

 

ナニモイウコトハナイ。

 

あ、でも、僕はもうとっくに『なるたる』にも『ぼくらの』にも飽きてるので、そこのところはよろしくお願いします。

 

…須藤の記事を書いたのが5年前というのがどういうことなのかを理解してもらいたい。

 

そうそう、関係ないけれど、鬼頭先生のtwitterのアカウントを見つけた人がいて、はえ^~と思った。(フォローはしない)

 

良く見つけるよなと思う。

 

そんな感じです。

 

では。

 

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