太陽の煌めきを求めて | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回はtwitterで呟いたような小さなトピックについて色々書いていくいつものやつになる。

 

本来的には生物に目的がないという話について、感染する癌やプリオンという特殊な蛋白質の話を交えて色々書いたり、古代世界の本を読んでいて気付いた通底して存在する人間の普遍的な性質があったからそれについて書こうと思っていたけれど、前回の記事にちょっとしたミスが発見されたので、その話を冒頭でするために、小さなトピックをまとめるような内容にすることにした。

 

前回、僕は古代世界に存在する四つから五つの世界を構成する元素についての話を書いたけれど(参考)、書いて一週間後くらいに自分がやらかしていることに気が付いた。

 

どういうミスだったかというと、本来的にエンペドクレスとしなければならないところを全部デモクリトスという名前で書いてしまっていた。

 

なんでそんなミスをしたのか自分でも良く分からないし、もう修正したけれども、四つの元素について言いだしたのはエンペドクレスさんであって、デモクリトスさんではない。

 

デモクリトスさんはアトム論という議論をした人であって、エンペドクレスより後の時代の人になる。

 

自分でもなぜその二人を取り違えたのかが一切分からなくて、『ソクラテス以前哲学者断片集』のまだ読んでないところを読み進めているときに、エンペドクレスという名前に出会って、その時に「あれ?この前のデモクリトスじゃなくてエンペドクレスじゃね?」と思って速攻でパソコンを立ち上げて自分が書いたものを確認して、果たして自分がやらかしていることに気が付いた。

 

一年前に同じ話した時は、しっかりエンペドクレスって言ってるのにねー。(参考)

 

どうしてそういうミスが生じたのか全く分からないけれど、あの記事でデモクリトスって書いてあったところは全部、エンペドクレスです。

 

まぁ、古代ギリシア人の名前なんて覚えられないのが普通だから、これを読んでいる人の中で四大元素を言い出した人の名前として僕が書いたものを記憶していた人なんていないだろうし、そもそも本旨はそこではないのであって、あまり問題はないとは思うけれども、ミスはミスなので、その話をすることにした。

 

どうでも良いのだけれど、僕が名前を取り違えたデモクリトスはアトム論という、世界は極小の元素によって構築されているという議論をしているのだけれど、おそらくあれもまた、ギリシアではない何処か違う地域に由来を持っている発想なんだよな。

 

まだ仮説の段階でしかないけれども、おそらく世界を構成する微小な物質についての議論が古代世界の何処かにあって、それが西のギリシアに行ってデモクリトスのアトム論になって、東に向かったその情報が古代インドのアートマンになったのではないかと個人的に考えている。

 

この記事の追記で書いたけれども(参考)、アトムとアートマンなのだから、非常に似た言葉だし、アトムは元々アトモン(atomon)という言葉だったと『岩波・哲学思想辞典』に言及されていて、アートマンとアトモンでは更に音が近くなる。

 

アートマンは魂と似たような意味になるのだけれど、そのアートマンが非常に微細だという話はバラモン教では結構あって、例えば『バガヴァット・ギーター』に言及があるし、『シュヴェーター・シュヴァタラ・ウパニシャッド』にも言及がある。(参考)

 

他には『アートマ・ウパニシャッド』にも言及があって、古代インドにおいてアートマンが微細であるという議論は結構な頻度で出会う話になる。

 

「この最勝我は気息の抑圧・等持・禅定・三昧・瑜伽の行に依て、自己の我なりと思惟さるヽものにして、無花果の種子として、或いは黍の小粒として存在し、毛髪先端の百千分等に由ても捕捉されざるものなり。(木村泰賢他訳『世界聖典全集 後輯 ウパニシャット 4』「アートマ・ウパニシャット」改造社 1930年 pp.97-98 旧字は新字へ)」

 

ここで言う最勝我というのはアートマンのことであって、そのアートマンは瞑想とかで認識されて、その大きさはとっても小さくて、無花果の種や黍粒、さもなければ毛先の百とか千等分の一の大きさよりさらに小さいと言及されている。

 

まぁ戦前に出た旧字体の翻訳だから、色々あれなのは仕方ないね。

 

僕には禅定と三昧と瑜伽の違いが分かりませんでした…。

 

全部概ね瞑想をするような修行のことだからなぁ。

 

「禅定(dhyāna)、三昧(samādhi)そして瑜伽(yoga)という術語は、原始佛教聖典以来一般的に用いられ、佛教思想において重要な役割を占めてきた語である。しかし従来、禅定(もしくは禅と定)と三昧について、厳密な概念規定なしに同義異語として用いてきたようである。したがって、佛教にあってこの二つの術語が、内容的にどれ程の区別があって用いられていたか、という点では、必ずしも明確ではなかった。(中略)次に瑜伽(yoga)という語について言えば、この語も原始佛教聖典に登場する。この語と禅定、三昧との関わりについては、これ亦、頗る明確でない。」(参考)

 

改めてその三つの意味をググり直して出て来た論文の冒頭を読んでみたけれど、まさか専門家でも意味が明瞭ではないとは思わなかった。(小学生並みの感想)

 

瑜伽というのは"ゆが"と読んで、インドのヨーガとかヨガと同じ意味になる。

 

ヨガ教室のヨガだし、ヨガファイヤのヨガで、三昧は日本語だと今だと贅沢三昧というような用法しかないけれど、元は集中して修行すると言うような意味で、それが派生して、そればっかりするという時に〇〇三昧というようになったらしい。

 

『アートマ・ウパニシャッド』では、そのようなことをすると素晴らしいアートマン、すなわち素晴らしい魂(最勝我)が自己のものであると認識できると言及されていて、そのアートマンは極小さな芥子粒のようなものだと説明されている。

 

その文章やアートマンについて書かれた他のウパニシャッドがいつ書かれたものなのかについては「分からない」以上の言及のしようはないけれど、やはり、デモクリトスのアトム論の議論と似ている部分はあるよなと思う。

 

ウパニシャッドのテキストがいつ成立したのかは本当に分からないから、デモクリトスとどちらが古いのかは分からなくなってきて、デモクリトス→古代インドかもしれないし、古代インド→デモクリトスかもしれない。

 

僕としては未知の共通の祖先からデモクリトスと古代インドへそれぞれ伝わったという想定が現状だと一番可能性が高いのかなと思う。

 

ちなみに、僕は自分で書いているそのような話について、前回の震災は現政権の首相が地震発生装置によって発生させたものだと主張するような陰謀論と、質的な意味で大きな差はないと考えている。

 

アリストテレスの天体についての議論が朱熹のテキストで見られることとかについては、ほぼ確実に情報が伝播した結果だと判断しているけれども、今回の話のように古代のことになると手掛かりになる情報が少なすぎるし、それぞれのテキストの成立年代が全く分からないから、前後関係を確定することすらできはしない。

 

僕は全ての事柄について、古い発想や間違った考えは刷新していけばいいと考えていて、このことについても現状の理解を示しているだけであって、今後、間違っていると分かったら考えを刷新していくだけになる。

 

これは僕独自の発想ではなくて、科学的な発想であって、科学はそういう性質の学問になる。

 

種々の方法、哲学の方法や仏教の方法、儒教や道教の方法に比べて、僕は科学の方法の方がより妥当だと考えているから、科学がそうであるように、間違いを修正していくだけであって、結局、その事も進化論者のリチャード・ドーキンスの著書に書いてあった情報を流用しているだけで、僕が言っていることなど"その程度"の事柄になる。

 

まぁそんな話はさておいて、今回はtwitterで呟いたようなものの再利用…をするつもりだったけれど、最近だと「ケツを掘られると女になっちゃうふざけた体質。」とか、『らんま1/2』を知らなかったら何の話か分からないようなことしか呟いてなかったので、今から呟いたという体で小さなトピックを用意していく。

 

…どうでも良いけれど、その呟きを今月から高校生になる15歳女性だとプロフィールに書いていた人がいいね!を押していた。

 

意味わかって良いね押したんすかね。

 

とにかくやっていく。

 

・黄金という価値ある塊について

金(きん)というのは僕らの価値観だと非常に価値のある物品であるという認識があるけれど、おそらくあれは文化的な判断で、学習経験して初めて会得される類の知識でしかないんだよな。

 

古代中東で金がどのように扱われていたのかは把握していないのだけれど、古代インドと古代ギリシアでは金は価値のあるものとして認識されていただろうと判断できる記述がある。

 

一方で古代中国の場合は金についての記述に覚えがない。

 

けれども、魏の時代に日本に金印を魏の王が送ったりしているので、そのころには金は中国でも価値があるようなものであった様子がある。

 

以上。

 

金といえばまぁ、黄金の事なのだけれど、古代中国では黄金についての記述が目立たない。

 

この内容を書くに際して、念のため、古代中国のテキストが読めるサイトに行って、「金」で検索をかけてその用法を調べたのだけれど、『春秋左氏伝』に"金玦"という言葉が出てきていた。

 

お手元の明治書院の『新釈漢文大系 春秋左氏伝 一』の該当の箇所を調べてみたら、「金で作った玦」と書かれていた。(左丘明『新釈漢文大系 春秋左氏伝 一』 明治書院 1971年 p.254)

 

玦(けつ)というのは古代中国で用いられた装飾具で、基本的に玉(ぎょく)で作られるようなものになる。

 

(雙龍玉玦 https://kknews.cc/collect/2eberzy.htmlより)

 

これの金バージョンが金玦という話だけれど、一応の意味で中国語のサイトに行って、この金玦を調べてみた。

 

古代中国のテキストを読んでいて分からない単語が出て来たときは、例えば「金玦 意思」とググれば中国語の辞書サイトが引っかかって、その単語の説明を読むことが出来る。

 

まぁその説明は中国語で書かれているのだけれど、"金玦"で調べたら、古代に用いられた口が欠けた形の青銅器製の輪であると書かれていた。(有缺口的青铜环。古代用作佩锦。参考)

 

古代中国では金属器全般のことを"金"と呼称していて、火、水、木、金、土という五行説の金も、ただ金属器のことを言っている。

 

まぁ新釈漢文大系の『春秋左氏伝』の注釈の「金で作った玦」という説明も、古代中国では金属器全てが金だから、何らかの金属でできた玦というニュアンスなら正しいと思うけれども、翻訳者がそこまで想定していたかは定かではない。

 

…何の本か忘れたけれど、春秋時代についての記述に鉄が出てきていて、いや、鉄はまだだろうと思って調べたら、その部分が"金"という言葉になっていて、おそらくは本来的に青銅器のことを言っていたけれど、結局のところ"金"は金属器全てのことだから、鉄と捉えて鉄と訳していたということが以前あった。

 

とにかく、古代中国では金といえば青銅器を含めた金属器一般のことで、一方で黄金についての記述はそれほど多くない…というか、僕の記憶にないほどに限られている。

 

一応、『山海経』には黄金の記述がある。

 

「(䧿山から)更に東へ三百里、堂庭の山といい、棪(えん)木多く、白猿多く、水玉(すいしょう)が多く、黄金が多い。(高馬三良他訳『中国古典文学大系 8 抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経』 平凡社 1969年 p.458 (䧿山から)は引用者補足)」

 

基本的に『山海経』の記述とかどうすればいいのか僕には分らないし、この記述では古代中国において金が価値あるものとして認識されていたかどうかは分からない上に、そもそもGoldの金をこの記述で言っているのかすら僕には分らない。

 

どうしてかというと、すぐ後に白金や赤金の記述があって、ただ単にその色の鉱物が取れると言っているだけで、黄色い金属の話をしているだけかもしれないからになる。

 

「更に東へ三百七十里、杻陽の山といい、山の南に赤金多く、北には白金が多い。(同上)」

 

白金だと現代日本語だとプラチナのことを言うけれど、古代中国で白金といって何を指していたのかは分からないし、赤金は銅の意味であるらしいけれど、素直に銅と判断していいか分からない。

 

黄金についてもその事情は同じで、そもそも記述があるからといっても『山海経』の言及だと価値があるかどうかも分からない。

 

個人的に、古代中国に金が価値あるものだという発想はなかったのではないかと思う。

 

一方で古代インドでは金は価値があるようなものだったらしくて、ウパニシャッドにも原始仏典にも金についての言及はある。

 

「ガウタマは言った――「お前は、わたしに、この願い事を与えることを約束した。お前がわたしの息子の面前で語った言葉、それを私に語れ!」と。

 彼は言った――「まことに、それは神の願い事に含まれる。人間の願い事に含まれる一つの願い事を語れ!」と。

 ガウタマは言った――「わたしが黄金、牛馬、女奴隷、毛皮、衣服の分け前を有すことは、良く知られている。あなたは豊富なもの、無限なもの、限りないものを与えることに関してはけちらないように!」と。

(湯田豊訳『ウパニシャッド 翻訳および解説』「ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド」大東出版社 2002年 p.150)」

 

このシーンは知恵と引き換えに財産を譲ろうと宣言する場面で、その財産の中に黄金が言及されている。

 

仏教でも黄金は価値があるものであったようで、原始仏典の『ダンマパダ』に黄金の言及がある。

 

「 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

 その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば(ダンマパダ)』岩波文庫 1978年)」

 

特に『ダンマパダ』の言及だと黄金は価値があるものだと認識されていたと判断した方が良いと思う。

 

古代ギリシアについても調べたのだけれど、ギリシア最古級のテキストであるホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』には金についての記述があって、黄金の錫や黄金の玉座の言及があるから、紀元前750年ごろには既に金は価値がある概念であったらしい。

 

…一応、青空文庫の『イーリアス』のページでF3キーを押して「金」で検索をかけたり、英語版の『オデュッセイア』の翻訳のページに行って「Gold」と検索をかけたりして、金についての記述があるということは既に確かめているのだけれど、実際の文章を引用しようにも、青空文庫の文章は何言ってるか分からないし、部屋の何処かに『イリアス』も『オデュッセイア』もあるのだけれど、まだ岩波文庫の整理が終わっていないので、何処にあるのか分からなくて実際の文章を引用できない。

 

青空文庫とか何言ってるか分かんないんだよなぁ…。

 

「城より取りて來るべき黄金を君欲するや?
はた妙齡の婦女を獲て、かたへ人なき密房に
愛に耽けるを望めるや? ああ全軍の將として
アカイア族を困厄に導き入れて宜からむや!
あゝ柔弱者恥しらず、アカイア族の名は空し。(参考)」

 

ともかく、古代ギリシアでは価値のあるものとして金の記述があるということは確かだと思う。

 

そして、そのような金についての記述に古代中国のテキストで出会ったことがない。

 

僕とか古代インドや古代ギリシアに比べて遥かに古代中国のテキストを読んでいて、それなのに古代中国では黄金についての記述を殆ど見つけられていないのだから、古代中国では黄金についての記述が本当に少ないのだと思う。

 

おそらく、金が価値ある物品だという発想は、中東で生まれたようなそれであって、その文化が中国に伝播したことによって、中国でも後に黄金が価値があるものだと認識されるようになったのだと思う。

 

三国時代の魏の時に日本に金印を送っているのだから、その時代にはその価値観が中国にも訪れていたのだろうと思う。

 

古代中国で価値のあるものといえば玉、すなわち翡翠などの宝玉によってつくられた杯や玦で、他には象牙やカワセミの羽などが価値あるものだと認識されていた様子がある。

 

…大学生の時にカンボジアの遺跡についての講義を受けたことがあって、その際に輸出品としてカワセミの羽の記録があることについて、講師がこれがなんなのか分からないと言っていたけれど、この羽は中国への輸出品で、カワセミの羽は旗などに用いる装飾具として使われていたらしい。

 

教授だったのか准教授だったのかは覚えていないけれど、カンボジア専攻だったらその知識がないのは仕方がないし、その時に「分かったら教えてください」と言っていたけれど、結局僕は伝達した記憶がないから、僕がカワセミの羽の用途を知ったのは、その講義が終わってから大分後だったと思う。

 

『淮南子』の「人閒訓」には犀角、象歯、翡翠、珠璣(種々の玉)という風に列挙されている。

 

…まぁ『淮南子』はまだ冒頭しか読んでいないから、中国語のサイトで「翡翠」と検索かけてるだけなのだけれど。

 

結局、金が何故価値があるのかについて言えば、金という物質に本質的な価値があるから価値があると判断されているというわけではなくて、何処かの誰かが価値があると判断して、その価値判断が伝播することによって、金が価値があるという共通認識が生まれたに過ぎないのだろうと僕は思う。

 

まぁ壺にしても掛け軸にしても、それらは本来的には土を焼いたものや紙に過ぎなくて、けれども価値があるのは何らかの契機でそれらに価値が生まれて、それが未だに廃れていないからに過ぎなくて、価値というのはその程度の判断だと僕は理解している。

 

現在だとカワセミの羽をいくら集めても何の価値にもならないわけであって、宝飾品の価値などその程度のものだと思う。

 

一方で、アステカ文明では金が価値があるものであると認識されていた様子があって、コンキスタドールが金を略奪したという話はググれば結構出てくるようなものになる。

 

そこのところも調べてみたいけれども、インカやアステカは侵略者側の記録しか残っていなくて、バイアスの無い資料が存在していない以上、調べる方法すら良く分からない。

 

数多くあった金属器の中で、スペイン人にとってタンパガと呼ばれる金と銅の合金が重要視されただけの話かもしれなくて、その辺りについて僕は何の知識も持っていない。

 

という感じの金の話。

 

本来的にトピックはもう一つくらい用意する予定だったけれど、冒頭の話が長くなったのでこれくらいでいいと思う。

 

今後、古代中国において金が価値あるものであったと判断できる材料が集まったら考えは改めるのだけれど、現状だと価値がなかったのではないかと思う。

 

実際のところはどうだろうね。

 

僕には分らないけれども。

 

では。

 

・追記

前漢の時代の紀元前92年から紀元前59年を生きた劉賀という人物の墓から、大量の金が発見されたらしい。(参考)

 

なのだから、この記事の後半の内容は必ずしもそうとは言えないということになってきて、僕としては記事を非公開にしたいのだけれども、冒頭の内容は明示しておかなければならないと思うし、だからといって後半に代わりに置く他の文章も用意できないので、このように追記で補完する形を取ることにした。

 

現状だと前漢の時代には既に金は価値のあるものであったという話になってくるのだけれど、それより前の秦や春秋戦国時代でどうであったかは定かではない。

 

少し気になって、「始皇帝陵 金」でググったりしたのだけれど、始皇帝陵からは金の駱駝の置物が出土しているらしい。(参考)

 

とはいえ、その程度しか金の製品は出土していないからニュースになっているのだろうし、ラクダということは中東辺りから流れてきた交易品だろうのであって、当時の中国で金がどれ程価値のあるものであったかは定かではない。

 

その頃から金に重大な価値があったらもっと先秦のテキストに金に関する記述があるだろうし、そもそも黄金を単体で意味する漢字を僕は知らなくて、黄金を意味する漢字が他の貴金属と峻別できる形で存在していないので、他の地域、ギリシアや中東、インドなどよりは重要視されていなかったのではないかと思う。

 

価値があったらそのことを意味する漢字があると思うの。

 

・追記2

紀元前2600年頃の中東のウルという都市の墓の中から、王名が記された黄金製品が出土しているらしい。(杉勇『楔形文字入門』講談社学芸文庫 2006年 pp.121-123)

 

なのだから、金に特別な価値があるという発想は、中東世界や地中海世界では相当古くから根付いている文化であるらしい。

 

まぁ紀元前1300年代を生きたエジプトのツタンカーメンの黄金マスクが現存しているのだから、やはりあの辺りでは金は価値があるものであった様子がある。

 

やっぱり中国が特殊なのか、僕が知らないだけで中国でも金は重要なものだったのか、そのどちらなのかは僕には分らない。

 

・追記3

何年も前に一度読んだきりだった、古代中国漢帝国の西方遠征についての記述である、『史記』の「大宛列伝第六十三」を読んでいたら、漢が大宛(フェルガナ)という国に、金で出来た馬を送ったという記述を見つけた。

 

「 漢の使者の外国に行くことが頻繁になり、使者に随行した年少の従者たちの多くは、天子に謁見することに慣れていて、「大宛は良馬を弐師城に集めて隠し、漢の使者に与えようとしないとのことです」と言上した。大宛の馬が好きでならなかった天子は、このことを聞いて乗り気になり、壮士・車令らをつかわし、千金と黄金造りの馬を贈って、大宛王に弐師城の良馬を懇望した。(司馬遷『世界文学大系 5B 史記』小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.384)」

 

実際、ここで言う黄金造りの馬というのはGoldで出来ていたようで、直前に、大宛あたりの国々では黄金や銀を貨幣にせずに違うものにしてしまうという言及がある。

 

「 それらの土地では、みな絹や漆を産出せず、金銀の貨幣や器物を鋳造する方法を知らなかった。漢使の逃亡兵が投降してから、他の兵器を鋳造することを教え、漢の黄金や白金を手に入れると、すぐに器物をつくり貨幣にはしなかった。(同上)」

 

先に引用した黄金の馬はただ金馬と本文には書かれているけれど、直前に黄金についての記述があるから、黄金で出来た馬であるという可能性は高い。

 

ただ、冷静に考えてみて、ここで言う金が青銅器であったとしても、馬一頭分の青銅を鋳造したオブジェは普通に贈り物としてあり得るものであって、本当に黄金で出来ているのかは僕には分らない。

 

引用だと黄金と白金が並列して言及されていて、白金は銀の別称でもあるから、普通に考えたら金と銀の事なのだろうけれど、同じ「大宛列伝第六十三」には中東の安息(パルティア)という国についての記述があって、安息では銀を貨幣にすると言及されている。

 

本文を確かめたけれど、しっかりここでは銀という漢字が使われていて、白金と区別があるのかは分からない。(安息在大月氏西可數千里。(中略) 以銀為錢。)

 

だから、白金が銀なのかどうかは分からないし、それと並列されている黄金がGoldなのかについても自信がない。

 

貨幣にするとかしないとかの話をしているのだから、普通に考えたら金と銀についての記述だとは思うのだけれど。

 

そして、これらの記述を受けてよくよく金に関しての言及を思い出してみたけれど、一字千金という故事が中国にあって、ここで言う金が黄金であるという可能性がある。

 

漫画版の方が分かりやすいので漫画版を持ってきましょうね。

 

(横山光輝『史記』7巻pp.10-13)

 

このように一字千金という言葉があるのだけれど、ここで言う金が黄金のことであるという可能性が十分あって、けれども、青銅器でもらったとしてもそれだけの量だったら十分な報酬になるし、貨幣のことも金と呼ぶので、実際黄金の事なのかは分からない。

 

中国語のサイトで『史記』の全文を「黄金」で検索をかけてみたけれど、記述があるのは漢代の劉邦の本記と、成立が新しく、司馬遷が書いたものではないのではないかと言われているようなテキスト程度にしか黄金という語の使用はないらしく、少なくとも漢の初代の劉邦の頃には黄金は相応の価値があった様子があるけれど、それより前はどうなのかは良く分からない。

 

まぁあのサイトの検索機能には難があって、実際に使用されていても検出されないことはままあるから、あまり信用は出来ないのだけれど。

 

だから、実際の所の古代中国の金の価値については良く分からないし、少なくとも前漢の時代には相応に価値があるようなものとして想定されていたらしいけれど、それより前は分からないということが今の僕にできる最大限の理解になる。

 

ただ、今までは一々"金"という語がどのように使われているかなんて意識しながらそういうテキストは読んでいたわけではないのだから、僕が見逃していて、実際に黄金についての記述が存在している可能性は高い。

 

そうといっても、実際のところは現状だと分からない。

 

"ある"という話をするには一か所そのような記述を見つければ終わりだけれど、"ない"という話をするときは、全ての記述を洗いざらいしなければいけないのであって、そうとなると色々辛いものがある。

 

少なくとも、中東、インド、ギリシアと違って大して探さなくてもぽこじゃか見つかる程には言及はなくて、おそらく、それらの地域ほどには重要視はされていなかったと思うけれども。

 

古代中国人が青銅器を意味する金と、黄金を意味する漢字と、金銭を意味する漢字とを別途に使ってくれたら僕はこんなに煩悶しないで済んだのになぁ…。

 

・追記4

これを書いた一年以上後に、『荀子』に以下の言及があることを知った。

 

「 国家を保持していくうえで難しさと易しさについて。――強暴な国家に奉仕していくのはむずかしいことで、強暴な国家をわが方に奉仕させるのは〔却って〕易しいことである。財産によって仕えていくばあいには財産はなくなっても安定した関係は結ばれない。約束盟約によるばあいにはたとい制約が定まってもすぐ違背される。国家を少しずつさいて贈与していくばあいには分割される国土には限界があるが暴国の欲望は決して満足することがない。仕えかたはますます恭順であるのに暴国の侵略はいよいよ甚だしく、きっと財産が無くなり国家が空乏になってからはじめて侵略をやめることになるであろう。聖王の業と舜とをつれてきて左右で助けさえたところで、とてもこのやり方では困難から免れることのできる者はない。例えばちょうど宝珠の首飾りをかけ宝石を腰におび黄金を一ぱい担った処女が中山の強盗に遭遇したようなもので、そのためにおどおどした伏し目で腰を折り膝を曲げて仮住居の妾婦のようにして〔許しを請う〕たところで、やはりきっと強奪を免れることはできない。(金谷 治訳 『荀子 上』 岩波文庫 1961年 p.211-212)」

 

『荀子』を書いたとされる荀況は古代中国戦国時代に生きた人で、この文章を実際にこの荀況さんが書いたとしたならば、古代中国でも黄金は価値があったものだということになると思う。

 

実際、楚の国には金貨があったらしい、この追記を書く半年くらい前に僕は知る機会があった。(参考)

 

この記事の後半の内容があまり意味を持たないと分かった時点でこの記事は非公開にするか迷ったのだけれど、僕は自分のことを愚かだと理解しているから、正しい判断など導き出せるわけがないのであって、そうであるなら暫定的な理解で保留して、後にそれが間違っていたと分かったならば、その理解を改めれば良いと考えている。

 

科学な方法というのは可謬的で、過ちが見つかれば修正してより正確な理解に近づいていくような性質のもので、そのような方法を僕は正しいと考えているから、そのように考えを修正していくということを僕は厭わない。

 

…まぁ色々ウダウダ書いたけれども、古代中国でも金は価値はあるものだったらしいっすよ?

 

.・追記5

古代中国の考古学に関する本を読んでいたら色々分かったことがあった。

 

実際、古代中国戦国時代の終わりの頃には金の価値が中華世界でも認識され始めたのはそうらしいのだけれど、元来、中華文明では金は重要な関心は払われていなかったらしい。

 

玉や銅で出来た副葬品は殷より前の時代の遺跡、すなわち中国の学会では夏王朝の遺跡と考えられている二里頭遺跡で出てくるらしい。

 

けれども、どうやら金の製品は出てこないらしく、出土品に関する説明の中で金製品の話はない。(参考:岡村秀典 『夏王朝 中国文明の原像』 講談社 2007年)

 

そして、古蜀、すなわち今の四川省あたりの考古学に関する本を読んでいたら、蜀には金の文化がある一方で、黄河流域、すなわち中華世界では金に関心が払われていなかったという記述を見つけた。(成家徹郎 『古蜀史』 大東文化大学人文学研究所 2017年 p.10)

 

まぁ…出典を書いたところで、こういう風に大学の研究室が研究者向けに出している本は入手困難どころか図書館ですら読めないから、あんまり出典書く意味はないんだけど。

 

蜀には金に関する文化があったことについては、どうやら古蜀の住人は西方に起源があるようで、金の文化がある人達が四川省あたりに侵入して、都市を作ってという流れらしくて、そもそも西方の金に関する文化を持った人たちの文明が古蜀であった様子がある。

 

で、その蜀は後に秦に侵略されているし、金貨があった楚は蜀の隣国…と言って良いかは地理的な問題で微妙だけれど、直ぐ近くの国だから、そういうルートで金の文化の侵入があったのかもしれない。

 

まぁそもそも、黄金の価値が先天的か否かが本題で、『史記』の西方の国々の中に、金銀に貨幣としての価値を見出さない人々の話がされているのだから、その時点でこの記事は完結していたといえばしていたのだけれど。

 

・追記6

この記事を書いてから、古代中国のテキストで"金"という表現を見るたびにその言及を確かめるという習慣が出来た。

 

その結果として、古代中国戦国時代に『史記』の「蘇秦列伝」の中で、黄金に関する記述を見つけることになった。

 

「 そこで、車百乗、黄金千鎰、白璧百双、錦繍千反を飾り立てて諸侯への贈り物とし、合従を約定させた。(同上『史記』 p.42)」

 

蘇秦は弁舌家で、連合軍を口先三寸で結成させたときの諸侯への贈り物の話でそこに黄金の話がある。

 

つまり、このエピソードがある古代中国戦国時代には黄金が価値があるものと認識されていたという可能性が高いという話になる。

 

結局、古代中国の本当に古い時代だと黄金が大して顧みられていなかったのはおそらく事実で、時代のある時点から価値が見出されるようになって、戦国時代には価値のある物品として認識されていたという話になると思う。

 

僕が書いている色々なことの主眼は、人間の先天形質とは何かについてで、この長ったらしい記事で求めているのは、黄金を価値あるものと思うことは先天的か否かで、古代中国の場合、戦国時代には価値があったのはそうだろうけれども、青銅器の出土品があって、冶金の技術があったというのに殷の時代にはそんなに金が使われていなかったところを見ると、その価値判断は外来だろうし、中国から見て西にある諸国の中で、金に貨幣としての価値を見出さない国があったところを見ると、やはり先天的なものではないのではないかという理解はある。

 

古代中国の青銅器の技術は、結局のところ中東からやってきたものであって、中東的な価値判断が中華に届いていても何もおかしい所ではない。

 

けれども、古い時代には金が顧みられていない点に関しては、その文化がまだ辿り着いていなかったとか、純粋に金鉱山が見つかっていなかったとか、そういうところに理由があるのかなと個人的に思う。

 

もっと違う地域の金属への判断を知りたいところだけれど、金銀が価値があった中東から離れていて文化的な影響を受けていないことが想定出来て、冶金技術のある地域のテキストとか、この世界に存在してないんだよなぁ…。