種々風説拾遺雑記 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は少し特殊で、このサイトの漫画の記事を読んだ人のリアクションに対して、僕がまたリアクションをするという内容になる。

 

どういうことかと言うと、アメブロでは現在、アクセス解析というものがあって、それによってある程度どのサイトから僕の日記に訪れたのかを把握することが出来て、どのような検索エンジンが主に使われているのか程度の情報を知ることが出来る。

 

昔は親切にもどんなワードで検索されてサイトに訪れていたのかとかしっかりデータとして出ていたのだけれど、Googleのシステム変更に際して、そのような機能は失われてしまっていて、そういう点に関しては今ではアメブロ単体ではアクセス解析は殆ど意味があるものではなくなって、Yahoo!から来たかGoogleから程度の情報しか分からないようなものになっている。

 

けれども、twitterから来た場合はtwitterから何件と表示される仕様になっていて、それによって僕が書いた何ががtwitterで引用された場合、アクセス数からそのように引用されたという出来事が生じたということを把握することが出来るようになっている。

 

僕が色々なことを書いていて、アクセス数が普段より多かったり、特定の記事に多数のアクセスが集中した場合、何を初めに疑うかと言えば、僕の書いた何かが晒し物にされたという可能性であって、何処かの誰かが僕のことを笑いものにしているのだろうというようなことをまず考える。

 

まぁ笑いものにされているとまでは流石に想定はしないのだけれども、割とマジに最初に疑うのは晒されているということであって、そのような後ろ向きなことを考えるのは僕の性向的に仕方がないことになる。

 

自己に対する病的なまでの不信と、自己の判断に対しての全面的な猜疑心は自覚のあるところだし、割と本気で自身のことをこの地球上で最下等生命体だと信じてやまないし、その自身を卑下する判断にさえもいつものように懐疑的な視線を向けているのだから、そのようなことは平常運転と言えば平常運転になる。

 

僕のことを何か褒めるような言動の全てを事実の誤認識だと捉えているし、僕のことを何か好意的に判断していた人も、数年経ったら僕の大した事の無さに気づくだろうと信奉している。

 

まぁともかく、アメブロのシステム的にtwitterから多数のアクセスがあったような場合、何処かの誰かが僕の書いた何かについて呟いたと分かるのであって、今回はそのようにつぶやいた誰かがいて、その人やそのフォロワーが僕が書いた何かに色々言っていたので、僕の方も色々言うというだけの話です。

 

僕にお伺いを立てた上でではなくて、特に何も慮ったりはせずに僕が書いた何かに色々言及をしているのだから、僕の方もその呟きにお伺いを立てずに色々言及しても問題はなかろうと思った次第です。

 

まず、ある人が僕が書いた「『ヒストリエ』の「文化がちがーう!」についての考察」の記事(参考)を引用して、このような呟きをしていた。

 

 

僕はこの人のことを知らないのだけれど、フォロワー数を見るとアルファツイッタラーと言うかなんというか、twitter上で影響力を持っている人であるらしい。

 

そして、この人がこう呟いたことと、『ぼくらの』のアニメがやっていて『ぼくらの』関係の記事が読まれている時期と重なった結果、このつぶやきがあった日がこのサイトにおいて一番アクセス数が多い日となった。

 

まぁ一番多かったと言っても、前に『なるたる』って漫画の解説を書いたあのサイトの平均的なアクセス数より少し上程度の数字でしかないのだけれど。

 

このサイトのような弱小ブログでは、アルファツイッタラーに呟いてもらうというのが一番アクセス数を稼げるという話なのかもしれない。

 

まぁ根本的にこのサイトはただの日記でしかないのだから、そんなことはどうでも良いのだけれど。

 

そして、このつぶやきを見て、僕が書いた『ヒストリエ』の記事を読んだ人が次のように言っていた。

 

 

凄いだの凄くないだのはどうでも良いのだけれど、僕が書いた何かにこの人は愛を感じているらしい。

 

…全ての漫画の解説に言えることなのだけれど、そこに愛はないんだよなぁ。

 

なんというか、この話について色々言いたいから、今現在、記事を拵えている。

 

僕は『なるたる』という漫画の解説を以前書いているけれど、その解説について「愛を感じる云々」という言葉を感想として残しているのを読んだことが幾たびかある。

 

僕はそれを読むたびに、別に愛してないんだよなぁとしか思えない。

 

僕は全ての漫画の解説において、愛なんてものを込めて書いてないし、そこに一切の愛はない。

 

別に…愛がなくてもあのようなことは出来るし、そもそも僕とか哲学とか仏教とか大っ嫌いだけれど、人よりは詳しいところも多いし、その大嫌いな学問の事柄についても、必要があれば、漫画の解説記事を書いているときと同じ精度で調べごとをしたり、検証をしたりしている。

 

僕の性向として、分からないことを分かるようにする作業が好きで、そのために色々やっているだけであって、僕はその作業が好きなだけで、別に誰かに喜んでもらおうとか、愛しているがためにそういうことをやっているとかは一切ない。

 

そりゃ、別に『ヒストリエ』は好きだけれど、愛しているかと言えば愛していないし、『キングダム』とか正直好きじゃなくて、けれども、検索等で僕の『キングダム』の解説記事に訪れた人に「僕はこの漫画が好きではありません」と宣言するのは失礼だからそうと言っていないだけだし、あのような調べごとや解説を行うのに、愛は必要ない。

 

というか、根本的に大きな認識の違いがあるのだと思う。

 

人が言う「愛している」という言葉と、僕のいうところの「愛」だなんてものはニュアンスが違っていて、もっと軽い意味で多くの人は「愛している」という言葉を使うのだと思う。

 

現在だとそのようなことが書かれた記事は全て非公開になっているからあれなのだけれど、僕が言うところの愛がどのようなものかを書いた記事がかつて存在していて、そのような記事で語られる「愛」なんてものは、客観的に見て狂信とほぼ同義であって、あの記事の内容自体も思い出すだけで狂っているとしか今の僕には思えないし、書いた直後に読み返しても頭がおかしいとしか思えなかったし、書いている段階でも狂っていると分かりながら書いていた。

 

だから、多くの人は簡単に「愛」だなんて言葉を使うけれど、僕が使う「愛」とニュアンスが違うのだろうなと思う。

 

まぁそのような話を抜きにしても、全ての漫画の解説記事、考察記事に愛はないのだけれど。

 

愛なんてないぞ。

 

多くの場合、普通にその漫画が好きだから回数をたくさん読んでいて、それが故に色々気付きがあるだけでしかない。

 

そもそもあの記事自体、『地中海世界史』の話をしようと思ったけど、それだと検索で引っかかるタイトルを据えられないから、適当に検索に引っかかりそうな「文化がちがーう!」という言葉を表題に用いるために、本来的に平生の日記用に用意しておいた『春秋左氏伝』の話を流用しただけで、そこまで考えて書いてない。

 

「文化が違う…」とは古代インドの本を読むたびに思っていたから、岩明先生もそんな風に感じてたんじゃないかな、って。

 

加えて、先の人は僕が書いた何かについて、「伴走しているかのような愛を感じる」と言及している。

 

 

どう思うかは読んだ人次第でしかないのだから、僕が書いた何かをどう思ってもそのことは問題ないのだけれど、僕としてはもっと淡泊にしかこの出来事は捉えられない。

 

この方が言いたいことは大体には分かっていて、僕はこうではないかああではないかと色々書いているのだけれど、結局のところは描かれるまでは分からないと言及して判断を保留にしていて、その事について「伴走している」云々と言っているのだろうと思う。

 

僕としては、そりゃ、『ヒストリエ』が完結してないんだから、将来的にどのような展開になるのか分からない以上、蓋然性の議論しかできないし、断言できるような内容でもないのだから、作者がどうする予定なのかは分からないという言及しかしようがないじゃないかと思う。

 

岩明先生と一緒に走っているつもりはないし、それ以外に言及のしようがないんじゃないのかな…と思う。

 

そして、その方は僕が書いた何かが「正しい/間違い」に向かっていないとも言及していた。

 

 

これについても先に言及したように、作品が終わってないんだから「正しい/間違い」の議論もしようがなくて、ただ蓋然性の議論に終始する以外、やりようもないだろうと僕は思う。

 

分からないことは分からないといつでも僕はしていて、分からないから分からないと言っているだけで、正しいや間違っていると言及できる十分な材料があった時には、僕はしっかりそのことについて言及している。

 

例えば、『ヒストリエ』では猫はギリシアとエジプトにしかいなかったという言及があって、けれども古代中国の本に猫が出てくるからその記事でそれは間違っているとしっかり言及している。

 

あの記事が完成した時は『韓非子』に猫が出てくる話しかしてなかったけれど、後に『商子』や『孫臏兵法』にも出てくることが分かったから、その事は追記で補填してある。

 

まぁ日本に事実上一つしか存在していない『商子』の翻訳のその部分は狸になってたけれど。

 

古代中国では狸と書いて猫を言っていて、ただ字だけを見たらタヌキでしかないから色々仕方ないね。

 

僕のお手元には『商子』が二つあって、一つは現代語訳で部分訳、片方は戦前に書かれた旧字体の書き下し文で完訳なのだけれど、新しい方は狸になっていた一方で、古い方は猫になっていた。

 

普通に翻訳した清水氏が古代中国では狸と書いて猫を指すということを知らなかったのだと思う。

 

あんなん、『韓非子』読んでなきゃ分かるわけないし、『韓非子』読んでたところでそんな一文字だけの狸という漢字の用法なんてスルーしてしまうのは仕方なくて、僕も始め読んだときは僕もその部分をスルーして、後に色々あって狸と書いて猫を意味すると知ったのだから、そういうことは仕方がないと思う。

 

『孫臏兵法』の翻訳ではしっかりそこのところは訳されていたけれど、この『孫臏兵法』を訳した金谷は『韓非子』の全訳をしていて、それが故に狸=猫だと知っていたからそう訳せただけで、『商子』を訳した清水がそのことを知らなかったのは仕方がないと思う。

 

一方で古い方の翻訳をした人はその知識があったから、その部分は猫に直していたのだろうと思う。

 

…。

 

えーとですね、本来的にはあと一人や二人、僕が書いた何かに言及していた人がいて、そのリアクションに対して色々書こうかと思っていたのだけれど、愚かな僕はスクリーンショットを撮り忘れていたみたいで、その呟きが行方不明になったために、うろ覚えな記憶で色々書いていくことにする。

 

まず、僕は先の記事で、『ヒストリエ』の「文化が違う」というセリフは、文化が違う異国の人物を主人公にするための配慮なのではないかと言及した。

 

異国の人物は価値判断が違っていて、そのすり合わせのために日本人に近い価値判断をさせるための方法なのではないかとか色々僕は書いた。

 

それを読んだ人が僕の書いたものをRTして、そのことに関連して『紅楼夢』を読んでいて登場人物が何故笑っているのか、何故泣いているのか分からないシーンがあったと言及していた。

 

『紅楼夢』というのは18世紀の中国、清の時代に書かれた小説で、中国の四大小説と呼ばれることもあるらしい。(Wikipediaガン見しつつ)

 

それを読んでいて、どうやら登場人物の情動を理解できないということがあったらしい。

 

僕はそれについて、かつての僕もそうだったということを思い出している。

 

異国で生まれ育った彼らが何を言っているのか分からないということが非常に多くて、原始仏典とかバラモン教の聖典とか、読んでいて殺意しか抱かなかったことをよく覚えている。

 

けれども、バラモン教の聖典はさておいて、原始仏典については、彼らが何を言っているのか分かるようになってきたから、そのようなものは学習して初めて理解されるところなのだろうと思う。

 

だから、『ヒストリエ』についても異国の人物を主人公にするにあたって、その辺りの価値判断についての配慮があったという可能性はあると思う。

 

まぁ岩明先生に聞いてみなきゃ分からないところだし、本人も覚えてすらなさそうなところだとは思うけれど。

 

次に、僕が書いた『ベルセルク』についての記事に次のようなリアクションがあった。

 

『ベルセルク』についての記事ってのはこれのことです。(参考)

 

とにかく持ってくる。

 

 

「考察を一所懸命してらっしゃる」と言って、僕がドラクエとか『北斗の拳』とか知らないんじゃないかと言っている。

 

僕はドラクエは1、3、5をやっているし、6までのRTA動画は見ているし、『北斗の拳』は高校生の時に全巻買って読んだし、『女神転生(メガテン)』にピシャーチャが出てくるのもRTA動画で知っている。

 

記事の趣旨的に、『ベルセルク』に出てくるクシャーン関係の名前の大元の元ネタについての話なんだから、その話しかしないのは当たり前だし、そこに書かれてないからという理由で僕がそのようなことを知らない頭でっかちタイプだと言われても当惑してしまう。

 

「原典的なのを探そうとしていて特にドラクエやコンバトラーVなどの名前も挙がることなく…」と言われたところで、そういう趣旨の記事であって、あれはそれらの用語の大元の元ネタについてなんだからあの言及であってんだよ。

 

ドラクエでガルーダって敵キャラ確かに出てくるけれど、ドラクエの感じだとインドってイメージは抱かないわけであって、三浦先生がドラクエプレイヤーであるという情報は僕は持っていないし、『ベルセルク』のガルダはドラクエ由来とするにはあまりに似ていない。

 

(ドラクエのガルーダ、DRAGON QUEST Wikiより)

 

(三浦健太郎『BERSRK』31巻pp.156-157)

 

二つ並べて見れば分かるように、全然デザインの系統が違うのであって、『ベルセルク』にドラクエで同じ怪物が出て来たところで、ドラクエ由来だと言及できないわけであって、別にドラクエのガルーダを知らないわけではない。

 

同じようにメガテンというゲームではピシャーチャやラクシャーサという敵キャラがいて、『ベルセルク』にもその名前は出てくるのだけれど、『ベルセルク』に登場する怪物はメガテンに必ずしも出てくるということもなくて、クンダリーニとかダーカとかはメガテンに出てこなくて、結局、メガテンも『ベルセルク』もインドの怪物を元ネタにしているという以上のことはない。

 

インド神話→メガテン

インド神話→『ベルセルク』

という図式であって、

 

インド神話→メガテン→『ベルセルク』

 

という図式ではない。

 

ただそれだけの話で、『ベルセルク』の元ネタの話として用いれないからそういう話をしなかっただけであって、それだけなのに『北斗の拳』や『鬼滅の刃』を読んでなさそうとか言われて、『ドラゴンボール』を知っていることについて色々言われても、困惑する以外どうしようもない。

 

『ドラゴンボール』とか、未だにポルンガを呼び出すときの呪文である「タッカラプトポッポルンガプピリットパロ」を諳んじることが出来るくらいに読んだんだよなぁ…。

 

(鳥山明『ドラゴンボール 完全版』 20巻p.112)

 

まぁあの方が言うように、ゲームを僕があんまりやらないというのは本当で、基本的に『信長の野望』か『Civlazation』シリーズしかやらないから、そういうところはあっている。

 

関係ないけれど、僕は『なるたる』よりciv5の方が詳しいです。

 

費やした時間が違うからね、しょうがないね。

 

それと実際、『鬼滅の刃』は読んでいないから、そういうところもあっているし、ダイバの元ネタが『愛の戦士レインボーマン』なんじゃないかという話はそういうこともあると思う。

 

まぁダイバとレインボーマンのダイバ・ダッタを並べれば分かる。

 

(三浦健太郎『BERSRK』28巻p.161)

 

(https://ameblo.jp/tokusatuarafi/entry-12052666143.htmlより)

 

…改めて並べて見るとそんなに似てねぇなぁ。

 

この『愛の戦士レインボーマン』は1972年に放映された特撮で、調べたら三浦先生は世代ではあったから、このダイバ・ダッタがダイバの元ネタであるという可能性はあると思う。

 

ただ、僕はレインボーマンなんて見たことないし、どうやらレインボーマンのダイバ・ダッタというキャラクターは味方であるようなので、どれ程に『ベルセルク』のダイバに与えているのかは一切分からない。

 

…生まれるうん十年前の特撮のキャラクターについてなんて知ってるわけがないんだよなぁ。

 

でも『ベルセルク』のダイバは敵で悪役である一方で、レインボーマンのダイバ・ダッタは主人公の師匠であって、『ベルセルク』のダイバのキャラクター性はインド的な何かからの直の形であるだろうとは思う。

 

仏教で言及される提婆達多は地獄に落ちただのなんだの酷い言われようで、そういうキャラクター性から『ベルセルク』のダイバは作られていると思う。

 

そうそう、そんなことは元記事に書き足せよと言う話なのだけれど、原始仏典でこの提婆達多っておっさんが王子に父親を幽閉するように唆したとか、その後、王子が父親を殺したとかいうエピソードが解説書などにはある一方で、それらの話の出典が分からないと以前の僕は書いていたけれど、それらの元ネタが最近になってようやく分かった。

 

王子を唆したって話は原始仏典の『チュッラ・ヴァッガ』で、王子が王を殺したという話は『根本一切有部昆奈耶破僧事』が出典みたいですね…。

 

だから何だという話でしかないけれど、『チュッラ・ヴァッガ』は『仏教聖典選』の一巻に収録されていて、その注釈で『根本一切有部昆奈耶破僧事』においてその話がされていると言及されていた。

 

 

この話はそれ以上発展はしないのだけれど、なんとなく書きたいと思ったから書きました。(小並)

 

最後に、『ぼくらの』の解説に来たコメントを持ってくる。

 

 

これはキリエ編の前編の記事(参考)に来たコメントなのだけれど、これ…喧嘩売られてるのか小学生並みの感想なのか分かんないんだよなぁ…。

 

「何かを創作をしたりはなさらなそうですね」という言い方だったとしたならば、喧嘩を売られてないと分かるのだけれど、言い方がなぁ…。

 

まぁなんというか、書いてないことの話をする人が僕は嫌いで、何かを創作するような人間ではないと僕は何処にも書いていない。

 

結局、この一行からは何を言ってそう判断しているのかは全然分からなくて、僕が書いた何を読んでそう言っているのかが全く分からない。

 

この記事では鬼頭先生が学生時代陰キャだっただろうとか言っていて、そのように鬼頭先生に対して悪辣な言及についてを言って、そのように創作者を悪し様に言うなんて創作したことないだろというニュアンスかもしれないし、あの記事では読者のリアクションに落胆したという話があったから、そのような読んでいる人をあれする言及について言っているのかもしれない。

 

詳しい話はコメントの返信で書いたからここで改めて書くことはしないけれど、実際この方が何の話をしているのかは全く分からないし、どちらかと言えば僕は創作する人間ではあるんだよな。

 

それを公開するかはまた別だけれど、2~3年前に「野獣先輩天皇説」書いて公開してたし、平原君くんのtwitterアカウントで某お船のゲームについて色々書いてるわけで、見当違いも甚だしいとしか…。

 

現在非公開になっている記事で、完全に創作と言えるような内容もかつてあって、知りもしないのに良く色々言えるよなと思う一方で、僕がやっていることも、作者本人からしたらこのレベルなんだろうなと思うところもある。

 

僕が事実妥当だと強く認識したところで、実際それが本当である保証は何処にもなくて、僕が書いているものなど、"その程度"のものなのだろうなとおぼろげに思う。

 

間違っていると分かった理解は修正すればいいと思っているけれども、そうと言えどもどうしようもない事柄も多くて、僕はそれについて嗚呼という感傷を抱く以上のことは出来はしない。

 

他にもアレなコメントはあったけれど、今回は記事の分量的にこれで十分だからこれで終わりにする。

 

…ちょっとアレな内容なので、可及的速やかに次の記事は作ります。

 

そんな感じです。

 

では。