『キングダム』の象について他 | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

今回で『キングダム』についての記事は4回目ですね。

 

僕は個人的な趣味として古代中国の本を人よりは読んでいるのだけれど、読んでいてその時代が舞台である『キングダム』の描写について、色々思うところがある。

 

前回も前々回もその前も、結局のところ書いていることは僕が知っている古代中国と『キングダム』とではあまりに違うという話ばかりだけれど、今回もやっぱりそういう話になる。

 

なんというか、基本的に『キングダム』のイメージがやはり『三国志』や、『真・三國無双』なのだろうなと思う。

 

全体的な発想が中国戦国時代や先秦の中国と合致していなくて、一応、当時のことが書かれた『史記』の『キングダム』の時代に関係ある記述はまぁ読んでいるのだろうけれど、それ以外は読んでいない様子が見て取れて、なんとなく古代中国ということで、『三国志』や『真・三國無双』のイメージで色々描いている様子がある。

 

以前にも言及したけれど、『キングダム』では謀反を起こした竭氏などの咎が九族に及ぶようなものだという言及がある。

 

(原泰久『キングダム』5巻p.190 以下は簡略な表記とする)

 

なんてことの無い描写だけれど、僕はこの描写に強い違和感を覚えている。

 

九族というのは高祖父母・曽(そう)祖父母・祖父母・父母・自分・子・孫・曽孫・玄孫までの血縁のこと(コトバンクより引用)で、そのレベルまで咎が及ぶという話なのだけれど、前漢の時代までおそらく、九族というレベルの罪は存在していないと僕は理解しているからになる。

 

どうしてそう言えるかというと、『キングダム』の時代より少し後に、同じように族滅に近いような罰を受けた人が数人いるのだけれど、それらの人々はそれでも三族までしか殺されていないからになる。

 

『キングダム』にも登場する李斯は色々あって処刑されていて、彼は三族まで殺されたと『史記』には言及されている。

 

「父と子(李斯とその次男)は声をあげて泣き、ついにその三族はことごとく根絶された。(司馬遷『世界文学大系 5b 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.36 ()内引用者補足)」

 

このように秦の法律では三族までしか刑罰は及ばなくて、『史記』にはその始まりについての記述もある。

 

「(秦の文公の)二十年に初めて三族を罰する法律ができた。(司馬遷『世界文学大系 5a 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.163 ()内引用者補足)」

 

その三族まで罰する法律ができた文公の次の君主である武公の三年には、実際にその法律に則って刑罰が下されている。

 

「三年に三父らを誅し、その三族を平らげた。(同上p.36)」

 

結局のところ、秦の法律では三族までであって、秦の次の時代の前漢の時に韓信という人物が国家転覆を企てて処刑されていて、けれども、それほどの罪を犯しても殺されたのは三族までであって、当時の中国には三族までしか発想としてなくて、九族というのはもっと遅い時代に出て来たようなものになるのだと思う。

 

「こうして、ついに信(韓信)はその三族まで族滅させれられた。(司馬遷『世界文学大系 5b 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.163 ()内引用者補足)」

 

じゃあ九族ってのは何処から来たんだよという話になるけれど、どうやら『三国志』、もしくは『三国志演義』、さもなければそれを材料にした創作物には登場するらしい。

 

僕はあの時代については詳しくなくて、横山光輝先生の『三国志』を遥か昔に読んだことがある程度だから詳しくはないとはいえ、董卓の暴虐ぶりを語る時に九族族誅しただとか、吉川英治の小説で、孫堅が「わが願望は逆賊董卓を打ち、あわせてその九族を首斬って、洛陽の門に梟かけならべて見せんということしかない。」と言ったりしていて、『三国志』の時代の何かにはそのような九族という発想はあるということは確かになる。

 

吉川英治の小説は青空文庫にあって、「三国志 九族」あたりでググって出て来た奴(参考)だからあんまり詳しくはないとはいえ、ともかく、『キングダム』の時代には九族という発想はおそらくない。

 

『史記』では秦の法律として三族まで誅するという発想があって、その秦の時代の後の前漢の時代ですら三族までなのだから、やはり、『キングダム』の時代には三族までしかなかったと思う。

 

けれども、『キングダム』では九族と言及しているところを見ると、原先生の中のイメージが『三国志』だからなのだろうと思う。

 

僕は読んでないから分からないのだけれど、もしかしたら『蒼天航路』なども『キングダム』に影響を与えているのかもしれない。

 

・追記

後に知ったのだけれど、『漢書』には王温舒という人物についての記載があって、彼は悪いことをして五族まで殺されていて、その有様を見て徐自為という人物が、古来から三族族滅はあったが、現在では五族までに至ったかと嘆くという描写がある。

 

書き写したり出典をつけるのは面倒だし、お手元の本だと少し翻訳が分かりづらいので引用しないけれど、『漢書』の翻訳のその箇所を見つつこれは書いていて、要するに、王温舒に至るまでは三族が限度で、彼から後に五族とか九族とかが生じてきたという話だと思う。

 

でなければ、徐自為がそのように嘆くことないのであって、ともかく、王温舒が生きた漢の時代の前の秦の時代の前の戦国時代が舞台の『キングダム』の時代は三族までが限度だったらしい。

 

この場では引用しなかったけどまぁ、『漢書』からわざわざ引用しなくてもその話、Wikipediaの王温舒の記事に書いてあるから気になる方は参照してください。(参考)

 

追記以上。

 

さて。

 

一応、ここまでは『キングダム』のベースは『三国志』的な何かであるということを示すための説明だったのだけれど、次は本題の象についての話に移る。

 

『キングダム』では戦象が登場して、それを見た秦の軍人たちは大いに驚いている。

 

(28巻p..41-42,pp43-46)

 

始めて見る象に驚いているし、そもそも象という存在自体を殆どの人が知らなくて、唯一象のことを知っていた騰は楚より南方に住んでいる動物だと言っている。

 

けれども、僕は改めてこのシーンを読んでみて、彼らが何を言っているのか本気で意味が分からない。

 

どうして意味が分からないかと言うと、当時の中国には象は居たからになる。

 

『キングダム』の時代の少し前に秦の国で宰相を務めた范雎(はんしょ)という人物の話の中で、象についての記述がある。

 

『史記』において范雎は、栄華を極めた後に蔡沢(さいたく)に、過去に国を支えた英雄たちは、その晩年において君主の代替わりなどによって寵愛を失って死ぬことになったのだから、引退をしたらどうかと勧められて、実際に引退しているのだけれど、その問答が『史記』には書かれている。

 

蔡沢ってのは『キングダム』にも出てくる蔡沢です。

 

(25巻p.66)

 

その蔡沢のエピソードなのだから、『キングダム』の少し前の時代であって、そのやり取りの中に象についての記述がある。

 

「 いまや君は、すでに恨みをはらし、恩義に報い、願望(のぞみ)を成就したのです。このうえ、なお変に応ずる計がないのは、ひそかに君のために、私の賛成しないところであります。かの翠・鵠・犀・象が、人里近くに棲(す)んでいないのに、なお人に殺されるのは、餌に誘われるからであります。(司馬遷『世界文学大系 5b 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.113 ()内引用者補足)」

 

この話自体は、動物が餌によって殺されるように、人間も甘い汁を求めて自滅するのが常で、やることはもうすでにやったのだから、そろそろあなたも引退したらいかがですかという話なのだけれど、その例え話の中に、翠・鵠・犀・象についての言及がある。

 

翠はカワセミで、鵠はくぐいという鳥で白鳥のことで、犀は動物のサイで、象はまぁゾウのことになる。

 

象というものは中国人にとって存在を認知されているような概念だということがこの記述から分かる。

 

犀や象などの皮は武具に使われていたらしく、その記述は確か歴史書である『国語』にもあったと思う。

 

まぁ犀や象が獲られたのは、犀の角や象牙のためだろうとは思うけれども。

 

このように、中国人は象のことを知っているわけであって、『キングダム』のようにほぼ誰も知らないということもなかったし、認識として騰が示したように、楚の更に南方に住んでいる動物というそれはおかしなものになってくる。

 

中国に象は居たし、黄河文明の跡地からは象の骨が出土している。

 

他にも象に関する説話があって、ちょうど『キングダム』の時代に生きた韓非が書いたとされる『韓非子』には、殷の紂王が象牙の箸を使い始めたところを見た臣下が、彼が今後暴君になることを予期したというエピソードがある。

 

象牙の箸を使い始めたというのなら、次は玉で出来た杯が欲しくなるだろう、その次はその食器にふさわしい豪華な食事であって、豪華な食事には似つかわしい服がある、そうやって行くうちに、国中の財宝を集めても満足できなくなってしまうとして、象牙の箸を使い始めた殷の紂王が、暴君に成り果てることを臣下の箕子が予見したという言及がされている。

 

その話は『史記』の「十二諸侯年表」にも言及がある。

 

「 太史公は、春秋暦譜諜を読み周の厲王のくだりになると、いまだかつて書を棄てて慨嘆しないわけにはいかないのである。よって言う、ああ、師摯は早くも周道の衰えを見た。紂が象箸をつくったので、箕子はこれを嘆いたが、周道が敗れると、詩人はこれを衽席に本づけ、關雎の詩をつくり、仁義が衰えると、鹿鳴の詩ができて、これを風刺した。(司馬遷『世界文学大系 5A 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1971年 pp.198-199 )」

 

これはかつて滅んだ国々の年表についての前書きで、君主の徳が衰え社稷を失った国々について、太史公、つまりは司馬遷が、その滅びを嘆いている言及になる。

 

ここにも象牙の箸の話があって、司馬遷が生きた当時、殷の紂王が象牙の箸を使い始めて、そこから国が亡びることになったという見解があった様子がある。

 

殷が亡びる時に、箕子は紂王が象牙の箸を使い始めたことに滅びの始まりを見て、それと同じように周が暴君である厲王の治世になって、周の徳が衰えて来たころには、詩人はそれを嘆いた詩を作ったという話になる。

 

司馬遷が生きたのは漢の時代で、漢の時代で象牙の箸についての知識があるというのなら、戦国時代でもきっと象は知られていただろうというのが妥当な線で、『史記』でちょいちょい象についての言及もある。

 

加えて、そもそも象自体もそれなりに認知されていたらしくて、現物は見たことはなかったとしても、骨が市場に出てくるということはあったらしい。

 

先に言及した『韓非子』の他の箇所にその話はある。

 

「 人は生きた象を見ることはほとんどない。そこで、死んだ象の骨を得て、その絵図を考え出し、それによって生きている象を想像した。だから、人々が心で想像したかたちは、全て象(しょう)というのである。(韓非『韓非子 第二冊』 金谷治訳 岩波文庫 1994年 p.53)」

 

この文章を実際韓非さんが書いたかは知らないし、ここで書かれているように中国語のイメージを意味する象という言葉が実際にそういう語源を持っているのかは確かではないけれど、ともかく、この文章が書かれた時代には、象の存在が中国において認知されていたということが分かる。

 

生きた人が象を見ることはほとんどないという話はそんなに難しい話ではなくて、日本にはクマが生息しているけれど、その野生のクマと僕らが出会うことは殆どあり得ないくらい稀な出来事で、動物園やテレビがなかったならばクマを見ることは一生ないこともあり得る出来事になる。

 

結局、先の『史記』にあったように、象は人里離れたところに住んでいたわけで、運ぶにしてもそのままだとデカすぎる以上、バラシて肉にしたり、骨の形や皮の形にしないと流通させることが出来なかったのだと思う。

 

だから、『韓非子』の言及にあるように、骨で全体をイメージするしかなかったのだろうと思う。

 

とはいえ、蔡沢が例え話として象の話を持ってくるという逸話がある以上、象の存在は中華において認知されていたと判断した方がよくて、『キングダム』のように全く未知の動物であるということはないと思う。

 

象兵は居なかっただろうから、その事に驚くのはまぁいいけれど、象の存在自体は驚くに値しないと思う。

 

その象兵についての描写なのだけれど、おそらくこれは、『真・三國無双』が元なんだよな。

 

『三国志演義』やそれを元にした創作物では、南蛮兵が象兵を繰り出すという描写がある。

 

『真・三國無双』でも象兵が出てきていて、このゲームについてはおぼろげな記憶しか僕にはないけれど、それを見た雑兵たちは、『キングダム』でそうであったように、慌て驚きふためいていたと思う。

 

『真・三國無双』では象兵を倒すときにはジャンプして象を操っている南蛮兵を斬って落とすという方法が取られていて、『キングダム』でも似たようなことを行っている。

 

(28巻p.53)

 

そして、象を操っているのも体に模様を描いた南蛮兵であるところを鑑みるに、イメージは諸葛亮が南に遠征したときに出て来た兀突骨(ごくとつこつ)や孟獲(もうかく)が率いる象兵なのだろうと思う。

 

結局のところ、『キングダム』のイメージは『真・三國無双』などであって、先秦の時代をクソ真面目に描こうとは作者さえ考えていないと思う。

 

つまるところイメージは『三国志』のあたりの時代の創作物であって、『真・三國無双』の影響はかなり大きいと思う。

 

他には巻末で武将たちのパラメーターをコーエーの『三国志』のような形で100点満点でいくつかを書いていたり、やはりそのような『三国志』の時代を題材にした創作物がベースとなっていると思う。

 

…三国時代と言わずに「『三国志』の時代」と言うのは、『三国志』は殆ど後漢の時代が舞台だからです。

 

それはさておき、結局のところ『キングダム』は古代中国が舞台の『真・三國無双』や『三国志』でしかないのだろうと僕は思う。

 

さて。

 

最後にこのことは『キングダム』には関係ないし、かなり面倒くさい話になるのだけれど、僕は先に范雎と蔡沢のやり取りを引用した。

 

そのやり取りは実際、歴史書である『史記』に書かれているのだけれど、あれはおそらく創作物であって、あのやり取りは事実ではないという話がある。

 

そういうことがあるから、この記事でその辺りの話を扱う時には、「范雎が生きた時代では~」などの表現を使わないように色々配慮したという事情がある。

 

そもそも、范雎という人物がどういう人物かというと、若い頃に魏に仕えていたのだけれど、魏の使者として他国に行った際に、賢者として知名度があった范雎は贈り物を受け取って、けれども、その贈り物を賄賂であると疑われて売国の罪で捕らえて、歯や肋骨を折るようなレベルのリンチを加えた後に、便所に放り込んで、小便をかけられるということをされている。

 

(横山光輝『史記』5巻pp.150-156)

 

横山光輝先生の漫画版だと范雎はぷかぷか浮いているけれど、ここで言う便所というのは豚小屋のことで、当時の中国では豚に人間の糞便を食べさせていたから、豚小屋が便所代わりになっていて、そこに范雎は捨て置かれて、小便をかけられたという話になる。

 

結局、この後、衛兵があまりに可哀そうだからと范雎を死んだということにして逃がしたのだけれど、後に范雎は秦の国に行って大出世して、秦の宰相の地位まで上り詰めた後に、自分に恥辱を与えた人物に復讐していくし、ひと睨みされた恨みさえも忘れなかったと言及されている。

 

ここら辺は横山光輝先生の漫画版『史記』にそのまま描かれていて、非常に読んでいて面白いから、読んでみるといいかもしれない。

 

まぁ、范雎が便所に投げ込まれたあたりの描写は少し実際的ではないとは思うけれど。

 

その後、范雎は復讐のために魏の宰相を追い詰めたり色々したのだけれど、秦の法律では推挙して仕えた人が罪を犯すと、その人を推挙した人も同じ罪を被るというそれがあって、范雎が推挙した人が罪を犯したということがあった。

 

范雎は王稽(おうけい)の口利きで秦の王に仕えたという経緯があって、范雎はその恩返しとして王稽を推挙して、けれども王稽はその後に死刑に値する罪を犯している。

 

『史記』では范雎の功績を考えて、彼が推挙した王稽の罪は被らなかったのだけれど、その後に蔡沢が現れて、王稽の時は死なずに済んだとはいえ、いつまでそれが続くか分からないわけだから、死ぬ前に引退したらどうかと勧められるという話の流れになる。

 

けれども、それはおそらく創作でしかなくて、実際の范雎は王稽に連座して処刑されたというのが事実らしい。

 

このことは范雎のWikipediaの記事に書いてあるのだけれど、秦の役人の墓から出て来た文章に、范雎が王稽に連座して処刑されたことを示すそれがある。

 

范雎は拷問を受けるほどの罪を犯して秦の国に来ているから、秦の国では偽名を使っていて、張禄という名前で活動をしている。

 

そして、出土文献である睡虎地秦簡の『編年記』には「王稽・張禄死す」と書かれている。

 

睡虎地秦簡というのは睡虎地という場所で見つかった秦の時代の墓から出て来た文章群のことで、この『編年記』は墓の主である"喜"という人の個人史みたいなもので、生まれたときからの年表みたいなものなのだけれど、その『編年記』に王稽と張禄が同じ年に死んだと書かれている。

 

『史記』だと王稽が死んだ後も范雎は生きていたという設定になっていて、けれどもどうやら実際のところは王稽と一緒に処刑されたというのが本当である様子がある。

 

『編年記』では個人の話がメインなのだけれど、秦の国の大きなイベントは記述されていて、王稽と張禄の死について書かれているのは、喜さんの出身地や任地に近いところでの出来事だったからだろうと注釈では言及されていた。(高橋庸一郎『睡虎地秦簡『編年記』『語書』釋文註解』 朋友書店 2004年)

 

Wikipediaの情報じゃなくて、しっかり図書館で読んで来ての話です。

 

出身地だったか任地だったかの話はうろ覚えだけれども。

 

 

結局のところ、范雎は若い頃にボッコボコにされて便所で小便をかけられたという恥辱を受けて、その上で秦のために尽力をしたような人物で、そのような人物が自身の罪ではなくて、推挙人の罪に連座する形で死んだというエピソードはあまりに可哀そうで、何処かの誰かが救いのある物語を創作したのだと思う。

 

無実の罪でボコボコにされて生き延びた後に、無実の罪で死んでいくのは可哀そうにも程があるから、そうではなくて余生を無事生きたという話のバリエーションがあって、『史記』の著者である司馬遷はそっちの方が面白かったから、そっちの方を採用したのだと思う。

 

基本的に『史記』の有名どころのエピソードは、事実と判断するにはあまりに面白いような出来事が非常に多くて、范雎についてのエピソードも所詮は創作に過ぎないのだろうと思う。

 

まぁ冷静に考えて、范雎と蔡沢は二人で話したのであって、その二人で話した会話の内容が『史記』にあるように詳細が残っているのは変な話で、あのやり取りや、『史記』に見られる多くの問答は、ただの後世の創作でしかないのだろうなと僕は思う。

 

范雎はおそらくそのような事情で救いのある物語が付け加えられたのだろうけれど、范雎は実際、白起が死ぬ理由を作った人物であって、そういうところを考えると、自業自得な部分もあるのだから、別に元の王稽と死んだという話でも良かったのではないかなと思う。

 

結局、『史記』の面白さはそのような人間の生き様のような部分で、『キングダム』のように派手な戦闘が魅力の物語ではないのであって、『キングダム』はあまり『史記』の内容を意識していないのだろうなと僕は個人的に思う。

 

『史記』には『キングダム』で描く場面よりもっともっと面白いエピソードが存在しているというのに、そのような場面は描かずに、『キングダム』ではバトルばかりしていて、結局、原先生は『史記』の世界を描きたいのではなくて、『真・三國無双』的なバトルを描いていきたいのだろうなと思う。

 

とはいえ、別に『史記』の世界を描いたら世間様にウケるような面白みが出てくるということはないし、商業的には分かりやすい物語の方が売れるのであって、『キングダム』に関してはあれでいいと僕は思っている。

 

クソ真面目に『史記』の世界を漫画化して、打ち切られても仕方ないからね、しょうがないね。

 

という『キングダム』の話。

 

後半、趣味に走りすぎたけれどまぁ、あんまり『キングダム』関係の記事は読まれていないからこれでいいと思う。

 

『キングダム』の場合は「いかがでしたか?」系列のサイトが一杯あって、そのようなサイトに検索は吸われるのであって、検索で引っかからないとこのような文章は読まれることはないのだから、趣味に走って好き放題書いたところで問題はないと思う。

 

一方でそのような「いかがでしたか?」系のサイトが存在しない『ヒストリエ』では、「ヒストリエ 考察」でググると僕が書いたものが一ページ目に引っかかるけれど、そもそも、そんなワードで検索する人がいないらしくて、あんまり読まれていない様子がある。

 

そもそもとして、アクセス数があったらそれなりには嬉しいけれど、結局のところは何処までも自分で読み返すために書いているのだから、これでいいと思う。

 

そんな感じです。

 

では。

 

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