『ヒストリエ』の「文化がちがーう!」についての考察他 | 胙豆

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『ヒストリエ』の記事の14回目を書いていくことにする。

 

冒頭で何回目の『ヒストリエ』の記事かを書くために、このサイトのトップページに行って左側の「ヒストリエ」のカテゴリーを見てみたら「ヒストリエ ( 13 )」とあって13個の記事があると分かって、そんなに書いたか?と一瞬信じられなくて手前で指折りで数えてみら実際13個記事があった。

 

だから今回は14回目ですね。

 

そりゃ、そんなに『ヒストリエ』のことを書いていたら、このサイトの名前である胙豆でググると関連する検索キーワードで「ヒストリエ 考察」とか「パウサニアス ヒストリエ」とかしか表示されなくなるよと思ったよ。

 

この記事は、フォーキオンの時に少しだけ言及した、『ヒストリエ』の原作の一つである『地中海世界史』に見られる『ヒストリエ』に存在する描写とかについてになる。

 

フォーキオンの記事は本来的に僕が把握している細かい話を書きたかったから拵えたのだけれど、フォーキオンの話を書いているうちに疲れてしまったので、あの時はフォーキオンだけで独立した記事にした。

 

今回はその時書かなかった細かい話についてになる。

 

まず、『ヒストリエ』では有名なセリフとして、「ば~~っかじゃねえの!?」とか「文化がちがーう!」とかそういうセリフが存在している。

 

それらのセリフはもはやネタとしてしか使われていないけれども、それらは『ヒストリエ』単体で見たらネタに使えるような内容でもない。

 

「ば~~っかじゃねえの!?」は本編を読んだらどういうことなのか分かるし、ネタでも何でもないということは自明なのでこの記事では特に言及しないけれど、「文化がちがーう!」については岩明先生の苦慮が読み取れたので、その話を以下ではしていく。

 

「文化がちがーう!」ってのはこのシーンですね。

 

(岩明均『ヒストリエ』3巻p.185 以下は簡略な表記とする)

 

この一番下のコマが良くネタとして使われている。

 

いや、単純に「文化がちがーう!」という言葉だけを考えるなら、このシーンか。

 

(5巻pp.169-170)

 

こういう風にエウメネスが「文化が違う」と言うシーンは多々あって、エウメネスとって文化が違うということはかなり重要なようで、『ヒストリエ』の中ではこの表現が度々使われている。

 

(3巻pp.165-167)

 

このシーンについて、僕らからしても急に子供がこんなことを言い出したら笑ってしまうこともあり得る内容であって、日本人だったらガキのくせに余計な心配しおってと思って笑ってしまうことはそこまで変ではないと思う。

 

だからってこんなに爆笑はしないとは思うけれど。

 

僕は個人的に色々な地域の古代に書かれた本を趣味で読んでいる。

 

読んでいて非常に良く思うことがある。

 

それが何かというと、「文化が違う」ということになる。

 

いやホント、同じ人間なのか?と思ってしまうレベルで文化が違うことが多くて、特に古代インドなどは頭おかしいんじゃないか?と思うことは割と多くある。

 

その事情は古代ギリシアでも古代中国でも同じで、立脚している文化があまりにも違っていて、彼らの判断に一切の共感が出来ないシーンというのも割と多く存在している。

 

結局、岩明先生は『ヒストリエ』を描くに際して、古代ギリシア世界の本を沢山読んでいると僕の検証によって確定的に明らかになっているのだけれど、それを読んで文化が違うと強く思ったのだろうと思う。

 

実際、日本と非常に文化的に近い古代中国でも、今現在を生きる僕らでは理解に苦しむ記述が多い。

 

『春秋左氏伝』という本があって、これは『春秋』という中国最古の歴史書の注釈書なのだけれど、それを読んでいて笑ってしまったことがある。

 

何に笑ったかと言うと、彼らが戦争をした理由についてになる。

 

毎年毎年というレベルで『春秋左氏伝』では戦争についての記述があるのだけれど、それに際してなんで戦争が起きたか言及がある場合がある。

 

その理由があまりに酷かったので、メモ帳にメモっておいた。

 

僕は僖公(きこう)って人のところまでしかまだ読んでいないけれど、彼らはちょっと何言ってるか分からない理由で戦争をしている。

 

〇公何年ってのはその時の魯(ろ)って国の国主が即位してから何年目という意味です。

 

旅の途中で泊まらせたけれど尊重しなかったから 荘公10年
出来事の報告が遅れて無礼だったから 荘公16年
助けたのにお礼をしなかったから 荘公16年
何かいやなことをされたから 荘公18年
飢饉が起きて山川の神を祭ろうとして占ったら不吉だったから 僖公20年
共通の先祖を祭らなかったから 僖公26年

 

これら全てが戦争をおっぱじめた理由として書かれている。

 

本当にこういうことが書いてあって、『春秋左氏伝』の右に書いた年の記事を読めば本当にそう書いてある。

 

ちょっといくら何でも喧嘩っ早過ぎると思う。

 

沸点が低すぎる。

 

他にも頭のおかしい宣戦理由はあったのだけれど、読み進めている途中でメモろうと思いついたから、誰の何年の時とかはメモってなくて把握していないとはいえ、兄に二回珍品を要求されたから戦争を起こした話も確かあったと思う。

 

会合で無礼だったからって理由で戦争した話も二回あった。

 

正直、今現在の日本人からしたら彼らのことが理解できないのだけれど、彼らの文化を良く知れば、別に普通の理由でしかない。

 

それくらい当時の中国では礼儀作法が重要だったし、それくらい祖先や鬼神を祀ることが重要だっただけで、彼らとしては当然の振る舞いでしかない。

 

このような文化の違いは古代インドでも同じだし、古代ギリシアでも事情は変わらない。

 

原始仏典読んでても、全裸の人を仏教徒が口汚く罵るシーンとか割と多いし、古代インドだと乞食行為が道徳的に優れた振る舞いだったりする。

 

…原始仏典の『マハー・シーハナーダ・スッタ』で修行僧が四つん這いになって牛糞を食う話があるんだけれど、あれ本当に食ってたんすかね?

 

同じ経典には仏陀が自分の糞便を食べる苦行をした話もある。

 

「 わたしは、なるほど、舎利弗よ。およそそれらの牛舎があり、牛どもは出かけて(空で)、牛飼いたちがいないとき、そこに四つん這いで近づいて行き、なんでもそれらの、子牛ども、若牛ども、乳牛どもの牛糞を、それらを本当に食べる。また、舎利弗よ、自分の尿と糞がわたしに尽きないであるうちは、本当にわたしは自分自身の尿と糞とを食べる。じつに、舎利弗よ、私が大汚物食者のときはこうなるのだ。(中村元編 『原始仏典 第四巻 中部経典Ⅰ』 「マハー・シーハナーダ・スッタ」 春秋社 p.188-189)」

 

…よく、仏陀は苦行を否定したとかいう話を聞くけれども、原始仏典だと仏陀も仏弟子も割と普通に苦行してるんだよなぁ。

 

この経典の中にこういった苦行自体の否定の記述は特になくて、仏陀は大汚物食者として苦行を行う場合は、本当に牛糞を食うし、本当に自分の糞便を食べるとだけ記述されている。…個人的に仏教徒の癖にウンコ食ってない人のことを根性なしだと思っている。

 

原始仏典には苦行に関する記述が結構あって、原始仏典期の仏教教団は苦行を行っていた様子がある。

 

苦行はインドで道徳的な正義だから、その道徳的な正義を実践しているだけの話で、その苦行の中に糞便を食べるという苦行があって、そういう記述がある以上、原始仏典期の仏教教団は苦行を行っていたのだろうという話になる。

 

まぁ同じ原始仏典の相応部経典の『マーラ・サンユッタ』に、苦行をしないって記述も同時にあるのだけれども。

 

それらの経典は成立時期に違いがあって、苦行をしないという記述について、それが書かれたのは時代が下った時期なのだろうと思っている。

 

どうでも良いけど糞便を食べる話はインドの仏教以外の宗派にもあって、『ヴァイナーカサ・スマールタスートラ』に牛糞を食べるハムサ(白鳥)比丘の話があるので、実際食ってたかは定かではないとはいえ、インドの苦行僧の中には糞便を食べるという発想は確実にある。

 

僕は中国とインドはそれなりに読んだ一方で、古代ギリシアの本をあまり読めていないのだけれど、アンティポンという人の弁論集には、子供が投げ槍の訓練をしていて、その槍に当たった子供が事故死して、そのことについての裁判の話がある。

 

現在の日本の価値観だと、どう考えても監督責任であって、その場にいた指導者が悪いとしかならないけれど、その弁論では槍を投げた子供が悪いのか、槍に当たった子供が悪いのかについての議論がなされていた。(アンティポン アンドキデス『弁論集』高畠純夫訳 京都大学学術出版会 2002年 pp.60-72)

 

彼らは槍を投げなければ槍に当たるという出来事はなかったのだから、投げた子供は有罪であるとか、槍に当たるという出来事は的の間に入ったことによって生じたのだから、入ってきた子供が有罪である以上、投げた子供は無罪であるという議論をしていた。

 

現在の日本人の価値観だと事故死であって、問われても監督責任だけなのだから、あまりに彼らと文化が違う。

 

実際、『ヒストリエ』の原作である『英雄伝』や『地中海世界史』を読んでいても日本と文化がだいぶ違っていて、彼らにははっきり言って共感出来ない場面が多い。

 

問題は、そのような共感が出来ない文化に育った誰かを果たして漫画の主人公に出来るのだろうかという話になる。

 

結局、『ヒストリエ』の「文化が違う」という話は、そういうところに理由があるのだと思う。

 

要するに、そのままギリシア人として生まれ育ったと想定すると、日本人からしたら共感できない主人公となってしまうために、共感できる主人公として描くことを目的として、ボアの村で生活させたのだろうということ。

 

エウメネスは『ヒストリエ』の冒頭でアリストテレスに当時のギリシアの価値観ではありえないことを言っている。

 

(1巻p.20)

 

エウメネスは奴隷についての発言について差別的だと言及している。

 

当時のギリシアの文化を知っている人からしたら、アリストテレスの発言は当然のそれであって、疑問は生じえないのだけれど、そんな読者ばかりではないのが実際で、普通の日本人はどちらかと言うとエウメネスと同じような発想をすると思う。

 

Amazonレビューで確か、このエウメネスの発言がギリシア的ではないと低評価していたそれがあったと思う。

 

結局、このようにエウメネスが言っているのは、彼がボアの村で育ったからであって、ここに岩明先生の苦慮が見いだせる。

 

そのままギリシアで育った人物が主人公だと、その主人公は現在の日本人とはかけ離れた価値判断を下す人物になってしまうのであって、それでは読者が主人公に共感できなくなってしまう。

 

それをどうにかするために、岩明先生はボアの村でエウメネスを生活させるようにしたのだと思う。

 

実際、ボアの村は日本人的な発想をする。

 

エウメネスは彼らを評して、お人好しで平和主義者だと言っていて、エウメネスがボアの村から出た後に文化が違うという場合は、ボアの村と文化が違う時に言っている。

 

(8巻p.137)

 

このシーンはボアの村になかった奴隷として、女子供が連れ去られていくことについて「文化が違う…か」と言っているけれども、本来的に自分の文化はギリシアで、ギリシアの文化的にその蛮行は当然なのだけれど、ボアの村で育ったエウメネスは文化が違うと感じてしまっている。

 

ギリシアの価値観とボアの村の価値観、どちらの方が日本人に、そして読者に近いかと言えばボアの村の方で、ギリシア的な価値観を持った人物とはまさにこの場面では蛮行を行う人物で、あまり主人公として似つかわしくない。

 

その価値観の齟齬を擦り合わせる方法がボアの村で、あの村でエウメネスを生活させることで、エウメネスの価値観を読者に近いものとするための配慮だったのではないかと個人的に思う。

 

…『キングダム』とか、そういうの一切なしにして主人公が現代日本人的な発想と行動するから狂っているとしか思えないんだよなぁ。

 

けれども、『キングダム』の主人公である信と仲間たちが異民族の村で生まれ育ったという設定があったなら、別に違和感は存在しないから、ボアの村はそのような意図を以っての配置だったのではないかなと。

 

まぁ実際のところは分からないけれども。

 

・追記

この記事を書いてから数年後に気付いたのだけれども、『ヒストリエ』の3巻の袖には以下のような記述がある。

 

「トラキアの自由民が奴隷に変わり、

船に積まれる町カルディア。

自由と屈従の境目にあるこの町は、

同時にアジアとヨーロッパの境目に存在した。

そんなカルディア出身の書記官が、

ギリシア世界の主流とは多少違う価値観を

持っていたとしても、

そう不思議な事ではあるまい。

(『ヒストリエ』3巻袖より)」

 

この記事で書いた内容が果たして正しいのかはさておいて、とにかく、岩明先生はエウメネスの価値観を意図的に当時のギリシア人のそれからズラしているようで、エウメネスの価値判断がギリシア的ではないというのは僕の主観的な判断に基づく誤解ということはないらしい。

 

古代ギリシアのアンティポンの『弁論集』には、男が飽きた女を娼館に売ろうとする話があるし、古代中国の出土文献である『越公其事』には、君徳に誉れある越の国の王が示した優れた振る舞いとして、異国の音楽を奏でたものを処刑したと記述されていることもあるし、古代インドの『マヌ法典』だと、30歳の男性が娶るべき女性は12歳で、24歳の男性が女性を娶るべきは8歳の時だと書かれていたりする。

 

『ヒストリエ』に出てくるバルシネの母親はメムノンの兄弟で、バルシネの前夫のメントルはメムノンの兄で、彼らとバルシネはおじと姪の関係になる。

 

バルシネの母親がペルシアに嫁いで、そこでバルシネを生んで、そのバルシネをおじであるメントルがまず娶って、メントルの死後はメムノンがバルシネをまた娶っている。

 

現代日本人の価値観だとおじと姪の間の結婚はちょっとあれで、そういう風に、古代人の行動については現代的な価値観だと引くようなものも多い。

 

個人的に『ヒストリエ』エウメネスがあのような価値観を持っているのは、古代人の価値観で行動して読者に引かれるような主人公としてではなく、読者に好まれる主人公とするためだろうとは思う。

 

そうとはいえ、実際の所、先の引用から読み取れるように、岩明先生が意図的にエウメネスの価値観を他のギリシア人と違えて描いているということは分かっても、それ以上の事はあくまで推論でしかないのだから、この記事の言及内容が正しいかどうかは僕には分からない。

 

追記以上。

 

さて。

 

次は『地中海世界史』を読んでいて見つけた『ヒストリエ』に見られる描写のついての話に移る。

 

『ヒストリエ』でフィリッポスがエパミノンダスに采配について教わったという話がある。

 

(9巻p.177,180)

 

これは『地中海世界史』が出典ですね。

 

「 さて、アレクサンドロス(注:大王とは別人)は統治の手始めに、賠償金を取り決めてイリュリアから戦争を買い取り、その上、弟のピリッポスを人質として[イリュリアに]差し出した。またしばらく時をおいて、同じ弟を人質として、テーバイと平和な友好関係を回復した。このことはピリッポスに卓越した才能を最大限に伸ばす機会を与えた。なぜなら、テーバイで三年間人質として捕らえられた彼は、古風な厳しさを持つこの都市で、また哲学者としても将軍としても最高の人物であったエパメイノンダスの家で、少年時代の訓練の基礎を築いたからである。(ポンエイウス・トログス『地中海世界史』合阪学訳 西洋古典叢書 1998年 p.142 注は引用者補足」

 

ピリッポスとかエパメイノンダスとか名前の表記に揺れがあるけれど、元がギリシア語だから日本語にすると色々あって、それらはフィリッポスとエパミノンダスのことです。

 

このフィリッポスがエパミノンダスに師事したという話は『英雄伝』にはないから、普通にこの引用が出典ということでいいと思う。

 

そもそもフィリッポスの事績について書かれた本なんて実際『地中海世界史』くらいしかなくて、『ヒストリエ』のフィリッポスの描写は基本的にこの本が由来ということになってくる。

 

まぁそれでも『ヒストリエ』の原作はあくまで『英雄伝』みたいだけれど。

 

書く予定のことがあってその記述を確かめるために『地中海世界史』のエウメネスの記述を全部読んだのだけれど、この本のエウメネスは格好悪いし、全然賢くないし、何より、エウメネスの話を読んでいても面白くないし、『ヒストリエ』のエウメネスと全然似ていない。

 

一方で『英雄伝』のエウメネスは『ヒストリエ』のエウメネスとかなり似ていて、やはり以前検証したように、『ヒストリエ』の原作は『プルターク英雄伝』ということでいいと思う。

 

 

 

 

次に、猫についての話がある。

 

(3巻pp.111-112)

 

こういう風に猫は当時、猫はエジプトとギリシアの一部にしか存在していなかったと書いてあるけれど、これはたぶん間違いです。

 

岩明先生が読んだ資料にはそう書いてあったのだろうけれど、実際、猫は紀元前200年代の古代中国の本に言及がある。

 

「いったい物にはすべてふさわしい地位があり、才能にはすべて使い処がある。故にめいめいにふさわしい地位を与えれば、ことがすらすらと運んで上下の間に何もめんどうもない。たとえば鶏に時刻を受け持たせ、猫に鼠を捕らせるのは、みなそれぞれの能力を働かせるもので、こういう風であれば、君主は始めて面倒がなくなる。(韓非『新釈漢文大系 11 韓非子 上』竹内照夫訳 明治書院 1960年 p.77)」

 

原文は「使雞司夜,令狸執鼠,皆用其能,上乃無事。」で"猫"じゃなくて"狸"という漢字が使われているけれども、文脈的に猫と判断した方が妥当だろうし、お手元の『韓非子』の翻訳を三つ確かめたけれども、全部猫と訳されていた。(新釈漢文大系、中国古典文学大系、岩波文庫の『韓非子』三つ)

 

だから、古代中国には猫が居た様子があって、『ヒストリエ』の先の話は大体紀元前300年代のエピソードなのだけれど、その100年後には『韓非子』は書かれていて、そこに猫が出てきている

 

100年の間に急速に猫が生息範囲を広げて中国に至ったとは判断しがたいので、『ヒストリエ』のエジプトとギリシアの一部にしかいなかったという話は間違いだと判断した方が良いと思う。

 

もちろん、エジプトと中国でネコ科の生物が同じように半家畜化したという可能性もあるのだけれど、どの道、エジプトとギリシア以外にも居るのであって、あの記述は正しくないとしか判断できない。

 

猫のDNAについての論文を読まないと確かなことは言えないとはいえ、紀元前数百年とか数千年前とかに猫は中東辺りを出発して、結構早い内に中国にたどり着いていたのだと思う。

 

ちなみに、古代中東のアケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世がエジプトに攻め込んだペルシウムの戦いがあるのだけれど、猫はエジプトだと神聖な生き物だから、この時にペルシア軍は盾に猫の絵を描いて戦って、エジプト軍は神聖な猫を傷つけることを恐れて逃げ去ったという話がある。

 

この戦いは紀元前525年の出来事だから、『ヒストリエ』の時代の200年前には既にペルシアに猫が知られていたということになる。(参考)

 

まぁボアの村には猫がいなかったということでいいのだけれど、ペルシア軍がそんなことを出来たということは猫についての知識が中東にはあったし、おそらく猫も居ただろうから、あのナレーションは間違っていると言っていいと思う。

 

・追記

『商子』っていう古代中国の秦の国の本を読んでいたら猫が出てきていた。

 

他には『孫臏兵法』という出土文献にも猫についての記述があったから、やっぱり古代中国には猫が普通に居たらしい。

 

特に『孫臏兵法』は銀雀山一号漢墓という紀元前134年から118年の間に作られたとされる墓から出て来たものであって、そうとすると確実に紀元前二世紀の古代中国には猫は存在していたということになると思う。

 

まぁ実際に『孫臏兵法』が書かれたのはその数百年前だろうけれど、確実に遡れるのは紀元前二世紀になって、猫はそのくらいには中国に存在していたと言って良いと思う。

 

追記以上。

 

次に…えーとこの話は僕にとってしか問題ではないのかもしれないけれど、フィリッポスのセリフについての話がある。

 

(5巻pp.97-100)

 

このやり取りの意味が長いこと分かっていなかったのだけれど、最近になってようやく意味が分かったので、その話を書いていく。

 

アンティゴノスがこのシーンで何を言いたいのかマジに長いこと分かっていなかったのだけれど、最近、このやり取りの直前までエウメネスはアンティゴノスがマケドニア軍の関係者だと分かっていなかったということを理解したらどういうことか分かった。

 

これはアンティゴノスがエウメネスに自分の正体を明かすシーンで、そもそも門を開けさせるためにカルディアに入ってきたし、この門を継続して開けさせる腕力=武力を私は持っているとエウメネスに仄めかすシーンなんですね…。

 

なんでこんなシーンに説明を入れたか分からない人もいると思うけれども、最近まで何故か僕はこのやり取りの意味が分かっていなかったので一応です。

 

エウメネスは「仕掛けが動いているんだ」と言っていて、それに対してアンティゴノスが「外にある仕掛けも見るか」と言っているけれど、ここで言う仕掛けはカルディア市を屈服させるための工作全てのことで、外にある仕掛けというのは威圧のための軍隊のことで、それを聞いたエウメネスはこの時点でアンティゴノスがマケドニア軍の関係者だと理解したという流れになる。

 

ただこれだけのことなのに、最近まで自分が何故そのことを理解できていなかったのかが分からない。

 

本気で「何言ってんだこのおっさん」と思っていた。

 

まぁ初めて読んだのは10年くらい前だし、それこそ何十回も読み直しているのだから、もはや前から順番に物語が理解されていなくて、エウメネスがこの時点でアンティゴノスの正体に気づいていないと理解できなかったのは仕方ない。

 

・追記

後々、自分が何故エウメネスがこの時点でアンティゴノスの正体について理解していないと把握できていなかったかが分かった。

 

カルディアに入る前にアンティゴノスがマケドニア関係者視点でペルディッカスの行動について言及している場面がある。

 

(1巻p.96)

 

このような会話はマケドニア関係者以外ではありえないわけであって、読者の視点からは既にこの時点で彼らがマケドニアの関係者で更にお偉いさんだということまでが分かってしまう。

 

エウメネスはこの会話を聞いていないのだから、エウメネスが彼らをマケドニア関係者と理解できないのはそりゃそうだとは言え、読者視点でそういった"齟齬"が出てきてしまうのは色々仕方ないのかなと思う。

 

追記以上。

 

そのようにアンティゴノスが自身の正体を明かした後にヒエロニュモスが出てくる。

 

(5巻pp.101-103)

 

おそらく、このやり取りは伏線なんだよな。

 

まぁこの話はフィリッポスがアンティゴノスと名前を変えるということが正しいということが前提になるのだけれど。

 

『ヒストリエ』の原作である『プルターク英雄伝』にヒエロニュモスは出てくる。

 

具体的には何度も引用したこのシーンです。

 

「 さうして攻囲が長引いているうちに、やがてアンティゴノスはアンティパトロスがマケドニアで死去し、カッサンドロス(アンティパトロスの息子)とポリュスペルコーン(アレクサンドロス大王の将軍の中で最年長の人)との不和から(中略)、事態が混乱してきたと聞くと、小さな望を棄てて支配権を全て握ろうと企て、その計画のためにエウメーネスを味方にしようと考えた。そこでヒエローニュモス(エウメネースと同国のカルディアー人。前三百二十三年アレクサンドロスの死から前二百七十二年ピュルロスの死までの歴史を書いているが、今残っていない)をエウメネースのところへ使に出して、休戦の交渉をさせたが、その時出した誓の文句をエウメネースは訂正して、自分を攻撃しているマケドニアの人々にどちらの誓の方が正しいかを判断するように提議した。」(河野与一訳『プルターク英雄伝 8』 岩波文庫 1955年 p.56 旧字体は新字体に変更)」

 

このように、ヒエロニュモスはアンティゴノスに呼び出される形でエウメネスのところへと行っている。

 

『ヒストリエ』においてはこの場面でヒエロニュモスを出してくるのは効果的で、無能なヒエロニュモスがエウメネスのための工作として用いられるという場面を作り出すことが出来る。


アンティゴノスは使者としてヒエロニュモスをエウメネスに送るのだから、アンティゴノスは二人の関係を知っていなければならないし、アンティゴノスとフィリッポスが同一人物だったとしたならば、ヒエロニュモスが外に出ようとして上手く行かなかった先の『ヒストリエ』のシーンは効果を発揮する。

 

ヒエロニュモスが利用されていることも知らずに「アンティゴノス氏がぼくを指名してくれたんだ」と嬉々としてエウメネスに語るシーンは想像に易くて、更にヒエロニュモスが交渉に失敗した場合、彼はアンティゴノスに処刑される可能性がある以上、アンティゴノスはエウメネスとの交渉でヒエロニュモスを送り出すだけで有利になる。

 

『ヒストリエ』のフィリッポスはそういう策略に長けた人間だし、ヒエロニュモスは町の外に出ることを望んでいて、そのことを知っているのは先のやり取りを聞いていた人物だけになる。

 

そうとすると、アンティゴノス=フィリッポスというのが最も諸々の描写を分かりやすくするし、むしろ別人だったらヒエロニュモスの外に出たいという話は何だったんだということになってしまう。

 

兄であるヒエロニュモスが処刑されることを避けつつ、交渉で有利に立ち回るために、エウメネスは降伏させるためにアンティゴノスがヒエロニュモスに持たせた文章について、「その時出した誓の文句をエウメネースは訂正して、自分を攻撃しているマケドニアの人々にどちらの誓の方が正しいかを判断するように提議した。(同上)」としたならば、それは『ヒストリエ』に出てくるエウメネスのような行動になる。

 

ただ…連載物なのだから岩明先生が予定変更するということは十分あり得て、先のカルディアのシーンを描いたときはアンティゴノスはフィリッポスとするつもりだったけれども、後に気が変わって新しくアンティゴノスを出すことにするということも十分あり得る話になる。

 

間違っていたらただ恥をかくだけだから、あんまり『ヒストリエ』が辿り着きそうな部分については言及したくないんだよなぁ…。

 

状況証拠的にはアンティゴノス=フィリッポスなんじゃないのかなと個人的には思うのだけれど。

 

とはいえ、予想が外れたら恥ずかしいので、断言はしないで、「ディアドコイのアンティゴノスはフィリッポスの転身であるという可能性がある」程度の言及に済ませておく。

 

これくらいかな。

 

最後に、これはもう『ヒストリエ』に関係ない話なのだけれど、『地中海世界史』の記述についての話がある。

 

さっき、この記事を書くために『地中海世界史』のエウメネスの話を読んでいたら、エウメネスとの戦いでポリュペルコンが討ち死にしたと書いてあった。

 

「ネオプトレモスは敗れてアンティパトロスとポリュペルコンの所へ逃げ、彼らを説いて、戦勝に浮かれ、彼の逃走で安心しているネオプトレモス(原文ママ)の所へ休みなく行進して不意に襲撃しようとした。しかし、このことはエウメネスに知られずには済まなかった。そこで陰謀者たちに向けて陰謀が企てられた。そして[先に陰謀を企てた者たちは]安心しているエウメネスを襲う積りであったのに、道中、彼らの方が安心してしまい、また夜も寝ずに行進して疲れていたので、攻撃が彼らに向かって仕掛けられた。この戦いでポリュペルコンが殺された。(同上『地中海世界史』p.227)」 

 

…えーと、ポリュペルコンの話に移る前に、引用文ではネオプトレモスがネオプトレモスを襲撃しようとしたと書いてある。

 

んなアホなと思って英語訳の『地中海世界史』を調べたら、ちゃんとネオプトレモスはエウメネスを襲おうとしたと書いてあった。

 

「Neoptolemus, being worsted, fled to Antipater and Polysperchon, and persuaded them to surprise Eumenes, by marching without intermission, while he was full of joy for his victory, and freed from apprehension by his own flight. But this project did not escape Eumenes(参考)」

 

エウメネスに敗北したネオプトレモスがアンティパトロスのところに逃げ込んで、逆襲のために奇襲しようとした話であって、先の引用はおそらく、純粋に翻訳者の誤訳ですね…。

 

そんな話はさておいて、僕はポリュペルコンかなり後まで生きていたと覚えていて、けれども日本語訳『地中海世界史』にはエウメネスがこの時点で殺したと書いてあって、戸惑って色々調べ直したのだけれど、他の本ではこの時点で死んでおらず、紀元前309年まで『歴史叢書』にポリュペルコンの言及が存在しているということが分かった。

 

引用のネオプトレモスの話が紀元前321年だから、おそらく、『地中海世界史』のポリュペルコンの死の方が間違っていると思う。

 

『英雄伝』のフォーキオンの話にもポリュペルコンが出てきていて、その話はアンティパトロスが死んだ後の話だから、『歴史叢書』と『英雄伝』ではポリュペルコンはここで死んでいない。

 

こういうことは割とよくあって、資料によって言及が違うということは結構ある。

 

例えば『礼記』の「明堂位」では殷の紂王は鬼候という人物を殺してその肉を塩漬けにして諸侯に振舞ったと言及があるけれど、『淮南子』の「俶真訓」では紂王は鬼候の娘の肉を塩漬けにしたとあって、まぁ資料によって言っていることが違うということは割とある。

 

現在でも人によって言っていることが違うということよくあることであって、結局、聞き間違えたり覚え間違えたりした結果、諸説出来てしまってどれが正しいのか分からなくなってしまうのだと思う。

 

人間が書いている以上そのようなヒューマンエラーは出てきてしまうようなものになる。

 

例えば、ネオプトレモスがネオプトレモスの軍隊を襲撃しようとしたり。

 

定価四千円なんだからしっかりしてよ…と思った。

 

 

『地中海世界史』ではポリュペルコンはエウメネスの反撃を受けて死ぬけれども、『ヒストリエ』においてはここで死ぬということはないと思う。

 

何故と言うと、やはり『ヒストリエ』のベースはプルタルコスの『英雄伝』で、『英雄伝』のフォーキオンの話でポリュペルコンが大きな役割を果たすからになる。

 

スキタイ対マケドニアの戦いの細かい描写も『地中海世界史』の記述より『英雄伝』の記述が優先されていたし、やはり『ヒストリエ』の基本はプルタルコスの『英雄伝』と判断した方が良いと思う。

 

まぁ現状のペースだと『ヒストリエ』の物語はそこまでに至らないのだけれど。

 

しょうがないね…。

 

そんな感じの『ヒストリエ』の細かい話について。

 

本来的にこの記事用に用意していた事柄があったのだけれど、記事を製作するためにテキストを確かめてみたら僕の誤認識だったと分かって削除したり書かないことにした話が今回は何故か多くて三つもあった。

 

どう考えても『地中海世界史』の誤訳のことを言える立場にないな?

 

いつもは多くて一つくらいしかないというか、そもそもそんなこと滅多にないのにねー。

 

その確認作業とか書いたやつを消す虚しさとか色々あって、大変疲弊しているので誤字脱字のチェックは明日以降の僕に任せることにしましょうね。

 

色々あってこの記事作るのに5時間以上パソコンに齧りついているからね、しょうがないね。

 

そんな感じです。

 

では。

 

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