『ぼくらの』のカコ編の解説(中編) | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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僕の苦行を再開していく。

 

仏教とかだと苦行をすると来世で天国に行けたり、解脱できたりするのだけれど、僕はこの苦行で何を得るのだろうか。

 

『なるたる』の時はほとんど何も得なかったけれど。

 

さて。

 

前回まででカコ編の一話の解説が済んだから二話から。

 

(3巻p.39)

 

カコ編の二話は、カコくんが布団に包まっているシーンから始まる。

 

(3巻p.40-41)

 

カコが布団に包まっている描写について、解説のために改めて読み直した時、僕は正直笑ってしまった。

 

何故笑ったかというと、カコくんの描写がリアルすぎるからになる。

 

過度に精神的に追い詰められると、こうなるんだよなぁ…。

 

分かる分かる。(タメ口)

 

漫画や創作物に存在する全ての表現は、結局、製作者が得た知識の組み合わせ以上のことはないのだけれど、カコの描写について言えば、鬼頭先生の実体験からだろうと僕は推測している。

 

実際問題として、時に人間はああなります。

 

全体的にカコの精神的に不安定である描写が迫真過ぎる。

 

(3巻pp.42-43)

 

人によっては僕が何でそうと言っているのか、一切理解出来ない場合もあるのだろうけれど、僕はカコの情動が迫る様に理解することが出来て、個人的にこれらの描写については鬼頭先生の何らかの体験が寄与しているのではないだろうかと考えている。

 

この後、カコは日本軍の基地へと向かう。

 

(3巻pp.44-45)

 

ここで多手さんが…眼鏡の軍人が言っていることが良く分からないけれど、おそらくこれは、三軍が一体として問題に対処するにあたって、空軍に主導権がないということをつまびらかにするための行為だと思う。

 

どういうことかというと、軍隊は陸軍と海軍と空軍で構成されているけれど、これらはそれぞれ敵対し合っている場合が多い。

 

太平洋戦争時の日本軍などは、空軍は存在していなかったのだけれど、陸軍と海軍は犬猿の仲で、お互いがお互いの足を引っ張るために色々やっていて、本当に酷いグダグダで人死にが大量に出ている。

 

海軍の海戦での大戦果の報を受けて、陸軍がレイテという島に上陸してみたら、海軍の報告が嘘で、一隻も沈めてないのに大量に沈めたと嘘をついたというのが事実で、補給線とか色々壊滅して、84,006人上陸して、死者が79,261人出たとかいうとんでもないことをやっていたりするし、海軍と陸軍の不仲に理由があるやらかしはこれに尽きない。

 

クソ程死者が出たアメリカの南北戦争でも死亡率は6.7%なのに、レイテ島の戦いは94%死んでるんだよなぁ。

 

まぁこのことは日本が特別仲が悪かったというわけではなくて、アメリカもそれぞれ陸軍と海軍が仲が悪かったらしいから、日本の場合は普通に敗戦したからそういう悪いところが浮き彫りになっただけだと思う。

 

『ぼくらの』の世界では、陸海空の三軍はそれぞれ協力体制にある。

 

何故そうと言えるかというと、それぞれの軍から大尉が一人ずつ派遣されていてるから。

 

(3巻p.53)

 

それぞれ陸尉、海尉、空尉が今回のサポート役に派遣されている。

 

結局、鬼頭先生は旧日本軍は互いにいがみ合って結果敗北したという知識を持っていて、それが故に先生が作る漫画の世界の日本軍は互いに協力し合っているのだと思う。

 

先に、もちまわり云々と多手さんが言っていたけれど、最初に集まった横田基地は空軍の基地だから、空軍にこのことを一任させるわけではなくて、三軍で協力するという意思表示のためにわざわざ海軍の所有する軍艦へと移動しているのだと思う。

 

…知らんけど。(関西人的表現)

 

けれども、現状それ以外にもちまわり云々の言葉の説明が出来ないから、とりあえずそういうことだと僕は考えている。

 

話を戻すと、子供たちは海軍の船にヘリ?で向かう。

 

(3巻p.46-47)

 

多手さんが「次の怪獣の出現に合わせて移動してきている」と言っているけれど、よく意味が分からない。

 

もしかしたら政府は怪獣の出現位置のデータから、次の怪獣の出現位置を予想していて、それに合わせているという話なのかも知れない。

 

他には第五次怪獣出現に際して、重傷者が一人と言っているけれど、この第五次はナカマの時の話で、重傷者はナカマの母親になる。

 

(10巻p.110)

 

後々しっかりそのことについてのフォローがあるけれど、『なるたる』期の鬼頭先生だったならば、このことについてはおそらくフォローされていなかったと思う。

 

僕自身、10巻の挨拶回りについて言えば、コモのそれと同じように予定変更があって変更されたエピソードだと考えていて、最初は多手さんのセリフの重傷者についての説明は存在していなかっただろうと思う。

 

『なるたる』の時、そんなんばっかだったよね。

 

その後、二段空母赤城に移動する。

 

(3巻pp.48-49)

 

一応、せっかくの機会だから、旧日本軍の赤城という軍艦についても軽く調べておくか、と思ってWikipediaの赤城のページを開いてみたのだけれど、軍オタのお友達がものっそい量のクッソ激烈にどうでも良い情報をこれでもかとページに詰め込んでいるのを目の当たりにして、そんな努力は放棄することにした。

 

なんか、旧日本軍の軍艦で赤城って空母があったみたいっすよ?(適当)

 

現状だと自衛隊には加賀という船はあるみたいだけれど、赤城という船はざっと調べた限りないみたい。

 

同じページで赤城の周りに妙高型重巡が三隻居るという言及があるのだけれど、妙高型重巡は全四隻のはずだから、一体誰が居ないんだろうと一瞬考えている自分を見つけて、より一層自分のことが嫌いになりました。

 

一応、後の描写を見てみたら、那智と羽黒は名前が出てきているので、妙高型三隻と言っている以上、妙高は居ると考えて、居ないのは足柄だと思う。

 

(3巻p.103)

 

自衛隊のことは僕は一切分からないのだけれど、現状、みょうこうという名前の軍艦は存在しているらしい。(Wikipediaガン見しながら)

 

ただ、みょうこうは護衛艦(駆逐艦)だそうなので、『ぼくらの』の世界の妙高という軍艦とは関係ないのだと思う。

 

子供たちは赤城に乗り込んで、その一室で、田中さんと関さんとかに会う。

 

庄治…?

 

誰だよ。

 

(3巻p.52-53)

 

陸海空軍の一尉が出てくる理由は先に言及したけれど、カナがなんか思っている。

 

これは、田中さんの困ったことにできる限り対応する言葉を受けて、お兄ちゃんの本当のお母さんを見つけられるかもと考えているシーンになる。

 

その後、佐々見一佐が子供たちを詰問する。

 

その佐々見一佐の言動や目つきなのだけれど、結構きつい。

 

(3巻pp.54-55)

 

この性格がきつめの佐々見一佐なのだけれど、小説版では僕が知っている一巻の範囲ではこの性格だった。

 

でも『ぼくらの』本編では大分子供たちに同情的で、でも最初はこんな感じで、いつから彼の態度が軟化したのだろうと調べてみたけれど、概ねコモ編からだということが分かった。

 

というか、それまで別に佐々見一佐は出てこない。

 

この時点までの佐々見一佐の言動は結構きつい。

 

(3巻p.38)

 

ところで佐々見さん、中学生に民草だなんて言っても伝わらないと思いますよ?

 

全体を通して佐々見一佐の性格はそこまで違和感のあるそれではないのだけれど、終盤の佐々見一佐に比べて僕は序盤の佐々見一佐の性格はきついと思う。

 

それに加えて、態度が軟化し始めるのがコモ編からだということを考えると、当初はこの性格が佐々見一佐の性格だったのではないか?と僕は思う。

 

コモ編の展開の変更が推測されるという話は既にしたけれど、佐々見一佐についても変化が認められるのはコモ編からであって、苛烈に子供たちにあたる大人という描写の変更がコモの父親から見受けられる以上、佐々見一佐の性格の方も似たようなことが起きているのではないかという推測がある。

 

実際分からないし、コモの父親に比べたらはっきりそうと判断できる材料があるわけではないのだけれど。

 

この後、佐々見一佐はコエムシの話に移る。

 

誰かが描いたコエムシの絵を持って、これを呼んでもらいたいと言う。

 

(3巻pp.55-57)

 

全体的に言及できることもないけれど、コモが顔を赤くしているのは、このコエムシを描いたのがコモだからになる。

 

加えて、ここでコエムシが「大人のくせに礼儀がねー。」って言っているのだけれど、実際コエムシの中の人は子供で、中学三年だからこそこんなことを言っている。

 

このことは本編中の描写から判断できる。

 

(11巻p.26)

 

ここで中学一年だったマチが二コ下だという言及がある以上、コエムシの中の人は中学三年生で、ロボットに乗ったのは中学二年生の時だということが分かる。

 

中三のガキのくせに、日本軍の大佐に舐めた口きいてたってことですね。

 

それを見て、庄治一尉がコエムシを恫喝しようとする。

 

(3巻p.61-62)

 

ここでコエムシは度し難いと言っている。

 

度し難いという言葉は仏教の言葉で、出典は『法華経』だと思う。

 

"度"という言葉は救うという意味で、"度し難い"とは"救い難い"という意味になる。

 

…どうでもええわ。

 

・追記

一応、"度し難い"という言葉の説明は書いたけれども、『ぼくらの』とほぼほぼ関係ないので記事を分けることにした。(参考)

 

あまり意味のある内容でもないから、読む必要は皆無だと思うけれども。

 

追記以上。

 

庄司一尉は空間転移を使って指先を切断されるのだけれど、これについては元ネタが大体想定出来ている。

 

鬼頭先生の『双子の帝國』でガウも同じ技を使っている。

 

(鬼頭莫宏『双子の帝國』1巻p.110)

 

これについてなのだけれど、元ネタはおそらく、『七夕の国』という岩明先生の漫画になる。

 

鬼頭先生は『なにかもちがってますか?』という漫画を描いているのだけれど、この漫画自体は『七夕の国』が概ねの元ネタになる。

 

『七夕の国』は空間転移の能力を持った主人公が、その能力を社会のために使おうと色々したりしなかったりする話になる。

 

その転移能力は主に人体や物体を切断する目的で使われている。

 

『七夕の国』の主人公は、その能力を持っているのだけれど、それを役立てることもなく、主人公に関しては酷く煮え切らない状態で物語は終わる。

 

おそらく、鬼頭先生はその能力を使って、自分だったらきっと『七夕の国』と違って社会を変える漫画を描けるだろうと見切り発車して『なにかもちがってますか?』を描き始めたのだと思う。

 

結果としては、岩明先生の『七夕の国』と同様に、その能力で世の中を変えることは出来なかったのだけれど。

 

偶然、物体を切断できる類の空間転移能力を若者が得て、そのことを社会のために使おうと考えるという創作物を別途に考え付くとは僕には思えないし、そもそもとして、『なるたる』で鬼が学校を襲撃するという出来事の由来は、おそらく『寄生獣』にある。

 

切断能力を持つ空間転移を人間が持つという発想と、学校に化け物がやってきて、生徒を惨殺するという出来事を時系列的に岩明先生の作品が先に存在しているというのに、それとは別に鬼頭先生が別途に思いつくとは考えづらいので、鬼頭先生は岩明先生の漫画のファンなのだと思う。

 

同じように化け物が学校の教室を襲撃する『Gantz』について言えば、死ぬことになった和泉君が今わの際に「これが…死か」って言っているので、奥先生も『寄生獣』のファンだということが分かる。

 

まぁ『バイオハザード4』にはまんま寄生獣のパラサイトが出てきていたり、『ハンター×ハンター』のモントゥトゥユピーはそのまんま『寄生獣』の後藤だったりで、『寄生獣』のミームは結構な頻度で確認できる。

 

僕はジャンプの週間連載の時にユピーの後姿を見ただけで、「あ、後藤だ」ってすぐに分かったよ。

 

この挿話は、好きな漫画の要素は自身の作品に用いてしまうという例示であって、鬼頭先生とてその事情は変わらない。

 

空間転移による切断攻撃について言えば、普通に『七夕の国』が元だと思う。

 

ちなみになんだけれど、『七夕の国』はあんまり面白くありません。

 

全体的にキャラクターが小粒なんだよなぁ。

 

まぁいい。

 

庄治一尉はコエムシに手を切断されたわけだけれど、庄治がこんな目にあったのは陸軍所属だからだと思う。

 

陸軍はクソだという固定観念が存在していて、鬼頭先生の持っている情報の中にもそれがあるのかもしれない。

 

旧日本軍でも自衛隊でも、陸軍は酷いという言説が結構見受けられるから、鬼頭先生が陸軍の庄司一尉に退場させたのは、コエムシに盾突いて退場の憂き目にあうというイベントを発生させるに際して、陸海空軍の中でそれをやるんだったら陸軍だと思ったからだと思う。

 

知らんけど。(関西人的表現)

 

ただ、旧日本軍だと陸軍も海軍も同程度に酷かったらしいから、そういうのは偏見というか、風説なのだろうとは思うけれど。

 

話を戻すとその後、庄治一尉がコエムシにやられたに際して、関さんが「自らを軍人と知れ」といってキャラ立てしたり、田中さんが自分にも娘がいるという話をする。

 

(3巻p.66)

 

このシーンはまぁ後々普通に回収されるのであって、特段説明が必要とも思えないけれど、田中さんはウシロの母親であって、後々の展開のためにこういう挿入が存在している。

 

カナの方は、こういうやり取りと、実際にカナ編にあるやり取りで、田中さんのことを自分の母親だと思うようになったらしい。

 

どうせカナ編の時にコピペするのだけれど、既にそのことはここに書いてあるから、参照すると良いかもしれない。

 

この後、コエムシに保護者の立場で見学させてくださいと田中さんは言って、それを聞いたコエムシが田中さんのことを気に入って、許可することになる。

 

そして、見学が始まるのだけれど、佐々見一佐は「男の子の夢 だよな。」と言う。

 

(3巻p.76)

 

言うほど夢か?と思うけれど、鬼頭先生の子供時代と、僕の子供時代では文化が違っていて、鬼頭先生の子供の時代は夢だったのだろうと思う。

 

もしかしたら、僕の発想の方がヘンだと思われる場合もあると思うし、鬼頭先生自身がそう思うこと自体に僕は特に何も考えていない。

 

この発言は、『ぼくらの』の最終話のための伏線になる。

 

コエムシと化した佐々見一佐と、元コエムシの町少年とのやりとりで『ぼくらの』は終わる。

 

(11巻pp.218-219)

 

この終わり方、本当に良いと思う。

 

とにかく、佐々見一佐が「男の子の夢だよな」と言ったのはこのシーンのためであって、佐々見一佐がコエムシになるということは既定路線であったと考えていいと思う。

 

少し、性格や会話には当初の予定から変化はあっただろうとは思うけれど。

 

ここまででカコ編の2話が終わる。

 

そして3話が始まって、カコくんが眠りながら検査を受けている描写が続くのだけれど、マジに言及できることがなくて困惑している。

 

ぱぱぱっと飛ばしてしまうことにする。

 

夢の中で非現実なジアースの存在のことを否定しているカコだったのだけれど、コエムシに引き戻される。

 

(3巻pp.85-87)

 

この、これは夢なのか、現実なのか、ということがどちらが正しいか分からなくなるという発想の出典は、古代中国の思想書である『荘子』になる。

 

ここで『荘子』における胡蝶の夢の話を一応書いたのだけれど、専門的な内容過ぎて何言ってるのか分からないと思うから、別途にリンクを用意して、読み飛ばせるようにすることにする。

 

ここね。

 

ここからフィッグとの戦闘が始まったり始まらなかったりするのだけれど、記事の分量の問題で一度区切ることにする。

 

続きはここ

 

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