脈絡なんて親の腹の中に置いてきた『ぼくらの』の解説、はぁじまぁるよー。
なのだけれど、その前段階としてこの記事はちょっとしたことを書いていく。
まぁ論文で言うところの序論とか、本で言うところの序章みたいなものですはい。
その話に入る前に、この記事全体として"ミーム"という言葉を多用しているけれど、ミームというのは情報の単位とかそういう意味であって、生物学者のドーキンスって人の専門用語になる。
ただ、その説明が大変で、ネット上にある説明だとなぁに言ってるのか分からなくて、僕自身も上手く説明できない。
なので説明のためのリンクとか、その用語の説明とかは用意しないけれど、まぁミームは一塊の情報のことだと思って以下は読み進めてください。
さて。
僕は以前、『なるたる』という漫画の解説をねっとりとした方法で行った。(参考)
その時、『ぼくらの』の解説はしないと言っていたけれど、この度、ここですることにした。
なんですることにしたのかというと、なんでだろうね…。
うんまぁそう、よく分かんなかったです。
とりあえず書くことに決めたのは事実だけれど、途中で飽きたら放棄するつもりだからそのつもりでお願いします。
解説するにあたって、色々、どういう方法が良いのか考えたのだけれど、まぁ登場人物毎に区切って書いていけば良かろうなのだということで、一話目から順々に、これ分かりづらいなって描写に説明を入れていって、パイロットが変わったら区切るつもりでいる次第です。
まだこれから書くのだから分からないけれど、解説の方法としては後々に回収される伏線として出てきた場合、出てきたその場で後のどういった伏線として回収されるかを説明してしまうので、後々になる程書くことがなくなっていくという尻すぼみな形になると思う。
まぁ最悪書くことなくなったら、2人分まとめて一回の記事にしてしまえば良いと考えております。
加えて、僕は『なるたる』の解説の方をねっとりと既に行っていて、その際にちょいちょい『ぼくらの』の話もしてしまっている。
そういう既にした話はどうしようかな、と考えて、色々熟考した結果、あっちに書いた内容をそのままコピペすればよろしいという結論に至った。
この記事は本編の解説の前の包括的な『ぼくらの』の話になる。
本当はさっそく1話から順々に解説をはじめようと思ったのだけれど、前置きが長くなり過ぎたので、この記事は一つの独立した記事として体裁を整えることにした。
まず、『ぼくらの』という漫画作品は鬼頭莫宏氏の描いた漫画で、元ネタは『ザ・ムーン』という話らしい。
確か、このことについてはインタビューで言っていたと思うし、まぁ本編中に『ザ・ムーン』の話もある。
(鬼頭莫宏『ぼくらの』1巻p.126)
(『ぼくらの』2巻pp.183-184)
この子供たちがロボットを動かす漫画っていうのは『ザ・ムーン』になる。
どっかのインタビューでそのことを言っていたと思うのだけれど、探すのが面倒なので持ってこない。
・追記
そんなインタビューは存在していないだろうと読み返して思ったけれど、普通に『ぼくらの』の画集のマキの初期設定のところに、『ザ・ムーン』という単語が確認できる。
だから普通にそういうつもりで鬼頭先生は描いています。
追記以上。
まぁそんな話を持ってこなくても、小説版のラスボスがその『ザ・ムーン』に出てくるロボットらしい(伝聞)ので、普通にそういうつもりなのだろうとは思うけれど。
小説版は1巻しか読んでないから詳しくは知らなーい。
だから、『ぼくらの』は『ザ・ムーン』の現代版という話もある。
まぁ、嘘なんですけどね。
嘘というかなんというか、『ザ・ムーン』も材料の一つとして間違いなく存在する。
けれども、他の材料がないわけではなくて、他には『ひとりぼっちの宇宙戦争』や『マーズ』が配合されている。
特に『ひとりぼっちの宇宙戦争』は、違う星同士代表者一人が戦って、惑星の運命を決する話だから、これのミームが『ぼくらの』には存在している。
疑わしかったらYoutubeにアニメの動画が上がってるから見ればいい。
『ザ・ムーン』の沢山の子供たちがロボットを操縦するというミームと、『ひとりぼっちの宇宙戦争』の自分の惑星(世界)をかけて代表者が戦うというミームが合わさっている。
僕は口酸っぱくこのことばかり言っているのだけれど、全てのアイデア、ひらめき、創作物は既存の情報の組み合わせ以外にあり得ない。
ハツカネズミは、目で見て、耳で聞いて、ヒゲで、その肌で、その舌で得た情報しか知識として扱えないのであって、人間とて事情は同じになる。
何故ハツカネズミはそのように感受した情報以外を知識として持てないと理解できるのに、人間の場合その理解を適応させないのか、僕にはちょっと分からない。
人間とて感覚器官で得た知識しか用いることは出来はしない。
だから、種々の創作物について言えば、全て作者がその創作物を作るまでに出会った情報の組み合わせで存在している。
考えてみれば、人間はDNAやRNAの情報によって複雑な肉体を構築しているけれど、その情報はアルファベットでA,T,G,Cと表記される四つの塩基の組み合わせのみで出来ている。
この四つの情報は組み合わせ次第で人間という一つの塊すらも表現できてしまう。
情報とは多くの場合組み合わせによって成立していて、情報を組み合わせるというのは生物にとっては当然の振る舞いになる。
というか、全ての情報は既存の情報の組み合わせになる。
おそらく、例外はないんじゃないかなぁ。
だから、人間が扱う全ての情報も既存の情報の組み合わせなわけであって、オリジナリティなんて上手な組み合わせの技法以上の意味は持っていない。
何せ、四つの塩基の情報を組み合わせるだけで生物は成立しているわけであって、生物以外の情報とて、情報は組み合わせて構築する以外のあり方はない。
今この文章を読んでいるデバイスに表示されている種々のデータですら、0と1の情報の組み合わせのみで出来ている。
大きな情報も小さな情報の集まりであって、その組み合わせの果てに色々な発想が存在するに過ぎない。
僕は特に古代インドや古代中国の情報について色々調べているけれど、やはり既存の情報の組み合わせというパターンが目立ってくるし、古代から人間のやることは変わらんなとしか思わない。
そういう事情があるから、そもそも全ての創作物は既存の情報の組み合わせなわけであって、僕はオマージュやパクリの何がイケないのかさっぱり分からない。
著作権を侵害しない限りにおいて、そのことはまるで問題がないし、著作権云々を判断するのは僕らではなくて司法の人々の仕事になる。
そもそも全ての創作物は既存の情報の組み合わせなのだから、何か着想元があるということは別におかしな話でも何でもない。
けれども、僕らが生きている文化圏ではそのようなものは非難されてしまう傾向性にある。
僕はそれを偏見だと理解している。
でも、多くの場合はそうとは考えられないのであって、例えば「このシーンはここが元ネタだろう」と僕が言及するにあたって、第一にその情報に出会った時にする多くの人がする反応は、その指摘の拒絶になるだろうと思う。
昔の僕も、『なるたる』の最後のシーンが『エヴァンゲリオン』や『デビルマン』、『僕の村は戦場だった』のオマージュとの言及を見た時、受け入れることはなかった。
けれども、今の僕は多くの創作物が既存の創作物の情報の組み合わせで出来ていることを理解している。
そもそも、そのような構造以外であり得ない以上、そのようなパクリやオマージュはまるで問題がなくなる。
問題がないと分かった上で、『なるたる』のラストを考えてみる。
すると捉え方が変わって、まぁ情報の元はエヴァとかデビルマンだよね。
滅んだ地球を傍らに、終幕に2人だけ生き残るという一つのミーム。
元は『デビルマン』のミームであって、それを『エヴァンゲリオン』が継承して、それに聖書の創世記のモチーフであるアダムとイブのミームを組み合わせる。
実際、鬼頭先生が参考にしたのは『デビルマン』か『エヴァンゲリオン』なのかは分からないけれど、多分エヴァの方だと思う。
最近気づいたのだけれど、『ヴァンデミエールの翼』の「フリュクティドールの出産」のエピソード、思いっきりエヴァの「残酷な天使のテーゼ」の焼き直しなんだよな。
(鬼頭莫宏『ヴァンデミエールの翼』1巻pp.162-163)
別に、このようなミームの流用は悪いことでは決してなくて、悪いことだと考える方が偏見になる。
僕はなぜ悪いのかを説明できないし、悪くないとしたならばこの状況について、言葉をコネてエヴァが元ネタだということを否定するという営みを行う必要はないわけであって、「あぁ、着想元はここなのね」で終わりにすればいい。
実際、そのような情報元についての言及は指摘する側が誤認識した結果出てくる誤った指摘であったり、創作者当人にそれを実際に元ネタにした自覚がなかったりするわけだから、色々難しくはあるのだけれど。
この前、『なるたる』のホシ丸の元ネタがコロ助だとゆっている人がいた。
…何故コロ助なんだ。
実際、コロ助ではないだろうと言及できる。
(『なるたる』1巻p.218)
『なるたる』の旧装版には、ホシ丸の変遷の記録が残っている。
もし、コロ助が元だとしたならば、コロ助的なものからホシ丸に至るというのが道理になる。
初期のデザインの中にコロ助的なものはない。
頭のちょんまげと思えるかもしれない突起も、背ビレ的なものが元だと分かる。
元々はイルカの背に乗るようなイメージであって、けれども、その背ビレが邪魔だから頭の方へと移動して、更に抽象化が進んでホシ丸が脳勃起することになったという話らしい。
このように、元ネタの指摘はかなり危うさを孕んでいる。
そう指摘者が思うというところまでは良いのだけれど、そう思ったからと言って正しいとも限らないし、その証拠を提出するのが大変であって、更に偏見としてそのような情報の出所の指摘は直感的に否定される傾向性がある。
更に言えば、当人も元ネタが特定の何かだと気付いていない場面が多い。
以前、僕が書いた事柄についてもらったコメントで「歪みのある文章」云々というものがあった。
僕はなんのこっちゃと思ったけれど、ガチムチパンツレスリングの話で、僕の文章にそういうミームが存在していたからなんだよな。
歪みねぇな♂。
僕の文章には時々、ガチムチパンツレスリングの語彙が存在している。
実際問題として、そのミームは僕の文章の中に存在したけれど、僕は自覚していなかった。
何故なら、僕が参考にしたのはスパ帝という人の語彙であって、あくまでスパ帝の語彙としてその用語、例えば「仕方ないね♂」とかを使っていたのだけれど、他の人から見たらそりゃ、レスリングだよなと後々思った。
僕はスパ帝から孫引きしていたのだけれど、そもそもにレスリングの語彙であるということを全く理解していなかった。
知らない人が読んだらマジに何を言っているか分からないだろうけれど、元ネタを指摘されて、僕自身が元ネタを把握してなかったという話です。
このように当人でさえ、そのことが元ネタになっているということを理解してない場面も出てくるし、そもそもパクリは否定される文化に僕らは生きているから、色々大変になる。
僕も『僕の村は戦場だった』が『なるたる』のラストシーンの元だという話は、その映画を見ていたというのに出会った当初その指摘を拒絶した。
後日、振り返るようにその事柄を考えてみたけれど、概ね、『なるたる』のラストシーンについて言えば、元は『僕の村は戦場だった』という映画のミームだろうと考えている。
(鬼頭莫宏『なるたる』12巻pp.226-227)
実際、『僕の村は戦場だった』のラストシーンは上半身裸の少年と少女が浜辺を走って終了になる。
そう、上半身裸の少年と"少女"が。
鬼頭先生がロリコンなのはもう十分に検証が済んでいるから今更言及しないけれども、もし、そのようなロリコンの人がいて、幼女の裸が見れる映画があるという情報に出会ったとしたならば、その映画を見るか見ないか。
既に検証をして、鬼頭先生は昔は合法だった少女物のビニール本を実際持っていたということを知っている僕としては、ああ鬼頭先生はあの映画見たんだろうなと素直に思う。
ビニール本って言って伝わらないとは思うけれど、全裸の少女が出てくる写真集を鬼頭先生は持っていたのは事実であって(参考)、そうである以上、あの映画を見たんだろうなと思う。
そして、裸の少年少女が海岸を走るというシーンがある映画がただあるだけだったら何ともだけれど、それがラストシーンに来るというのが酷く僕に同じミームであるということを訴えかけてくる。
ロシア語のそれだったらYoutubeに動画があるから、ラストシーンだけ見てみると良いかもしれない。
ラストシーンで裸の少年と少女が海岸を走るだなんてことが偶然一致するという可能性はどれ程だろう。
僕はそんな偶然よりも、ただ普通に以前見た映画の情報が描いた漫画に採用されたと考えたほうが無難だと思う。
ちなみに『僕の村は戦場だった』という映画について言えば、タルコフスキーの映画にしては面白かったよ。
色々、後のタルコフスキーの映画の要素が見え隠れするけれど、それでも面白さは十分にあった。
僕はタルコフスキーがこの映画に見られる面白い部分ではなくて、その映像芸術的なクソみたいな部分を何故伸ばしていったのか、マジに分からなかったけれど。
・追記
数年後に自分が書いたものを読み直して、ここの辺りについて、必ずしもそうとは言えないなと思い直す部分があった。
実際、鬼頭先生がその映画を見ているかどうかは分からないけれども、少なくともアニメ版の『新世紀エヴァンゲリオン』の影響はあると思う。
どれ程に鬼頭先生がエヴァの影響を受けているかの話はこれを書いた数年後にまた違う記事で色々書いているし、『なるたる』のラストシーンに関しては、何よりも、旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』のラストシーンに薫陶を受けている部分があると思う。
その辺りについては続く文章で色々書いているけれど、とにかく、先の映画は見ていると言えるほどではないよなと思って、その事について言及したいと思ったから追記した。
追記以上。
さて。
実際、『デビルマン』にしても『新世紀エヴァンゲリオン』にしても、その崩壊した世界に二人きりというのはラストシーンになる。
それがラストシーンでなかったならば違うミームなのだろうと思うけれど、ラストシーンである以上、そのミームなのだろうなと僕は思う。
勿論、確定的な証拠を出すことは出来ない。
ただ、そもそもパクリやオマージュなんてそのことを糾弾する意味なんてないわけであって、もっと肩の力を抜いて、ここが元ネタなんだろうなで話を終わりにしていいと思う。
つーか、鬼頭先生はエヴァのことめっちゃ意識してるからな。
(『なるたる』1巻p.25)
ラストシーンが滅びた世界の傍らに男女二人だけ海岸に残るという発想が偶然かぶるなんて事は果たしてあり得るのか。
僕は殆どあり得ないだろうと考える。
それが地球の反対側の出来事だったならば、偶然を疑った方が良いけれど、鬼頭先生自身は上の引用から分かるようにエヴァを見ている。
見てなかったらエヴァに登場するセリフをキャラクターに喋らせるなんて出来はしない。
とすると、鬼頭先生が『なるたる』のラストシーンをどうやって構築したかを考えたならば、あのラストシーンはエヴァのミームを摂取した結果生じたものだろうと言って問題ないと思う。
大好きな漫画が「〇〇のパクリだ」だなんて言われたら、脊髄反射的に否定してしまうだろうけれど、そもそもパクリは何も悪くないということを理解すれば、その否定が無意味だと分かると思うのだけれど。
で、『ぼくらの』について。
まず、着想としては『ひとりぼっちの宇宙戦争』の代表者が惑星(世界)の命運をかけて戦うというミームが先にあると思う。
で、ただそれだと一回しか戦闘が出来ないし、世界のために外敵と戦う話にするにしたって、同じパイロットで戦い続けるのはエヴァめいている。
前作の『なるたる』なんてエヴァのパクリだって袋叩きにあってるしなぁ。
沢山パイロットが居てもいいな。
沢山のパイロットと言えば『ザ・ムーン』があるけれど、あれはほぼほぼあの人数いる必要がなかったから、ちゃんと全員必要性を持たせましょうね。
なので、全員戦わせることを考える。
そのためにパイロットを替えることを考えるけれど、どうやって変えようか。
殺してしまえばいい。
どうやって殺そう。
乗ったら命を消費するという話にして、戦闘毎に死亡させてしまえばいいという発想。
という流れが実際だと思う。
まぁ鬼頭先生に聞いてみなければ分からないし、もう覚えてすらないだろうけれど。
そもそも操縦したら死ぬという発想は、既存の創作物に存在していて、それを流用しているのかもしれないし。
『ひとりぼっちの宇宙戦争』は星の命運をかけて同じ人間同士が戦う話になる。
この同じ人間同士ってのが厄介で、『ひとりぼっちの宇宙戦争』の場合は、文字通り同じ人間が戦う。
(藤子不二雄『藤子不二雄SF短編集』1巻pp.21-24)
ここから、"同じ人間同士戦う"という言葉を色々思案するうちに、並行世界の人間と戦うという話に至ったのだと思う。
同一人物が敵として出てくるという事についての言及はあって、鬼頭先生自身の脳内に『ひとりぼっちの宇宙戦争』のミームが存在しているのだろうと思う。
(11巻p.26)
まぁこういう所は『ひとりぼっちの宇宙戦争』のミームだろうね。
加えて、『ぼくらの』は一人が地球の代表として戦う話になる。
(同上)
無茶苦茶な方が漫画としては面白い。
他にもこの漫画が『ぼくらの』に与えているものがあると判断できるような描写はある。
(同上pp.26-27)
(『ぼくらの』p.59)
他にもいくらか似通っている部分があって、背広を着こんだ怪しい人々が訪れるという事柄が両作品には存在しているけれど、実際そのシーンが元で『ぼくらの』の描写があるかは分からない。
ただ、普通に考えて、着想の材料の中に『ひとりぼっちの宇宙戦争』は確実にあると思う。
『ひとりぼっちの宇宙戦争』は『ひとりぼっちの地球侵略』って漫画のタイトルの元ネタだろうから、結構有名なのかもしれない。
一切関係ないけれど、『ひとりぼっちの地球侵略』の作者の小川麻衣子先生、『魚の見る夢』を描いてた頃、絶対に精神状態おかしかったと思う。
『なるたる』期の鬼頭先生的な意味で。
まぁいい。
あと、これは唐突に思い出したから書くのだけれど、『ぼくらの』の材料の一つになった『ザ・ムーン』について言えば、ジョジョの荒木飛呂彦先生も読んでいる御様子。
何故と言うと、『ザ・ムーン』にはありとあらゆるものを朽ちさせるカビが兵器として登場するからになる。
(ジョージ秋山『ザ・ムーン』文庫版4巻p.250,p.252)
まぁ、グリーン・デイの元ネタでしょうね。
(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』59巻p.180)
話はそれてしまったけれど、物語は既存の情報の組み合わせでしかないというのは荒木先生でも事情は同じなわけであって、そのことの傍証としては成り立っているかもしれない。
詳しくは知らないけれど、ヴァニラ・アイスのスタンドのクリームの能力と全く同じそれが出てくる映画あるらしいっすよ?
タイトルすら知らないけれど。
まぁホイール・オブ・フォーチュンのエピソードは映画の『激突!』が元だから、ジョジョはそういう風な映画に元ネタが沢山あるのだと思う。
2巻の指輪の話は映画の『レ・ミゼラブル』が元だろうしな。
そういえば、考えてみれば『なるたる』の竜の子の痛覚を共有しているアバターについて言えば、あれはジョジョのミームだろうからそもそも無関係とも言えないかもしれない。
『なるたる』がジョジョのミームを受け継いだのではなくて、『なるたる』とジョジョが採用した共通のミームを持つ創作物があるのかもしれないけれど。
いや、『なるたる』の痛覚共有の話はエヴァだな。
機体と痛みをシンクロしているあれが元だろうと思う。
ただ、本人の分身としてのスタンドめいたものはどうあがいてもジョジョと同じミームだとは思うけれど。
というよりも、ジョジョのスタンドのダメージが本体に帰ってくるというミームと、エヴァのダメージの際に痛覚だけ共有というミームが合わさってるのだと思う。
エヴァには敵から乗ってる兵器への精神攻撃を受けて発狂をしたキャラクターが居るし、『なるたる』にもスタンドにダメージ貰いすぎて発狂した人居たし。
『ぼくらの』の話に戻ると、『ぼくらの』は『ザ・ムーン』、『ひとりぼっちの地球侵略』に加えて、『マーズ』という横山光輝先生の漫画も材料として組み込まれている。
所々にその『マーズ』が元なのだろうなという発想が『ぼくらの』にはあって、例えば軍隊が外敵と戦う主人公と協力したり、残機の数を顔にある光点で示したりという描写が『マーズ』にはある。
(横山光輝『マーズ』3巻pp.37-38)
(『ぼくらの』2巻pp.175-176)
この顔の光点というのは、『ザ・ムーン』にも似たようなものがある。
(ジョージ秋山『ザ・ムーン』文庫版pp.108-111)
ザ・ムーンは子供たち9人の心が揃わないと動かないロボットで、子供たちの思いが届くとランプが点灯する。
ただ、そのランプとパイロットの命には関係性はない。
けれども、子供たちの意識が弱まるとランプが消えてしまうから、そこから『ぼくらの』の描写に繋がっているのかもしれない。
分からない所だけれど、『マーズ』の顔の光で残機を表すという情報と『マーズ』の情報が合わさって、『ぼくらの』の顔のスリットの光の描写に繋がっている可能性はある。
ただ、そういう事柄よりも遥かに、人類のために戦う正義の味方である主人公が、被災者に敵愾視されるというミームが『マーズ』にはあって、『ぼくらの』のあの話はこれが元だと断言しても良いかもしれない。
(『マーズ』5巻pp.100-101)
(『ぼくらの』6巻pp.191-192)
別に、ただ偶然一致したと話を終わらせても良いのだけれど、これは偶然ではないと思う。
目くじら立ててこれはパクリじゃないオマージュだ、だとか、偶然似た話があっただけで鬼頭先生はそんなことしないだとか、そういう言葉の遊びを弄しても良いのだけれど、そんなことをする必要はないし、そんなことはナンセンスだと個人的に思う。
そもそも、パクリがイケないという議論に僕は根拠を見いだせない。
他にも『ぼくらの』のこのシーンは『マーズ』のあのシーンが元ネタなんじゃないのかと思うところがあるけれど、まぁ追々そういうことには言及していく。
僕は『ひとりぼっちの宇宙戦争』や『マーズ』が『ぼくらの』の元ネタという話を2chかどっかで読んで知って、実際検証してみたけれど、まぁ検証の結果その指摘は妥当だろうという結論に至っている。
検証のために『マーズ』は読んだのだけれど、副産物として『寄生獣』の当初のテーマである、「傲慢な人間たちよ」という発想はどうもこの『マーズ』であるらしいということが分かった。
僕的にはそっちの方が重要かな…。
鬼頭先生のファンだと一度も言ったことはないけれど、僕は岩明先生のファンだからね、しょうがないね。
まぁ僕が天才だと思っている作家は、司馬遷だけだけど。
何故、『寄生獣』の着想元が『マーズ』と言えるかについて言えば、『マーズ』が傲慢な人間を粛正する話だからになる。
ありふれたテーマと言えばそうなのだけれど、ありふれた情報も、一番最初の時点ではありふれてないのであって、『マーズ』が描かれた時点ではとても新鮮な発想だった可能性もある。
ただ、当時僕は生まれてすらいないから詳しくは分からない。
「傲慢な人間どもよ」という発想の初出が『マーズ』かどうかという話は正直分からないのだけれど、同じミームだという話は出来て、僕は『寄生獣』の序盤に見られるそれも、高い確率で同じミームだと判断している。
加えて、『寄生獣』でパラサイトはすぐさま日本語を習得しているのだけれど、『マーズ』でも同じような描写がある。
(『マーズ』1巻pp.26-27)
(『マーズ』1巻p.42)
(岩明均『寄生獣』完全版p.42)
まぁ『マーズ』のミームが『寄生獣』に流入した結果だろうと僕は考えている。
僕が気付けたのは今のところこれくらいだけれども、もっと読み込めば出てくるかもしれない。
…というか、『寄生獣』のパラサイトの擬態の能力、元ネタは『バビル2世』のロデムだな。
『バビル2世』の主人公の三体のしもべの中に、なんにでも変身できる奴がいる。
自分が描く漫画の材料として使うほどに一つの漫画が好きならば、同じ作者の漫画は読むだろうから、岩明先生は『バビル2世』も読んだのだと思う。
・追記
読んでないのだけれど『火の鳥』で、自由に体の形を変えられて、テレパシーで意思疎通を行う生命体が出てくるらしい。
『寄生獣』のパラサイトはここら辺が元ネタだろうね。
ただ、同居する寄生体について言えば『たったひとつの冴えたやり方』が元だと思う。
なにせ、この小説に出てくる寄生体は胞子の状態で現れる。
らしい。
ヨクワカンナイケドネ。
追記以上。
さて。
ちなみに『マーズ』なんだけれど、『ザ・ムーン』と違って面白かった。
純粋に、僕が横山先生の漫画が好きで、読みなれているというところに理由があるのかもしれないけれど、普通に読みやすいし面白かった。
『マーズ』、読んでみるといいかもね。(頑なにアフィリエイトは貼らないで紹介だけする姿勢)
『バビル2世』は…普通だな!
という、『ぼくらの』の物語の解説を始める前の、『ぼくらの』の元ネタについての話。
一応、予定としては本編中に見られて且つ、僕が元ネタを知っている描写については言及していくけれど、正直、色々ね…。
この記事を作ってみて、僕は『なるたる』の解説をして、それから何故漫画の解説をしなくなったのかを思い出したよ。
書いててつらい。
平生書いていることに比べて進行速度が半分以下で、書いているときの楽しさも半分以下。
そりゃ、こんなことやらねぇよ。
ただ、なんとなく書こうと思ったから、とりあえずココペリ編までは書くことは確定している。
その後はまぁ、分かんない。
ホントに書いててキツからね、しょうがないね。
それに加えて、『なるたる』の解説の時は相当量のウンコを投げつけられていた。
なんでそんなことするの。っていうようなコメントも多かったし、マジお前なんなの。って思うことも多かった。
「インターネット上とはいえ、画面の向こうにいるのはあなたと同じ、心のある人間です。」
そのことを全く理解していない人々が僕にクソみたいなコメントを投げつけてきていた。
まぁ、上の言葉を引用している時点で、僕もそのことを理解していないのだけれど。(ハイコンテキストな表現)
通常の四倍苦労して、その上でクソ投げつけられたらそりゃ、やめるよ。
一円も儲かってないで、ロハでやってんだから。
『なるたる』の解説の最後の記事、結局7時間かけて書いた上に労いのコメントの一つもなかったし、飛んでくるのはクソみたいなコメントだけだった。
まぁ、こっちのサイトはそもそもあっちに比べてアクセス数がないのであって、クソは飛んでこないだろうと踏んでいます。
そんな感じです。
では。