意趣無き悪魔は笑わない | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は、宗教のやさしさと、進化論の残酷さについて。

 

少し前に書くゆうていたのだけれど、結構長いこと放置していた。

 

いつそのことに言及してたかなと思って確かめてみたら八月だった。

 

伏線回収遠いっすね。

 

まぁいいや。

 

科学と宗教というものは基本的に相容れないものになる。

 

何故と言うと、まぁ、そんなもの、理由はいくらでもあるのだけれど、知識の体系が根本的に異なるからになる。

 

儒教の知識体系と仏教のそれは全然違うし、キリスト教と比べたって全然違う。

 

それぞれ、沢山の違うところがあって、話がかみ合わない。

 

まぁ人に優しくする理由について言えば、仏教なら情けは人の為ならずで自分に返ってくるからとかなのだけれど、キリスト教ならば神が見張っているから良い行いをしなければならないとかになる。

 

それぞれ根拠が変わってくる。

 

それと同じように、科学と宗教も知識の体系が根本的に違うから、話がかみ合わないのであって、科学の知識と宗教の知識は違う答えを持っている。

 

そうと言うと、科学と宗教は同じものだという話に見えるかもしれないけれど、実態は全然違う。

 

これは一つ解いておきたい誤解なのだけれど、人間の脳は正しいことを正しく認識するために存在しているわけではない。

 

正確には、遺伝子を存続するために必要な判断や機能を肉体にもたらすために存在している。

 

間違った知識や不合理な機能であったとしても、子を残して、その子が生存すれば進化論的には成功になる。

 

そもそも、脳の知識を集めたり判断を下したりする部位について言えば、遺伝子を残すという振る舞いから離れた振る舞いをしたそれが全て死滅して、結果的に遺伝子を残すという振る舞いを比較的する機能を持った個体が生き残っただけになる。

 

だから、理性を使えば物事を正しく認識できるわけではないし、そもそもに正しく認識することが是であるという道理もない。

 

結局、そのことをより円滑にするための脳の部位が宗教の事柄を記憶しているだけであって、科学に関して言ったみても、その部位に科学の知識を蓄えているだけに過ぎない。

 

科学と宗教を記憶する部位が同じなのは、世界に対する理解をする脳の機能でかつては宗教のことを記憶していて、その部位によって科学のことも記憶しているだけに過ぎない。

 

けれどもだからと言って、科学が宗教と同程度のものかと言えばそうではなくて、科学はその宗教しか持たない文化的なものを含有していない。

 

多くの宗教的な事柄は、その地域に根差した判断であって、その宗教でしか通用しない理屈が多い。

 

科学は全然そうではなくて、何処の地域でも全ての物質は元素の集合体で出来ているし、何処の地域の人間もゲノムを持っていて、遺伝子を後世に伝えようとするという基本的な構造を持っている。

 

僕はどちらの方がより妥当かと検討するけれど、科学の方がより妥当だろうと現段階では判断している。

 

…まぁその判断が揺らぐことはないだろうけれど。

 

科学と同じ天秤に乗せるのは宗教だけではなくて、哲学も同じように僕は天秤に乗せてみて、哲学は全く役に立たないどころか、間違った知識によって体系づけられていると結論している。

 

哲学なんて勉強するくらいなら、他にすることは沢山あると思う。

 

ただそれでも、宗教はある優位性を持っていると僕は思う。

 

哲学にしたって優位性はある。

 

正しいことを正しく認識することが是であるという根拠はない以上、間違った知識を持っていても、そのことで生物的な失敗をしない限りにおいては別に何ら悪くない。

 

間違った知識を振りかざすことによって、その振りかざす個体が何等か利益を得るとしたならば、それは別に問題ないだろうと僕は考える。

 

だから、哲学を学んで、それを披露して、鼻高になったり、尊敬を集めることに成功したとするならば、別にそれは究極的に誤った振る舞いとは言及できない。

 

彼はそのことで利益を得るのだから、別に僕は何ら間違ってはいないだろうと思う。

 

けれども、その哲学の議論が間違っていないという話にはならない。

 

この日記ではその哲学が如何に間違ってるかって話ばっかしてますね…。

 

まぁいい。

 

それと同じように、宗教とて知識が間違っていたとしても、その結果得るものがあるのならば、それは別に振る舞いとしては間違っているとは言及できない。

 

科学は、そして進化論はひたすらに冷血で、温かみもありゃしない。

 

一方で宗教は、温かみと救いは確実にそこにある。

 

彼らは救われたいんだ。

 

例え間違っていたとしても、彼らが救われるというのなら、それは別に間違った振る舞いであると言及することは僕にはできない。

 

進化論はただ残酷だ。

 

ここで、僕の父方の一族の話に移る。

 

僕のいとこの数人は、もう既に50を少し過ぎたら死ぬことが決まっている。

 

もうずいぶんと会っていないけれど、まだ十代だったか、二十代だったか、忘れてしまったけれど、概ね、彼らは死が約束されている。

 

現に僕の叔父は既に50を少し過ぎた時点で死んでしまった。

 

その葬式の時に会った以来で、そのいとこの顔すらおぼろげにしか覚えていない。

 

でも、彼らは死ぬ。

 

僕の父方の祖母は、ちょっと特殊な遺伝子を持っていたらしい。

 

どんな遺伝子かというと、息子を産んだら1/2で致命的な病気を発病するという遺伝子。

 

その遺伝子を受け継いだ時点で、死が約束されている。

 

X染色体に存在する遺伝子で、男の子を生んだら1/2で受け継がれる。

 

数年前に僕の叔父が死んだのは、その遺伝子を受け継いでいたからになる。

 

そして、僕の叔父はあと一人居るけれど、その叔父もその遺伝子を受け継いでいて、もう死ぬことは決まっている。

 

ただ僕の父は受け継いでいないらしくて、とりあえずまだ死なないと聞いている。

 

本来的にはこの病気は、幼少期に発病するそれであって、僕の叔父のように中年に発病するタイプのそれは珍しいらしい。

 

なんでも、日本に専門家が一人しかいないとか。

 

まぁ、専門家が何人いたところで、その遺伝子を受け継いだ時点で死ぬのだけれど。

 

この遺伝子を持って生まれた人間は、女性だった場合、死にはしない。

 

女性がこの遺伝子を持って生まれた時は、致死的な形質は発現しない。

 

けれども、男性として生まれた時にこの遺伝子を持っていたら、確実に死ぬ。

 

だから、この遺伝子を持った女性は、1/4の確率で子が比較的早世する。

 

男か女かどちらかが生まれるかの時点で1/2で、男として生まれても1/2の確率でその遺伝子は受け継がれない。

 

僕の父は偶然その遺伝子を受け継がなかったみたいだけれど、どの道、X染色体に由来する遺伝子だから、僕には関係のない話になる。

 

だから、この前葬式をあげた叔父の子供たち、すなわち僕のいとこは別にこの遺伝子を受け継いでいないから、50過ぎてもこの病気で死ぬこたぁない。

 

なんだ、何も問題ないじゃないか、と思うかもだけれど、僕には叔母が居る。

 

叔母はこの遺伝子を受け継いでいて、叔母自身は死なないけれど、叔母の息子は1/2の確率で死ぬ。

 

ただ死ぬ。

 

どうしようもない。

 

宗教は実に優しさに満ちていると思う。

 

悪いことが起こったならば、そのことに人間的な理由を与えてくれる。

 

キリスト教だったならば、そのことは神様が罰を与えただとか、今は悲しいけれど、最終的には神様は優しいから良い方向へと向かっていくとかいう理由。

 

仏教だったならば、前世で悪いことをしたのだから仕方がない、けれども今沢山良いことをすれば今度は悪いことは起こらないだったり、どんなに辛いことがあったとしても、死んだあとは阿弥陀様が救ってくださるから悲しむ必要はないだとかだったりするのだろうか。

 

さもなくばそのような悲しみや不幸は、全て存在しないから思い悩む必要はないだったり、貴方が以前した悪い行いが返ってきたのだろうと言うのだと思う。

 

儒教だったならば、それは天がそう望んだからであって、我々の力ではどうしようもないという考え方だったり、時の王が悪徳だからこそこうなったのであって、貴方に責任はありませんといった理由になる。

 

どれもこれも人間的で、何処か優しさが、何処か人間的な理由がそこに存在する。

 

僕はそれについて、やはり人間的な理由の方が受け入れやすいのだろうなと思うだけになる。

 

彼らはそれで納得する。

 

それで僕は良いと思う。

 

じゃあ科学は?

 

僕は進化論のことしか分からないけれど、進化論だったならば、X染色体にそのような致死性の遺伝子があるから死ぬ、で終わりになる。

 

慈悲も何もない。

 

宗教で言うのならば、そのような不幸には対策もある。

 

神に祈りなさいだったり、坊さんにお布施をしなさいだったり、社稷を全うしなさいだったりであって、そのことをすれば不幸は取り除かれる。

 

けれども科学はなんというかと言えば、僕の男のいとこがその遺伝子を受け継いでいたならば、死ぬとしか言及出来ない。

 

それはもうどうしようもない。

 

救いも優しさもなく、死ぬ。

 

どうできるものではなくて、ただ死ぬ。

 

そして、そのおばには確か娘がいる。

 

その娘が生んだ子も、その遺伝子を受け継げば将来的に死ぬ。

 

ただ死ぬ。

 

どんなに神に祈っても、お坊さんにお布施をして徳を積んでも、天に許しを希ったとしても、死ぬ。

 

どうしようもない。

 

僕は、宗教は優しいと思う。

 

でも、実際にその優しさは間違った理論体系によって組み立てられた誤理解になる。

 

宗教をどんなに究明したところで、僕の叔父があの日死んだ理由は導き出せないけれども、科学は答えを与えてくれる。

 

ただ、X染色体にそのような致死的な遺伝子があったという答え。

 

宗教は何千年かけても辿り着けない答え。

 

僕は、その無味乾燥な答えを冷酷に思う。

 

けれども、本当に残酷なのはそこから先だ。

 

じゃあどうすればいいか。

 

僕の父方の一族の女性は、そのような遺伝子を持って生まれるとして、どうすればいいか。

 

僕は答えを知っている。

 

例え、致命的な欠陥を持った子が生まれるとしても、子を産み続けるしか振る舞い方はありはしない。

 

僕らは健康的な子を産んだり、人類をよりよく進化させるために子を産んだりしているわけではない。

 

ただ単に、子孫をなるべく増やすという振る舞いをした個体の子孫が生き残ってきたという事実に基づいて僕らは子供を作るし、セックスをしたいと思うし、恋愛のことを脳に生じさせる。

 

結局、脳は何も知らなくて、ただそういう風に振舞った個体だけが遺伝子を後世に伝えることに成功しただけであって、よりよいだとかそんな殊勝なことは想定していない。

 

例え致命的な欠陥を持った子が生まれると分かっていたとしても、子供を作りたいと思うし、セックスをしたいと思うし、恋愛もする。

 

ただ、そういう脳の構造を持って生まれてくるだけであって、その脳の構造で子を成すだけになる。

 

僕の父方の一族の女性は、例え科学が1/4で我が子が致命的な欠陥を負うと教えてくれたとしても、それでも子供を成すしか振る舞い方はあり得ない。

 

その振る舞い方しか知らないわけであって、そのようにしか振る舞えない。

 

進化論は遺伝子を存続することが是なのであって、そしてそれは正しいから是なのではなくて、そうしなかった個体は今現在存在しないからという理由に基づいている。

 

子を成すのか成さないのか、どちらが正しいかという話ではなくて、子を成さない選択をした個体は遺伝子を現在に存続させていないのであって、遺伝子を存続させる振る舞いをした個体の子孫である以上、僕らは遺伝子を存続させる傾向性と思考を持って生まれてきている場合が多い。

 

だから、どんなに欠陥を持っていたとしても、セックスをしたいと思うし、子供を成したいと思う。

 

まぁ同性愛者とかもいるから、あくまで傾向性の話だけれど。

 

当然、同性愛者は子孫を残せないけれども、別にそのことが悪いとかではなくて、子孫を残せないから100年後には遺伝子は残っていないという事実だけがある。

 

ただ乾いた事実だけがあって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

それでも、僕の親戚は相対的に幸福だと思う。

 

何せ、健全な子を残す可能性がまだ残っているのだから。

 

完全に子の世代が100%の致命的な欠陥を負うような遺伝子を持った個体も存在すると思う。

 

彼や彼女は、子供を残そうとするならば、子を産むたびに死を垣間見る。

 

宗教だったならば、そのことに慰みはあるのだろうか。

 

少なくとも、宗教的な寄り合いは、悲しむ彼や彼女を慰めてはくれる。

 

宗教のロジックの中にも、彼や彼女が慰みを見出す文言があるかもしれない。

 

けれども科学は。

 

彼や彼女はそれでも子を残すしか振る舞い方はないし、そこに慰みも何もなく、ただ生まれた子は死ぬということしかない。

 

この世界に沢山の遺伝子の欠陥が原因の病気がある。

 

宗教はそのことになんて説明するのだろう。

 

仏教の場合は前世の業、すなわち、前世で悪いことをしたからという理由を出すのだけれど。

 

ただ、科学はその欠陥を持って生まれてきたからという理由しか提出しようもなく、治す手立ても示せず、患者や家族に慰みも与えられない。

 

そして、その無機的に提出される事実を、人間は中々受け入れることは出来はしない。

 

何故ならば、人間の脳は、物事を正しく認識するために存在しているわけではないのだから。

 

実際、僕らがこの目で見ている世界は、正しく見えているわけではない。

 

科学的に、物体というものはスカスカで、真ん中の方に電子や陽子がくるくる回っている原子核が合わさった原子が互いに距離を置いて存在しているわけであって、僕らが触れているものも実際は僕らが理解しているような密度を持っているわけではない。

 

実際は殆どが空虚に満ちていて、ぽつりぽつりと電子や陽子や原子核がその空虚の中に存在するだけになる。

 

では、何故僕らが見ているように世界は見えるのか。

 

何故触っているように世界は感じられるのか。

 

そのように見えたほうが、遺伝子を後世に存続できるし、正しく世界を見る必要性は存在しないからになる。

 

事実として目の前の石ころがスカスカであったとしても、実際を生きる以上それは固いものだと認識したほうが、スカスカであると認識するよりも利益が多い。

 

スカスカであると見えたところで、僕らはその石をすり抜けることが出来ないのだから、硬い形として見えたほうが利益が多い。

 

ただそれだけなのであって、僕らの意識そのものもただの反応でしかない。

 

その様なあり方の方が良かったからそのようなあり方なだけであって、それは別に究極正しいわけではない。

 

人間の脳は、正しいものを正しく認識するためにあるわけではない。

 

だから、科学の提出する答えは受け入れづらくて、宗教の優しい答えには何処か救いがある。

 

恐らくはそのような人間的な理由を採用してきた個体の方が生き残りやすかったのだろうと推測している。

 

宗教の教えは優しいと思う。

 

慈悲に満ちていて人間的で、それに縋ったり、背中を預けるというのは心地の良いものなのだと思う。

 

一方で、科学は残酷で、無味乾燥で、優しさの欠片もありはしない。

 

けれども、宗教の教えが事実であるということもない。

 

石器時代や青銅器時代の人々がなんとなく思ったことが文章として残っているだけであって、そこに裏付けや科学的な根拠、妥当性があるわけではない。

 

僕は、間違っているものは間違っているという。

 

けれども、間違っているものに縋っている人について言えば、縋ればいいと思う。

 

何も悪いことじゃないし、それで彼や彼女が遺伝子の存続に成功すれば、それはまるで問題ない。

 

そしてそもそもに、遺伝子の存続に失敗しても、何も悪いことではない。

 

ただ単に、遠い先祖が死なないようにしたという事実に基づいて僕らはそれを受け継いで死にたくないし、なるべく子孫を残そうとするだけであって、そのことが正しいという説明を僕は持ち合わせはいやしない。

 

けれども、遺伝子の存続に関係するものは基本的に快であって、それから離れるものは苦になる。

 

快を選んだほうが少なくとも苦痛はないのだから、そっちを選べばいい。

 

まぁ、快だけ選んだたら、自己中心的な選択ばかりになって、周りに疎んじられて遺伝子の存続に悪影響が出るかもだから、そこら辺の折り合いは付けなければならない。

 

とは言っても、そのような四面楚歌は苦だから、そのような苦を避けるために、長期的な戦略を選べばいいし、普通生きているのならそれを選んでいるのだけれど。

 

という話。

 

自然や科学に悪意はない。

 

けれども悪魔的な現実だけを提出してくる。

 

ただし悪意があるわけではなくて、ただそうであるだけになる。

 

その悪魔は笑わない。

 

一方で宗教は蠱惑的で優しくて、それに何かを預ける気持ちも良く分かる。

 

僕としては預けてしまって良いと思うけれど、それでも間違ってるものは間違ってると指摘する。

 

そんな日記。

 

…普通だな!

 

では。