太平洋戦争史と心霊世界 -23ページ目

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


霞ヶ浦駐屯地1  茨城県土浦市にある陸上自衛隊・霞ヶ浦駐屯地を訪問しました。

霞ヶ浦駐屯地2 

5月も下旬になると、駐屯地祭も暑くなるので見るのも大変です。駐屯地へ入った時は、ちょうどこの閲覧飛行の最中でした。


霞ヶ浦駐屯地3 
 

霞ヶ浦駐屯地は、戦前は霞ヶ浦海軍航空隊があった場所ですが、現在は陸自の関東補給処(兵站)となっています。


霞ヶ浦駐屯地4  閲覧行進最後にフォークリフトが出てきましたが、こういうのは他では見ないですね。補給処ならでは?


霞ヶ浦駐屯地5  それから陸自の航空学校もあります。左の建物は管制塔。展示飛行を見に行く途中です。


霞ヶ浦駐屯地6 

 混雑でうまく撮れずショボイ画像ですが、 中央はAH-1(攻撃ヘリ)と左手にCH-47(輸送ヘリ)。急降下などの実演を行っていましたが、パイロットは気絶しないのでしょうか。


霞ヶ浦駐屯地7 

これはOH-1(偵察ヘリ)。


霞ヶ浦駐屯地8  OH-1と計3機の展示飛行でした。実演後、着陸時の画像。

 

 しかし5月とはいえ、直射日光が激しい。顔がジリジリ焼けるようです。よく「富士山の見える所に美人はいない」といいます。

 

つまり富士山が見える太平洋側は日焼けしやすく、シミなどもできやすいという意味ですが、それだけ日照時間が長くて日差しもきついんでしょう。話脱線しましたね。


霞ヶ浦駐屯地9  ヘリコプター試乗の抽選発表です。私は抽選券は得ませんでした。


霞ヶ浦駐屯地10  で、抽選で当たっても、ヘリコプター試乗するのに長蛇の列・・・。

 

 まあXX試乗も良し悪しで、乗れれば越したことはないですが、その代わり待ち時間を食って他のイベントや史料館などが見られないとか、何かが犠牲になるんですよね。


霞ヶ浦駐屯地11  試乗ヘリはチヌーク(CH-47)です。


霞ヶ浦駐屯地12  これは初めて見たと思います。「94式水際地雷敷設装置」。


霞ヶ浦駐屯地13  94式水際地雷敷設装置」

 

 海岸線の水際に地雷を迅速に設置するための車両、とのこと。水陸両用車で水上も船のように航行できます。


救難艇1 

  着水する部分の形状が海上自衛隊の救難艇、
US-2に何となく似ていますね。

 

 では、ダラダラと後編へ。(^_^;)


根本博と家族 

根本中将とその家族


 

「根本が中隊長、そして連隊長時代、隊内の鉄拳制裁はいっさい禁止され、若い兵士たちに根本はこの上なく慕われている」


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「アメリカ、ドイツへ出張の途中、モナコでルーレットに手を出し、1千フラン張ったところ、36倍になった。それをそのままふたたび張ったら、またもその36倍になった。

 

そこでやめたので、手元には莫大な金が転がり込んだ。彼は半年のヨーロッパ旅行中に、その金を同行者とともに使い果たし、横浜入港のときには、逆に5百円ほどの足が出て夫人に救援の電報を打った。

 錫(根本の妻)は実家から借りて晴れの帰朝を出迎えたそうである。それから賭事には手を出さない」


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「幼年学校、陸士、陸大を通じて射撃は得意中の得意。満州でも鴨や雉をうった。昭和16年、第二師団長として東安に駐在していたころ、遠出をして雉を射ち落とした。

 

帰りはその雉をトラックの荷台にかけて走っていたが、途中、なんの気なしに空を見ると、雉が一羽、悲しげに鳴きながら、トラックを追っていつまでも離れようとしない。きっとつがいの片方である。根本はそのときを境に狩猟はやめた」


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 「根本司令官は当番兵の使役も断り通した。部下たちは、

 

『将校に当番兵をつけるのは、御存知の通り軍隊の伝統であります。当番をつけていただかないと、他の将校が困るのであります』

 

 としつこく奨(すす)めるけれど、『わしにはわしの考えがあってのこと』――そう言って断りつづけてきた。

 

 尉官のうちは当番兵一人だが、佐官、将官になればたいがい二人だった。

 

 当番勤務中は軍務がお留守になるから、本人のためにも軍にとっても大変なロス。一般の企業では社長、重役に給仕や秘書がつくらしいが、あれは国家財政には関係ないけれど、軍の場合は直接国民のフトコロに響いてくるわけだ。

 

 しかし、自分のしていることは軍隊の伝統を破ることだから、他人に強要することはできない。そう考えて、その理由はだれにも語らず実行してきた。

 

 召使いを使わないのにも理由がある。彼の祖父為吉は有名な漢学者で不倫背徳の言行を忌み、家風は厳格、“己のことは己でせよ”が口ぐせであった。したがって、召使いなど論外である」


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蒋介石 
蒋介石

 

 

「蒋介石総統と最初に逢ったのは、昭和15年、根本が華北連絡部次長のときだった。それから親しく交際してきたが、教えられることが多かったし、なんといっても彼の人柄にひかれていた。

 

『根本は日本人なのか中国人なのかわからん』と陰口を叩かれるほど蒋に傾倒し、二人の間には国境がなくなっていた」

 

 

・『戦略将軍 根本博』-ある軍司令官の深謀、小松茂朗、光人社、1987

・『この命、義に捧ぐ』-台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡、門田隆将、集英社、2010


根本博 

北支那方面軍司令官として、故宮で降伏文書に調印する根本中将(中央)。


  

先日、終戦の際ソ連軍から満州の在留邦人4万人を救った、根本博中将について取り上げました。

  彼のエピソードに関しても捨てがたいものがあり、以下の記事でご紹介できなかった分を掲載します。

 

 

■根本博【前編】-満州の在留邦人をソ連軍から救出した陸軍中将

http://urx.nu/8gkb


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 「何ごとによらず激越の調子がなく、大声叱咤することもないし、呵呵大笑もない。だれも根本さんから目の玉の飛び出るようなしかられ方をした人はいないと思う。しかる時にはじゅんじゅんとさとすという態度であった。

 

また、座談となると天下一品ともいうべく、訥々というに近いような間のとりようでありながら、実に話術が巧みで、それは根本博というごとく、まことに博学で、会合などでも、根本さんの周囲にはいつの間にか皆が集まり、その滋味に引き込まれてしまった」


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根本中将が昭和111936)年、旭川の歩兵第27連隊に赴任した頃の出来事です。

 

「そのころから彼は、部下将兵の身体、食糧などに意をもちいたが、なかでも安い魚の骨を乾燥機にかけて粉末にし、ゴマや青のりなどを混ぜ、ふりかけにして食べさせた。カルシュウムの補給のようであった。

 

なかでも洗濯機の発明は驚きである。日本で洗濯機が普及したのは戦後であった。それまでは手でゴシゴシ揉(も)むか、洗濯板にこすりつけるか、そんな方法しかなかった。

 

演習で疲れた体、しかも不慣れな洗濯に取り組む兵の姿を見ているうち、一度に大量の洗濯ができる機械をつくろうと思い立ち、廃品を活用してモーターでまわる、いわゆる攪拌式の大型洗濯機を考案した。その機械で一度に6百名分のシャツを洗うことができた、という」


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 根本中将は生まれつき物質にこだわらない性格と言われていました。単身赴任で転勤の際も、荷物は行李(こうり)一つだけという、最低限の日常必需品だけでした。

 

結婚して新居への移動の際も、それは変わりませんでした。

 

 「鶴川の新居が決まったとき、根本は、

 

『裸一貫でスタートしよう。嫁入り道具は不要』と宣言したが、『まさか、そんな・・・』と母親は笑って世間の常識通り、嫁入り道具一式をそろえて新居にはこんだ。

 

とこらが、根本は宣言した通り、軍用行李(こうり)ただ一つ。軍服のほかは、母親が織ってくれた絣(かすり)の着物一枚だけ。ずっと後になって、『あのときは、ほんとうに驚きました』と錫(根本の妻)が笑ったそうだ」


シャボン玉と木 


シルバーバーチなど高級霊の語った霊界通信をもとに、死んだらどうなるのかを解説していきます。

 

現在の話は、人間が霊界入りしてから行く最終目的地である「霊界」での生活についてです。


霊界一覧図                 

 

赤字はシルバーバーチの言葉)

 

英国はいま美しい季節を迎えています。(この交霊会が開かれたのは五月だった-編者)

 木々は新緑にかがやき、花の香がただよい、大自然の恵みがいっぱいです。あなたがたは造化の美を見て”何とすばらしいこと”と感嘆します。

 

がその美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色あせた摸作ていどでしかありません。地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。

 

 

 

【解説】シルバーバーチの交霊会は1920年代~1980年初頭、霊媒のモーリス・バーバーネルが他界するまでの約60年間、英国で開催されていました。

 

 霊界にも地上同様の景色が広がっています。なぜなら地上は霊界の写しであり、地上の風景も、所詮は霊界のコピーであるに過ぎないからです。

 

ですから霊界を知らない(或いは記憶を消された)人間には、コピーである地上の新緑も美しいと感じますが、霊界の本物の緑や花の美しさは、地上を遥かに凌駕していると言われます。


梅の実 

 

 

 

海もあれば山もあり、湖もあり、花も樹木もあり、動物も小鳥もいます。その美しさの中には実際にこちらへ来ないと分からない種類のものがあります。

 

ある程度の霊性に目覚めた者なら、もはや物質界の愉しみ(飲食欲・性欲等)を求めなくなります。仮にいても、それは例外に属します。

 

 もう一つの霊界の有難い点は、地上のような“生きるための必需品”を得るための苦労がいらない事です。食糧品や衣類を買う必要がありません。お金を払ってまでして家を求める必要がありません。全部そろっているのです。

 

 

 

【解説】霊界には地上以上に素晴らしい自然の風景が広がっています。

 

また霊界は物質の世界でないため、地上で必要であった本能に基づく欲求(飲食・生殖・睡眠)は必要なくなります。これらが無くても生存可能な世界であるからです。

 

そのため食べ物を買う必要も、料理する必要もなくなります。衣服は「こういう服が欲しい」と念じれば、いつの間にか身にまとっています。

 

家は霊界でも所有している人が多いようです。家屋は地上で建築や建設関係をしていた専門家が無償で建ててくれると言う話が霊界通信には掲載されています。


バラの花 

 

 

 

 食べることも飲むこともいたしません。そうやって養わねばならない物的身体が無いからです。

 身体を大きくする必要がありませんから、蛋白質なんかは必要ではありません。霊的身体がありますが、その養分は置かれた環境から摂取します。

 

永遠の太陽とも言うべき光源があり、暗闇がありませんから、寝るということもしません。

 

 

 

【解説】霊界では飲食や睡眠は必要ありません。霊界通信では霊界の大気中に養分とも言うべき要素が含まれており、それを摂取するので飲食が必要ないとも記述されています。

 

 霊界には常に光源があり、地上世界のように昼夜がないため睡眠も必要なくなります。また地上での睡眠には、睡眠中に霊界へ行き、死後に備えて霊界の環境に馴染むトレーニングの意味合いもありました。

 

 従って霊界入りしてしまった暁には役割終了ということで、睡眠という現象にも終止符が打たれることになります。

 

 

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『シルバーバーチの霊訓』(4)、五章 死んだらどうなるか

『シルバーバーチの霊訓』(10)、五章 死んだあと、どうなるのか

『シルバーバーチの霊訓』(8)、四章 質問に答える(二)


言語:日本語、公開:1969(昭和44)年、製作国:日本、
時間:
128分、監督:丸山誠治、出演者:三船敏郎、加山雄三、仲代達矢、笠智衆



日本海大海戦1 

「日本海大海戦」は日露戦争を題材とした映画です。特撮監督、円谷英二の遺作となりました。

 

 旅順攻撃など陸軍の戦いも見せていますが、旅順港閉塞作戦での広瀬少佐の戦死、黄海開戦、日本海海戦などタイトル通り話は海軍中心となっています。


日本海大海戦2 

歴史映画は人物がたくさん登場するので、最初誰が誰だか認識できないことも多いです。このように最初に字幕を付けてくれると親切です。


日本海大海戦3 

 この映画は俳優陣が良かったですね。乃木大将役の笠智衆はハマリ役でした。「日本のいちばん長い日」では鈴木貫太郎役でしたが、度量の大きい人物を演じると光ります。


日本海大海戦4  東郷平八郎(三船敏郎・左)と乃木大将(笠智衆・右)の共演。


日本海大海戦5 

 三船さんは紛れもない名優だと思うのですが、演技という点はどうなのか・・・?

  今まで山本五十六役、源田実役、今回の東郷平八郎役などを見ましたが、人物像がどれも同じに見えてしまう気がするのですが・・・。

 

 「演技が上手い」というのは、一体どういうことなんでしょうね?でも他の追随を許さない圧倒的存在感がある、という点も確かにスターの要素だと思います。

  私は三船さんが最高に似合うのは侍役なのではと思うのですけど。


日本海大海戦6 

胡散臭そうな妖気を放つ、明石元二郎大佐役の仲代達矢。(^_^;) 存在感が際立っていますね。明石は日露戦争で裏工作を行っていた人物です。


日本海大海戦7  旅順閉塞作戦前の広瀬武夫少佐(加山雄三・中央)。

 

まあ広瀬少佐役なので、すぐ戦死しちゃいますが、加山さんはいつも颯爽とした雰囲気で士官・将校役がお似合いです。


日本海大海戦8 

横須賀の戦艦三笠記念館を何度か見ているので、映画で三笠のセットを見ても、「あそこだ!」と、すぐわかります。これは上甲板の前方寄りの場所ですね。


日本海大海戦9 

  上半身が二種(夏服)、下半身が一種(冬服)という変わった組み合わせの軍装。きっとこういう時期が明治にあったのでしょうが、調べても分かりませんでした。


日本海大海戦10 

 蛇足ですが、広瀬少佐が戦死した第二次旅順港閉塞作戦で、米山丸という老朽船が沈められています。

 

その米山丸の船体の一部が陸上自衛隊・練馬駐屯地(東京)の史料館に収められています。


日本海大海戦11 

 ロシアに対し辛勝・・・良かったのか、悪かったのか。日露戦争は「禍福はあざなえる縄のごとし」という格言がピッタリな気がします。