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太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


樺太関係資料館 

 樺太関係資料館は2014年夏に北海道旅行で撮影したものですが、体調不良等でアップしていませんでした。

  ちょうど今日、
89日は太平洋戦争で対ソ戦が始まった日でもあるので、樺太の日ソ戦についてご紹介します。


道庁赤れんが庁舎  樺太関係資料館は道庁赤れんが庁舎の2階にあります。


館内の様子  館内の様子。小さな資料館です。

 


南樺太 

 1905年(明治38年)、日本は日露戦争でロシアに勝利しました。その際ポーツマス条約が結ばれ樺太の半分、つまり北緯50度以南の南樺太が日本領となりました。


  樺太の日露国境線に置かれた標石。「大日本帝国 境界」


 

  「天第四号 明治三十九年」と刻まれています。ポーツマス条約締結直後に建てられました。


標石の裏側 

標石の裏側はロシア語です。


国境の標石と国境警察隊員  (ウィキペディアより)国境の標石と国境警察隊員。



  1913
年から1939年まで南樺太には日本軍は常駐しておらず、国境警察隊員が警備を担当していました。


ニシン漁の漁業部  昭和15年、ニシン漁の漁業部が取引先に配布したもの。「樺太真岡部多蘭泊」という地名入り。「TEL」とあるが、この時代電話は大規模な組織にしか置いていなかった。

 


日本統治時代、南樺太では最大で約41万人(1940年、昭和15年)の日本人が居住していました。


高等女学校の制服  戦時中の高等女学校の制服。


 

1945(昭和20)年89日、日ソ中立条約を破り、ソ連が対日参戦を開始。811日、ソ連は樺太占領を目指し、南樺太の日本領へ進攻してきました。

 

 815日、日本はポツダム宣言によって無条件降伏を受け入れましたが、ソ連軍の進撃は止まりませんでした。南樺太では日ソ両軍の交戦が続き、823日、ようやく日本軍の主要部隊との停戦が成立しました。


日本軍の鉄かぶと  日本軍の鉄かぶと、副食皿、飯ごう、水筒、千人針


 樺太戦での日本軍の戦死者・行方不明者は7002,000名。捕虜となった日本兵約18,000人のほとんどはシベリアへ抑留されました。

 

 戦闘の際に、南樺太の居留民40万人以上のうち、約10万人が北海道方面へ緊急疎開しました。しかし疎開途中、避難船三隻がソ連の潜水艦によって撃沈され、約1,700名が死亡しました。これは「三船殉難事件」と呼ばれています。


「戦時下の樺太」 

  また南樺太の戦闘地では、約2,000人の民間人がソ連の攻撃により犠牲となっています。


電話交換手 

 真岡(まおか)郵便局には当時、女性電話交換手が9人勤めていました。彼女らはソ連軍の侵攻直前まで任務を継続し、最後に青酸カリで自決しました。

  この話は「樺太
1945年夏 氷雪の門」(1974
年)という映画の題材にもなっています。


真岡郵便局電話交換室  「真岡郵便局電話交換室」

 

 展示物の解説より。「真岡郵便局の電話交換手たちは、通信を確保するという責任感から、局舎から退避せず、上陸してきたソ連軍の攻撃が身近に迫ったのを知っても職場を守り続け、自ら服毒して死に就いた」。

 

 ソ連軍は第一線には囚人部隊を配置しており、その残虐行為はすさまじく、阿鼻叫喚地獄だったと言われますからね・・・。


赤れんが北方領土館 

  同庁別室には「赤れんが北方領土館」というコーナーもあります。


北方領土のPR 

  時間がなくてよく見られませんでしたが、北方領土のPRに力が入っています。


 

道庁の前に「粘り抜く 熱意と対話で 四島返還」のスローガン。東京などと比べると、活動にかなり温度差があることを感じました。


水中花 


 これは私、ルビーが知人のBさんから直接聞いた話です。Bさんはいわゆる「見える人」で、通常では説明のつかない不可解な現象に遭遇することがあります。

 

 ある夜の晩、Bさんは帰宅の途にありました。道路には転々と、電燈がスポットライトのように浮かびあがっています。その闇夜の一角に照らされ、人がぼんやりと立っているのが見えました。

 

 何だろうと目を凝らすと、高齢の女性が歩道の隅に佇んでいます。

 

「痛い・・・」

 

女性がふっとつぶやきました。Bさんはそこで、はたと高齢女性の異様さに気付きました。ぼんやりした姿は、どうやら生きている人間ではないらしい。すると、今度は女性がBさんに直接話しかけてきました。

 

「一緒に連れて行って!」

 

 冗談じゃない、勘弁してくれとBさんは内心叫びながら、足早にその場から立ち去りました。しかし女性はBさんの後は追いかけてはこなかったようです。

 

 後日、その高齢女性に遭遇した歩道を通りかかったところ、道端に花が供えられていました。不審に思ったBさんは、近くにあった行きつけのスーパーで、馴染みの店員さんに花の件を訊いてみました。

 

 するとやはり、その現場では最近交通事故が発生し、女性が一人即死して亡くなられていました。


ふうせんかずら 

 

 高齢女性は亡くなられても、自分が死んだという状況に気が付いていないのでしょう。その証拠に彼女は「痛い」と、事故死した際の痛みを未だに引きずっていました。

 

 死ぬという事は、魂が格納されている不可視の身体(幽体)が、肉体から分離されるということです。事故で怪我をして痛かったのは肉体の部分であり、死ねば魂は肉体から離れますから、通常死後に痛みは消失します。これは病気の場合も同様です。

 

 にもかかわらず女性が死後も痛みを感じているという事は、自分の死に気付かず未だ生きていると思い込んでいるためです。

 

霊界では自分の主観、つまり思い込みによって周りの環境が形成されます。例えば霊界には地上世界のような夜は無く昼だけの世界なのに、昼夜あると固く信じていれば夜がやってきます。

 

従って自分が怪我をしていると思い込めば、実際には肉体を失って痛くもないのに痛みが生じることになります。ですから「病は気から」ということわざも、正鵠を得ていると言えるでしょうね。

 

高齢女性も早く真実に気付くことをお祈りしますが、これは死後の世界を全く知らない方が辿る一例といえるのかもしれません。



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富良野メロン 

友人から富良野メロンが送られてきました。メロン

ありがとう。


メロン 

富良野メロン、水っぽさがなく濃厚な甘さです。

メロンとスイカ

 

 スイカと混ぜて食べてみましたが、メロンの糖度の方が高く、メロンの甘さが引き立ちました。

メロン2個

 高価なメロン、普段こんな物食べないのでちょっとずついただきますね。ご馳走様でした。


アッツ桜  アッツ桜(アッツザクラ)


   内容がちょっと時期外れになってしまいますが・・・更新休んでいた間に溜まったブログネタをアップしていきたいと思います。

 

 6月初めに園芸センターで「アッツ桜」を見かけました。高山植物のような小ぶりのピンクの花で、いかにも北方のアッツ島原産らしいな、と思い購入しました。

 

 ところが、帰宅して花の名前の由来を調べてみると、アッツ桜は実は南アフリカ原産で、正式名は「ロードヒポキシス」というそうなんです。アッツ島とは何の関連もなし。

 

 ではなぜ日本では「アッツ桜」という名称なのかというと、以下の説があるようです。

 

●太平洋戦争で日本軍がアッツ島を占領した出来事にちなみ、「アッツ桜」と名付けられた。

 

●太平洋戦争でアッツ島の日本軍が玉砕したことを悼み、「アッツ桜」と呼称された。



アッツ島に米軍上陸 昭和185月、日本軍玉砕後のアッツ島に米軍上陸後、日本軍の上陸用舟艇に星条旗が掲げられた。



現在のアッツ島  飛行機の残骸が残る現在のアッツ島。

 

 

 

 昭和176月、ミッドウェー海戦での陽動作戦として日本軍は米国のアリューシャン列島上にあるアッツ島・キスカ島へ上陸。

 

 占領約1年後の昭和185月、アッツ島に米軍が上陸し、日本軍守備隊との激しい戦いが始まりました。しかし日本軍はアッツ島に増援・補給部隊を送れず、太平洋戦争で初の日本軍玉砕の地となったのです。

 

 日本陸軍は断腸の思いでアッツ島放棄を決定しましたが、隣のキスカ島にも陸海軍守備隊が依然として残留していました。そこで陸軍は渋る海軍を説得し、アッツ島を捨てる代わりに、キスカ島の守備兵を救出するよう取引を行いました。

アッツ島・キスカ島 

 

 海軍主導によるキスカ島撤退「ケ号作戦」は一度の失敗を経て、昭和18729日に実行されました。奇しくも昨日です。

 

 キスカ島撤退作戦は史上稀に見る無血撤退となり、その後上陸した米軍が発見したのは、もぬけの殻となった日本軍宿舎と軍用犬のみでした。

 

 またこの撤退では、常識では説明のつかない不可解な出来事や、幸運な偶然が重なって成功を収めたため、奇跡の撤退作戦とも呼ばれています。



1943年8月20日、キスカ島にて 昭和18820日、キスカ島にて。日本軍撤退後、日本軍が捨てて行った自転車を試し乗りする米兵とカナダ兵。

 


米兵が旭日旗を捕獲  昭和18年、キスカ島。日本軍撤退後に上陸した米兵が旭日旗を捕獲。

 


キスカ島に残る第二次大戦時の船舶  キスカ島に残る第二次大戦時の船舶。


桜 


  ブロガーさんの間での話ですが、悩みを抱えた人の話を聞いているうちに、自分も段々鬱になってくるという話を何度か聞いたことがあります。

 

 ブログでブロガーさんの悩み事をピグやコメントで聞いて相談にのっているうちに、自分まで重苦しい気分に陥ってしまい、具合が悪くなってしまった、というものです。

 

 ある人は「申し訳ないけど自分も気持ち悪くなるので、これ以上は聞けません」と、相談事をお断りしたそうです。

 

 私自身も経験があります。あまりにも悩み事一杯の話や記事内容だと、吐き気を伴うような具合悪さに陥ることがあります。例えると自分の血液中に汚水(ネガティブな想念)がジワーッと入ってきて、クラクラと眩暈がするような気持ち悪さです。

 

 あ、これは現在来てくださるブロガーさんは問題ありませんので、大丈夫ですよ。(^_^;)


水仙 

 

 霊界通信『シルバーバーチの霊訓』によると、想念には実体があるということです。現在の科学では証明できませんが、想念とは目に見えない曖昧模糊とした物ではなく、霊界から見た場合、実際に存在するそうです。

 

 そのため例えばAさんが悩み事をBさんに相談した場合、Aさんの体調が悪化するほどの想念がBさんへ投げかけられますから、実際にBさんの気分も悪化する、という二次災害的な現象が起きるのでしょう。

 

 だからと言って誰にも悩み事を相談するな、などというつもりは全くありません。それは各自の自由ですから。

 

 要は悩み事を誰にも相談せず我慢する、という状況に持っていくのではなく、悩み事を深刻に捉えない心境に変えていくことが肝要なのですが、なかなか難しいものですね。

 

 悩みを抱えた方も辛いものがあると思います。でもあまりにも暗くて重い想念をまき散らすと、他人もまた体調不良に陥っていく場合がある、という事だけには留意された方がよいと思います。

 私自身も自戒したいところですね。