樺太関係資料館【北海道紀行】-1945年8月、ソ連との「樺太の戦い」 | 太平洋戦争史と心霊世界

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樺太関係資料館 

 樺太関係資料館は2014年夏に北海道旅行で撮影したものですが、体調不良等でアップしていませんでした。

  ちょうど今日、
89日は太平洋戦争で対ソ戦が始まった日でもあるので、樺太の日ソ戦についてご紹介します。


道庁赤れんが庁舎  樺太関係資料館は道庁赤れんが庁舎の2階にあります。


館内の様子  館内の様子。小さな資料館です。

 


南樺太 

 1905年(明治38年)、日本は日露戦争でロシアに勝利しました。その際ポーツマス条約が結ばれ樺太の半分、つまり北緯50度以南の南樺太が日本領となりました。


  樺太の日露国境線に置かれた標石。「大日本帝国 境界」


 

  「天第四号 明治三十九年」と刻まれています。ポーツマス条約締結直後に建てられました。


標石の裏側 

標石の裏側はロシア語です。


国境の標石と国境警察隊員  (ウィキペディアより)国境の標石と国境警察隊員。



  1913
年から1939年まで南樺太には日本軍は常駐しておらず、国境警察隊員が警備を担当していました。


ニシン漁の漁業部  昭和15年、ニシン漁の漁業部が取引先に配布したもの。「樺太真岡部多蘭泊」という地名入り。「TEL」とあるが、この時代電話は大規模な組織にしか置いていなかった。

 


日本統治時代、南樺太では最大で約41万人(1940年、昭和15年)の日本人が居住していました。


高等女学校の制服  戦時中の高等女学校の制服。


 

1945(昭和20)年89日、日ソ中立条約を破り、ソ連が対日参戦を開始。811日、ソ連は樺太占領を目指し、南樺太の日本領へ進攻してきました。

 

 815日、日本はポツダム宣言によって無条件降伏を受け入れましたが、ソ連軍の進撃は止まりませんでした。南樺太では日ソ両軍の交戦が続き、823日、ようやく日本軍の主要部隊との停戦が成立しました。


日本軍の鉄かぶと  日本軍の鉄かぶと、副食皿、飯ごう、水筒、千人針


 樺太戦での日本軍の戦死者・行方不明者は7002,000名。捕虜となった日本兵約18,000人のほとんどはシベリアへ抑留されました。

 

 戦闘の際に、南樺太の居留民40万人以上のうち、約10万人が北海道方面へ緊急疎開しました。しかし疎開途中、避難船三隻がソ連の潜水艦によって撃沈され、約1,700名が死亡しました。これは「三船殉難事件」と呼ばれています。


「戦時下の樺太」 

  また南樺太の戦闘地では、約2,000人の民間人がソ連の攻撃により犠牲となっています。


電話交換手 

 真岡(まおか)郵便局には当時、女性電話交換手が9人勤めていました。彼女らはソ連軍の侵攻直前まで任務を継続し、最後に青酸カリで自決しました。

  この話は「樺太
1945年夏 氷雪の門」(1974
年)という映画の題材にもなっています。


真岡郵便局電話交換室  「真岡郵便局電話交換室」

 

 展示物の解説より。「真岡郵便局の電話交換手たちは、通信を確保するという責任感から、局舎から退避せず、上陸してきたソ連軍の攻撃が身近に迫ったのを知っても職場を守り続け、自ら服毒して死に就いた」。

 

 ソ連軍は第一線には囚人部隊を配置しており、その残虐行為はすさまじく、阿鼻叫喚地獄だったと言われますからね・・・。


赤れんが北方領土館 

  同庁別室には「赤れんが北方領土館」というコーナーもあります。


北方領土のPR 

  時間がなくてよく見られませんでしたが、北方領土のPRに力が入っています。


 

道庁の前に「粘り抜く 熱意と対話で 四島返還」のスローガン。東京などと比べると、活動にかなり温度差があることを感じました。