聖書の言葉で、「たとえ山を動かすような信仰があったとしても愛がなければ意味がない」というものがある。この聖句の意味は、人が人生のうちで何かしらの選択や仕事をするとき、愛が動機でなければそれはほとんど何の利益にもならないという意味だ。
この間までペットにハムスターを飼っていたのだけど、引っ越し先でペットが多分飼えないので野に放つことにした。無責任なのはわかっているが、そうするより仕方なかった。
ペットとして大事に飼っていたつもりなのだけど、結局最後まで自分に懐くことはなかった。それどころか噛み癖がついてしまい、手を伸ばせば噛みついてくるのでほとんど触ることさえできなかった。うっかり手袋をしないで手を伸ばし、噛まれて血が出たこともあった。
なぜこういう結果になってしまったのかを今更ながら反省するとすれば、それは愛が自分に足りなかったのだと反省している。そもそもペットの選び方からして間違っていた。ホームセンターのペットコーナーの隅に、売れ残りのハムスターのケージを見つけたのが間違いの始まりだった。売れ残りのペットの悲惨な末路は知っていたので、それなら自分が救ってやろうというアホみたいな動機だった。決してそのペットを愛していたから選んだのではないというところに間違いがあったのだと今更ながら思っている。
仕事でもパートナー選びでも友達でも買い物でも同じだ。自分から愛しているのではなく、ペットとして選んでやれば子のハムスターは自分を愛するだろうなんて考えが全く自分の中になかったとは言い切れない?(無いか(^^;))愛とは何かといえば、それは関心を持つということだ。恋愛でも、女の子がこの人は自分を愛してくれるからという理由で自分からは関心のない相手と付き合って後悔しているのと同じことだ。何も得るものがない。また、関心の持てない仕事を選んでしまった男も同じだ。仕事を通して得る充実感を感じられないのなら、それは男として無意味な人生を送っているのと同じだ。
愛しているから…という純粋な動機でなければ、望む結果を得ることはできないということだ。