〈登登曲〉情報 | 韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

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想像と創造だらけの翻訳
(注意: 目標はネタバレ100%)
近頃はメモ付き写真アルバムとしても使用中。

(追記:テドンゲ(大同契)、キル・サムボン(吉三峰)、チョン・ヨリプ(鄭汝立)、文禄の役について一番下に追加)

 

新作創作ミュージカルの〈登登曲〉(トゥントゥンコク)はタイトルの言いにくさそのままに、背景を説明する言葉も「何じゃそりゃ?」で溢れている。

 

「キチュクサファ」を日本語(漢字)にした「己丑士禍」だって、日本語とは思えない 滝汗。「士禍(しか)」が粛清を意味して、その頭に事変の起きた年の十干・十二支を付ける仕組み。

 

なので「なんとかサファ」が歴史上いっぱいあるのだけど、ここでは「つちのとうし」の年に起きた事件が背景となっている。(要らない情報?)事件の概要は1番下に。

 

作品の印象として、例えるなら「朝鮮時代のミュージックバンク」という書き込みを見た。特に音楽が良いらしい。

 

 

 

【キャスト紹介】
 
キム・ヨンウン
「この席にみんな集まったから、これがどうして嬉しくなかろうか?」
複雑でめまぐるしい世界で、ただ遊ぶのを好む等々会の首長で、礼曹判書キム・オンシンの息子。気の合うソンビたちを集めて登登会を組織し、日を合わせて等々曲を踊りながら遊ぶ遊び人かつ登登会議の長兄だ。
「登登会」はヨンウンが自ら命名した。
 
 
 
チェ・ユン
「ソンビはソンビ以前に人だから人らしくなければならない」

朝鮮建国以来最高の天才、右議政チェ・ギチョムの長男で、あだ名は「七歩成詩」だ。(どんな主題を投げても7歩を歩く間に詩を完成させるという意味)

天才的な頭と秀麗な外見を持つ、厭世的な性格の持ち主。
 
 
チョ
「どうして奴婢と友達になろうとなさるんですか?」

文才に優れたヨンウンの聡明な下男。

ヨンウンの家系で長い間下男として働いている。他の下男とは異なり文章をよく知って時調を詠む才能がある。等々会員の中でヨンウンとチェユンが一番可愛がっている。

 
 
 
チャン・ジンミョン
「このめまぐるしい世界、遠く離れて眺めていたかった」

己丑士禍(キチュクサファ)の中心に立っていたジョンチョルの息子として、深い罪悪感に苦しむ等々会の最年少。左議政ジョンチョルの三男。等々会のすべてのメンバーが好きで従うが、その中でもヨンウンを一番信じて従う。己丑士禍(キチュクサファ)に対する深い罪悪感でトラウマを持ち、それを忘れるために酒と女、風流に執着する。

 
 
 
イ・ギョンシン
「この時代に私の名を固く、私を刻もう」

領議政の息子として立身揚名を夢見るが、いつもチェユンに押される2番手。領議政イ・チャンの息子で、名門家の子弟で幼い頃から同門修学だったチェユンに、風流や学識で一度も勝ったことがないから、心の奥深くに2番手としての深い劣等感を持っている。

 

 
 
【用語説明】
登登曲
1590年から1592年初頭に至るまで、漢陽では「登登曲」という変な踊りを踊りながら夢中で遊ぶのが大きく流行した。
 
主に裕福な家の子弟たち数百人が集まって愚かしい振る舞いをし、狂人のように騒ぐことだったが、
 
「人が人らしくないね」
「一度死んだら何の役にも立たないから、今酔っ払ってお腹いっぱいなのが一番だ」
 
などと言いながら、奇怪なお化けや鬼の仮面をかぶって、異様な服を着て狂ったように踊るのだった。
 
有名なソンビと名門家の子弟たちがこの逸脱を楽しんだと知られているが、当時激しい党争で虚しさを感じた両班たちが逸脱を繰り広げただとか、壬辰倭乱直前の滅びの兆しを象徴するというような解釈もある。
(燃藜室記述より)
 

 

 

東人/西人
1575年、朝鮮の詞林(ソンビ)勢力が吏曹銓郞(正郎/正5品と佐郎/正6品)の座を置いて、新進勢力のキム・ヒョウォンと既成勢力のシム・ギョムを擁護する2つの勢力に分かれた。
 
キム・ヒョウォンの家が漢陽の東側にあって東人(トンイン)、シム・ギョムの家が漢陽の西側にあって西人(ソイン)と呼んだ。
 
それ以前は朋党政治を禁じたが、宣祖の時に初めて朋党政治を黙認した。
 
 
己丑士禍/(己丑獄時)
キチュクサファ。1589年(宣祖22年)鄭汝立(チョン・ヨリプ)が反乱を企んでいるという報告から始まる。
 
1591年まで彼と関わった千人余りの東人たちが犠牲になった事件だ。
 
西人ジョンチョルの主導で多くの東人たちと彼らの家族が滅ぼされ、以後東人は没落して西人が政局を主導することになる。
 
 

 

大同契

(テドンゲ)宣祖の憎しみを買ったチョン·ヨリプが官職から追い出された後、勇敢で力のある者たちと奴婢を集めて全羅道地域で組織した契だ。1587年、全州府尹ナム・オンギョン(南彦経)の要請で侵入した倭寇を撃退して名声を高めたが、これを契機に大同契の組織を全国に拡大した。 しかし1589年、大同契が謀反を計画したという報告が朝廷に受理され、チョン·ヨリプは逃げようとして自殺し、残りの一味も捕まって死んだが、首魁として知られた吉三峰は捕えられなかった。

 
 

 

キル・サムボン(吉三峰)

実際に色々な歴史書に記録された人物で、正体は明らかになっていないが、宣祖時代に全羅道一帯で活動した盗賊であり反乱首魁として記録されている。

 

1589年、チャン・ヨリプ謀反事件の主導者として名指しされたが、最後まで捕えることはできず、その実体を確認することはできなかった。己丑士禍当時、吉三峰に追い込まれのもとに集まった数多くの東人ソンビが殺されたと伝えられている。

 

数十年前に天安の吉三峰という者が勇猛に優れ、一日に300~400里を歩き回ったが、そのまま凶暴な盗賊になった。官軍が常に逮捕するために襲撃したが、その度に脱走したため、名前が国内に広まった。

 -宣祖修正実録23巻、宣祖22年10月1日-

 

 
 
チョン・ヨリプ(鄭汝立)1546~1589
朝鮮時代の人物の中で最も鋭い(先鋭)議論の中心に立っている一人である。そうなった核心的な原因は、彼が朝鮮時代の党争の中心的事件である己丑獄事(1589、宣祖22年)を呼び起こした張本人だったが、様々な疑問を残したまま死亡したという事実だろう。その結果、己丑獄事は朝鮮時代からこれまで、操作と真実の両論が激しく対抗している。
 
 
イムジンウェラン(壬辰倭乱)

日本で言う「文禄の役」のこと。

明の征服をくわだてた豊臣秀吉は朝鮮に対して、日本に服従し、日本軍を明まで案内し、ともに明と戦うよう申し入れた。

しかし,朝鮮はこれを拒否したため、1592年に秀吉は朝鮮に出兵した。