[演出ノート] 〈ヴァージニア・ウルフ〉揺れる波に沿って | 韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

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〈浪漫別曲〉は自信を持ってお勧めできる作品だが、〈ヴァージニア・ウルフ〉は躊躇してしまう作品だ。はっきり言って分かりにくい。しかし末息子も可愛いユン・ウノ君も出ているので、次回の2回目はもっと楽しめるよう、なんとか勉強して行かねばならない!

 

(6/12追記:2回目観覧は下調べの成果で大変楽しめたのみならず、含みのあるストーリー、美しい舞台、中毒性のあるナンバー、心地良い歌声の俳優たちの魅力に取り憑かれ、一転してリピート作品に昇格したことをご報告しておきたい。)

 

元記事

 

ミュージカル〈ヴァージニア・ウルフ〉は、20世紀に活躍したイギリス作家ヴァージニア・ウルフの人生に「小説の中の世界で人生を続ける人々の話」という想像力を加えた創作ミュージカルだ。本人が創作した小説の中の世界に入り込んだ後、元の世界に戻るために小説の完成が必要な”アデリン・ヴァージニア・スティーブン”と、アデリンの小説の中の人物で、アデリンに会った後、自分の人生を変える機会を夢見る”ジョシュア・ウォーレン・スミス”の二人が登場する二人劇だ。  

 

〈ザ・ラストマン〉のキム・ジシク作家が原案を、クォン・スンヨン作曲家が台本および音楽作業を担当した。〈レミゼラブル〉〈ウィキッド〉〈オペラの幽霊〉など、有名ミュージカルの国内演出を引き受けたホン・スンヒ演出家が作品を導いた。今回の〈バージニア・ウルフ〉初演はステージセットを積極的に活用して空間を表現し、感覚的な照明演出で観客の没入を助けるのが特徴だ。ホン・スンヒ演出家の演出ノートを一緒に広げてみよう。

 

 

初めてこの作品をすることにした後、クォン・スンヨン劇作/作曲家と最初のミーティングを夜明け3時までしたその日を覚えています。クォン作家に会うとすぐに尋ねました。「なぜこの作品を書いたのか?この作品を通して何を言いたいか?」答えはこうでした。「ヴァージニア・ウルフは彼女の文学の成果も有名だが、常に自殺、精神病などの修飾語がラベルのようについてくる。彼女の自殺が精神病のためではなく、完全な自分自身を守るための選択だったことを示したかった。」

 

彼女の伝記を扱ったり文学を扱った話でなくてよかったです。ありふれていないから。でも彼女の死、彼女の選択、完全な自分を保つ… 。最初はかなり難しかったです。ところが、この作品のために彼女の作品を読んで、調べて勉強してみると、私もバージニア・ウルフのファンになってしまいました。そうやってこの作品が始まりました。

 

この作品に初めて触れて思ったのは「水」と「本」でした。ページをめくるのがまるで波のようだと感じました。自分が書いた小説の中に入り込んだ一人の女性。その人は再びその本(波)に乗って帰ることができるだろうか?彼女はなぜここに来たのか?なぜ「ジョシュア」という人物に出会ったのか?こうした質問から演出と物語を読み解こうと思いました。

 

アデリンはジョシュアを通して、ジョシュアはアデリンを通して彼らの人生を見つける物語に焦点を当てました。ページのように一場面、一場面めくって見る楽しみがあって欲しいと作りました。この作品は、小説の中、現実、虚構、実在、さまざまな解釈の可能性が開かれています。時間の順序に従わなかったシーンもあります。感情線と物語の展開が「意識の流れ技法」のように分離されて見えますが、場面の一つ一つをつなげてみると理解できて興味深いことでしょう。

 

 

Prologue; ターニングページ (ページをめくる)

ステージセットが本のページだと考えてみました。セットが開いて閉じながら新しい話が広がり、止まることもあります。そしてその中で起こるストーリーがあります。その中の世界は水に濡れているような感じで表現したかったです。(もともとは水が数か所で濡れているのを表現したかったのですが、デザイン的に今は舞台のふちだけにそのような要素があります。)舞台は複数の世界を描き、場所を分けるためにいくつかのレベルに区分されています。

 

バイオリンの音楽とともに映像で「バージニア 1941年3月28日 行方不明に」という新聞記事が見えます。本のページが一枚一枚めくられて雨滴が去ると、水の波動とともにシーンはロンドンの通りに変わります。そのように作品は始まります。

 

アデリンは自分が書いた小説『ダロウェイ夫人』の本の中の世界に入り込み、ジョシュアという青年に発見されます。この時、アデリンはまるで本棚の間に「ピョン」と現れるように、波(水)の映像とともにセットの間に登場します。1章から5章までは、アデリンがジョシュアに会って新しい小説を書くことになる話が繰り広げられます。アデリンとジョシュアのキャラクターを見せながら、完全に二人のドラマと関係に集中し、小説の中であることを見せるのに力を注ぎました。アデリンは自分の世界に戻るために文を書き直すことにし、ジョシュアはアデリンに自分の人生を幸せに変えて欲しいと頼みます。

 

 

第6章M08 混乱

小説の中の世界、自分が書いた世界が現実と同じように存在するのが不思議で嬉しかったアデリン。しかし、ロンドン市内で偶然発見したダロウェイ夫人の葬儀で、彼女の惨めな最後を聞きます。アデリンが書いた小説の中で、ダロウェイ夫人に幸せな結末を迎えさせたのに、小説の後のダロウェイ夫人の人生が非常に不幸だったことを知ったのです。アデリンは自分が持っていた否定的な考えが、依然としてこの小説世界に影響を与え、投影されていることに衝撃を受けます。

 

同時に作家が夢であるジョシュアはロンドンマガジンに自分の文章が選ばれ、膨らむ心で編集長に会いに行きます。しかし、編集長の話を聞いて混乱し始めます。ジョシュアは、これまで自分が書いた文が自分以外の人が書いたような考えにとらわれていましたが、決定的に、自分が選ばれたのが内定者の事故によるものだという編集長の言葉に混乱が増し加わります。自分が望んでいた機会だし、アデリン(この世界の作者)に自分の人生を変えてもらうように頼んだのも自分自身ですが、果たしてこれが望んでいたことなのか?舞台ではセットのレベルを使って、この二人が感じる混乱した世界を表現しました。

 

 

第8章M09 告解

ヴァージニア・ウルフが無神論者であるという情報は、私たちが調べれば分かる内容です。ところで「なぜ彼女が無神論者になったのか」という質問から、仮想の内容でこのシーンを作りました。3番ナンバー「文と私」、そして5章に出てくるトラウマシーンで窓をよく見ると、十字架を連想させるフレームがあります。その十字架が今度は彼女に押し迫ります。本を思わせるセットの後ろから来る照明。その光で作られた白色の十字架が割れる音とともに、徐々に血の光を思わせる赤色に変わることによって、神に向けた彼女の憎しみを見せようとしました。

 

遠くから聞こえる神の声と、神に逆らいながら泣き叫ぶアデリン。このシーンを作る時、映画『ドラキュラ』が思い出されました。神にすべてを捧げ、戦争に出て戦い勝つが、妻が死を迎えると、神の裏切りを感じたドラキュラ伯爵が十字架に剣を刺し、神に反抗する内容が込められた作品です。ドラキュラ伯爵に血を浴びせられ吸血鬼になる場面が浮かびました。このシーンは、アデリンの悪夢と見なすことができます。悪夢から抜け出す時、ジョシュアが登場し彼女を抱きしめます。

 

 

第9章M10 セントアイブスの夏

セントアイブスは、ヴァージニア・ウルフが家族と毎年夏に遊びに行った場所であり、彼女が最も幸せだった場所です。実は『ダロウェイ夫人』の小説の中だから、セントアイブスという空間があってはなりませんが、ここが存在する理由は、アデリンの肯定的な面が残っていることを見せたかったからです。

 

この場面は映像に念を入れて平和な村の夕日、そして夜景を表現しました。〈ヴァージニアウルフ〉の映像には多くの色を使用していません。セピア系か白黒がほとんどです。しかしこのシーンには比較的多彩な色味を使用しました。美しい夕日と海が落ちる直前、巧妙な色彩、高い崖から見た美しく平和な村の姿が広がります。これを見て、アデリンは慰めを感じると同時に、幼い頃の海岸で遊んだ時を思い浮かべながら悟ります。否定的であれ肯定的であれ、すべてがすべて自分自身であることを。

 

 

第13章M15 私の物語の終わりは

公演中一部のシーンでビッグベンの鐘の音が聞こえます。ヴァージニア・ウルフがこの世を去った日の3月28日を象徴するために、シーンごとに3回、2回または8回の鐘が鳴ります。劇の重要な部分では、ビッグベンの鐘をシーンを切り替えるために使用しました。

 

このシーンは、彼女が死を選択したことを思い出し、戻る時が来たことを知らせます。ヴァージニア・ウルフの物語を扱った映画『めぐりあう時間たち』で、ニコール・キッドマン(ヴァージニア・ウルフ役)が水の中に入ったその川沿いが、私にとってはとても平和に見えました。その平和を表現したかったです。アデリンは空虚だった本を完成させ、その空虚な本を埋める間、彼女はすべてを受け入れ、今は悟りを開いて進む時間です。私たちの人生を整理する時間、そして悟る時間。「この結末が最高でなくても大丈夫。私が選んだ私の結末。」ピリオドもカンマも彼女の意志通りに選んだ人生。本の間から入ってきた彼女は、再び本の間から忽然と消えます。