① 9/30はこちら。最終的には、舞台5回+中継1回の計6回観覧。
② 10/29
開幕前、空っぽの黒い舞台に流れる音楽。普通は始まる前のウキウキ、じゃないにしても何か期待感を高めてくれるものだけど、〈燃ゆ〉の場合は葬送曲みたいで重い。
(そして劇場を去る時、ストーリーから受ける幸福感の片鱗もないのが辛い。まあ〈少年A〉もそうだったけど。)
〈ザテイル〉の刷り込みでジョンウォン(バイロン)はスンアン(ジョン)より強いはずという先入観がある。逆の力関係が新鮮だ。
前回同様、予定調和が崩れるのを厭うフアナからは偽善の香り。(相変わらず可愛い声のジェアちゃん)
原作は日常に変数が投入されて変容する人間を描く作家だそうで、その意味ではフアナの変容もなかなか見応えあって面白い。
現実にはフタをして自分さえも騙すカルロス。外の世界では杖が必須、適応するのは難しいと言うくせに、そこは自分のための世界ではない、学校こそが自分の世界と歌う。
生徒たちは自由に動き回っているように見えるが「決まった道を通れば」安全なだけ。だから杖を使って「自由に」道から外れたイグナシオを探せずに、ひどくオロオロしているんだな。
カルロスは自分が無力なのを実は知っているから自分を騙して学校だけを見る。イグナシオの椅子をきっかけに、そこに目を向けざるを得なくなって崩れていく感じ。自分の内部の崩壊と戦ってる感じ。
カルロスが現実を受け入れて内部崩壊を許せば、何か新しい彼の自我?秩序?が生まれたかもしれない…
…のに、フアナが「何も変わっていない」とか言って煽るから、カルロスが崩れかけた破片を無理にくっつけて「君のために僕の場所を取り戻す!」なんて変に頑張っちゃう。
そもそもイグナシオを引き留めたのも自分の予定調和を守るためだったし、フアナって悪女じゃないか?フアナめ! (私見です)
前回から思ってたけど、変わり身の早いミゲリンて大衆を象徴してるんじゃないか?まあ、他の子もそうか。
イエスに付き従っていた大衆も、大部分は流行が冷めて離れていって、今度は批判する側になるんだけど。
カルロスが笑ったのは、生徒たちが他人事のように事件の原因を推測し始めてからだった。イグナシオに付き従っていたくせに、自分たちは違う側にいるかのように。イグナシオを理解しているかのように。
ローマ総督はイエスを無罪にしたがユダヤ教聖職者が納得せずうるさいので、私はこの件とは無関係、とイエスを引き渡す。それでイエスは冤罪で死刑になる。
ペヒータはイグナシオ(イエス)を排除したいので、同族のカルロス(ユダヤ人)を利用する。
本当はイエスを放免したかったローマ総督と、ペピータはそこが違う。
とにかく、話が難しくて脳力が足りない。それか、難しく考え過ぎ。
③ 11/1
おおーっ!違うぞ!面白いぞ!
ヒジュン君は普通の明るい学生ぽくて、まるッと騙されてる感がある。だからフアナも同じくで、悪女っぽくない。
初じぇほイグナシオ。〈悪い磁石〉で雰囲気のある演技をする人だと思ったが、歌も上手いのね。
カルロスがミゲリンを殴る騒ぎを、ペピータが登場して収拾をつける場面。生徒たちの服装を直していく彼女がミゲリンにボタンをするよう促す。しかし従わない彼をペピータが凄い目で睨みつけていて怖い!ミゲリンは見えないので何とも思っていないけど。
ペピータが客席に視線を走らせながら歌う時、怖いからこっち見ないで!と思う。ヘウォン・ペピータは本当に怖い。
④ 11/4
(地方遠征の疲れが…)
「暗闇は眠いを誘い熱唱を聴くそっと目を閉じ」 (心の一句)
単純に演出的に違和感なのは、みんながワイワイ言ってる中で、ミゲリンが椅子の上に立ち上がって発言する所。それって視線を集めるには効果的だと思うけど。声の通りも良くなるのかな?別方向から聞こえるからそうなのかもしれないか。
ジェア・フアナは揺らぐ自分への戸惑いが大きく見える。闇とまでは言えないかもだけど、自分の望まない姿への拒否感に苦しんでる感じがする。いい子ゆえの苦しみかな。(偽善者説は縮小傾向)
アルベルト役がスイングなのかな?キム・ドンジュン君だった。アンドレスに「背が縮んだ?」っていじられていた。
⑤ 11/26
通りすがりに手すりの上を撫でて汚れていないのを確認するペピータ。椅子の位置が数センチずれていても見逃さない。埃一つ無く、全てがキッチリあるべき場所にある世界で、乱闘なんてあってはならない事でしょうね。秩序の化身ペピータ。
黒い舞台を横切る直線の照明は、秩序の白、カルロスの青、イグナシオの緑。1幕は緑が優勢になっても、発言者が変わるとすぐに青とか白に戻って勢力の拮抗が分かりやすい。
2幕になると、どんなにペピータやカルロスが声を上げても緑の輝きが光度を失わない。
勿論、照明の変化が終始そんな単純ではないけれど、「ボタン職人です」の後はカルロスが水色っぽくなってるのが青+白だから?なんて想像してしまう。
突然だが、大声を出して本性をさらけ出すフアナが好き。
カルロスが自分に話かけてるのに、どう思うイグナシオ?とかわす時、「お前卑怯だなミゲリン」といつも思う。
学校を元に戻すためにイグナシオを排除したのなら、その後渇望に囚われるカルロスの変化はなに?なぜ?
他の生徒たちの反応のせい?フアナの最後の反応?元々あった渇望を最後まで抑え込むのに失敗した?話が難しくて脳力が足りない。(再び)
最後に姿を見せるイグナシオが復活したイエスを思い出させたので、ふと思ったけど、
イエスの死後キリスト教徒狩りに精を出していたサウロが視力を失ってイエスに語りかけられて、信仰に目覚めてパウロとして熱烈な追随者になった…
なんてのと…カルロスの最後と…
関係ないか
なくもないようなきもしなくはないような
ジョンウォン君のマッコン挨拶にまたまた脳が忙しい。分かるような、分からないような。
「視覚より視線が重要だと思わされた」
何が見えるかより、どう見るかが重要だってことかな?なにかちょっと共感できる要素を含んでいる気がする。
↑私がスマホで撮った写真。
↓ツイ友さんが立派なカメラで撮った写真。いただきました。
⑥ 10/30 中継
ミュージカルは原作とは似て非なる作品のような気がした。冒頭、外の世界の話をするのがミゲリンではなくカルロスに変わっていたり、同じようなピースを使って違う絵を描いたジグゾーパズルみたい。
でも、出口のないストーリー。根本的にストーリーに寄り添えない何かがある。
体制批判の比喩として見ると難しすぎて楽しめないし、登場人物を素直に生身の人間として考えられなくなる。
登場人物が置かれた状況、心情がそのままの物語だとすると、まやかしっぽい学校側にも共感できないし、イグナシオの気持ちにも共感できない。こういう描き方はもしかすると障害のある皆さんに失礼なんじゃないかという気もする。
直接的な障害であれ、象徴的な不幸であれ、変えられないことに集中するのは違うと思うし、世界は変えられない。変えられるのは自分自身だけ。
勿論、時代背景や文化的な違いによって障害者の生きづらさは千差万別なので断定はできない。綺麗ごとでは済まない現実もあるかもしれない。でも当面はできる事に集中するしかないし、それがベストじゃないだろうか?奇跡を待つ希望があっても良いと思う。希望を持つことと、毎日を現実的に生きる事の2本立てにすればいい。
ストーリーには共感できないんだけど、俳優さんたちは凄いし、音楽も超好きだし、あのシンプルな舞台が全然シンプルに見えないのも凄い。見ている間中、緊迫感に包まれる見応えのある作品だった。