〈ザ・テイル〉韓国ファンのマニア的解釈(後編) | 韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

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自分の予習復習用につき、かなりの偏りあり
(注意: 目標はネタバレ100%)
メモ付き写真アルバムとしても使用中。

(前回の続き。)


それで後半に「ルースベン」として自らを明らかにする部分、「心臓が止まりそうな〜」と歌いながら「君だけに生きている私」に移る部分も、

 

実は本当にルースベンが出たわけではないと思う。

 

ただポリドリがその役割を「バイロン」ではなく「ルースベン」と認識することにした時点を表示するのだ。ルースベンが隠してきた正体をジャーン!と見せるのが表面的な構成だけど、そうとだけ理解すると、この劇の核心を逃すのかもしれない。

 

つまり、変わったのはバイロンではなくジョンの方で、そういう交差を見せてくれるナンバーだ。ただポリドリの頭の中で、この時から「バイロン」を「ルースベン」として受け入れることにしたのだ。

 

じゃあ何でそんなことをするのか?

 

なぜルースベンとして受け入れたのか?

 

とりあえずバイロンがルースベンに変わるその場面を考えた時、何がその変化を触発したのか考えなければならない。

 

まさに「イアンテは僕だ」というセリフ。

 

ポリドリの告白が口から出た瞬間、劇中の全ての構図はひっくり返る。その時からポリドリはこれ以上相手をバイロンとして見る必要がなくなるからだ。「イアンテは僕だ」というセリフはポリドリの罪悪感が凝縮されたセリフである。その罪悪感が根源となったバイロンの圧迫の末に打ち明けることで、あれだけ解放されたかった現実の足枷を解いてしまったのだ。もうジョンは完全に非現実の世界に陥る。

 

そしてそこでルースベンと向き合う。バイロン(実は「ポ視バイロン」)は「イアンテは僕だ」というセリフが出た瞬間、すでに役割を尽くしたのだ。これ以上隠すこともなく、全てを肩から下ろしたポリドリの目の前に見える相手はルースベンでなければならなかった。そうすれば自分に救いの希望がある。なぜなら、ポリドリにとってルースベンは「自分を愛してくれるバイロン」であり、同時に「自分を愛してくれる自分」だからだ。

 

だから、ルースベンは決して完全にバイロンにはなれない。ルースベンの外見はバイロンだが、その中にはポリドリ自身の意志が投影されたことはすでに確認した。とにかくルースベンはポリドリが「魂を燃やしながら」創作した人物だからだ。

 

だから、ルースベンという存在にバイロンとポリドリ、両方の存在が見られるということを覚えておくべきだ。そういう意味で、前半で「彼は美しく歩く」だったナンバーのタイトルが、後半部のルースベンとのデュエットでは「私たちは美しく歩く」になるのだ。

 

現実に歩くのは「彼」だけでも、想像の中の非現実で「私たち」になる。だから(「イアンテは僕だ」以前は)バイロンは完全な「他己」、自分が絶対に持てない「彼」だった。しかし、その後に登場するルースベンは、初めて自分と一緒にいられる存在という点で「私たち」なのだ。

 

ルースベンという存在が自分の欲望で生まれたことを認めることで、ポリドリはその欲望を実現する自由を初めて享受することができる。実際に「私たちは美しく歩く」を歌う間だけは、本当にバイロンが自分を愛しているような、また自分も自分を愛しているような気分に陥っているから。ルースベンの中にあるバイロンと自分の和合を想像でも経験するのだ。

 

しかし、その「私たち」、つまりルースベンとイアンテは決して結ばれない者たちだ。結局、イアンテを殺すのはルースベンだから...ᅲᅲ

 


 

VER 1.

 

私の肩にカシミールの蝶

輝く翼を畳んで、私にささやく

あなたのは 私の墓

あなたのは 私の墓

 


VER 2.
 
私の肩にカシミールの蝶
輝く翼を畳んで、君にささやく

あなたのは 私の墓

あなたのは 私の墓

 

今度はジョンの真の正体を明らかにしてくれる「カシミールの蝶Rep.」を分析してみる。

 

実は私の聞き取り間違いのせいで生まれた2つのバージョン...でも十分に意味のある比較だと思う。

 

2つのバージョンの違いは「あなたの体は 私の墓」というこの象徴的フレーズで、「あなた」と「私」が誰なのかという事だ。それぞれを誰に設定するかによって2つの解釈が可能だ。そしてジョンVSオーブリー、バイロンVSルースベンの中で誰だと思うかによっても解釈がまた2つに分かれる。

 

VER 1.「私にささやく」

解釈1。蝶(イアンテ)がジョンにささやく。ジョンの体は蝶(イアンテ)の墓。

解釈2。蝶(イアンテ)がオーブリーにささやく。オーブリーの体は蝶(イアンテ)の墓。

 

VER 2.「君にささやく」

解釈3。蝶(ジョン)がバイロンにささやく。バイロンの体は蝶(ジョン)の墓。

解釈4。蝶(イアンテ)がルスベンにささやく。ルースベンの体は蝶(イアンテ)の墓。

 

実は最初は4番だと思った。最も直感的に(1)イアンテになったジョンが相手を見つめながらの歌だから「あなた」がルースベンだろうと思ったし(2)小説の中でルースベンがイアンテを殺すからイアンテの墓...

 

でも考えれば考えるほど妥当なのは1、2番だと思う。もう少し正確に言うと1番。

 

なぜならここで[ジョン=作家としてのジョン]、[オーブリー=現実の中のジョンを表したキャラクター]とした時、この歌を歌っているのは『ヴァンパイア・テイル』の主人公ではなく、ザ・テイルの主人公のジョンだから。しかもオーブリーは作家としてのジョンの欲望を排除した「表面」のジョンだから、「裏面」のジョンであるイアンテは、オーブリーではなくジョンと疎通するのがより正しいだろう。

 

+) 小説に登場する3人の人物の中で、ルースベンは表面的にバイロンを象徴するが、とにかく裏面的な部分までも凝縮されて一つのキャラクターとして存在しているのに対して、ジョンを象徴するキャラクターは徹底的に分離していることからして、あまりにも...完全な表面vs裏面、現実vs非現実の乖離を構造的に捉えていて、ポリドリの悲哀が感じられるᅲᅲ

 

そういうことで、1番を中心に解釈をしてみようと思う。そのためには、とりあえず蝶の死が何を意味するのかから説明する必要がある。

 

蝶はイアンテを象徴するけど、それ自体がイアンテというよりはイアンテの存在を観念的に見せてくれると思った方がいいと思う。

 

蝶、美しい生命体だ。

何度も驚異的に姿を変える。

以前の肉体から脱し、新しくより自由な体に変わるのは

神の祝福だろうな。

(ジョージ・ゴードン・バイロン)

 


 

そのため、この蝶がいつ死ぬかというと、現実と触れ合う時に死ぬ。観念の存在だから。

 

そしてその「現実」は「体」または「肉体」というキーワードに還元される。蝶は肉体から抜け出しながら誕生し、再び肉化したら死ぬ。逆に言うと、現実から抜け出しながら誕生して、また現実に戻ったら死ぬ。このようにザ・テイルは「メタモルフォーゼ」と呼ばれる蝶の生態的転換を隠喩として美しく使っている。

 

それでジョンは小説を創作しながらイアンテとして「以前の肉体を抜け出して、より新しく、自由になった体になる」が、絶え間ない葛藤の中「墓」に近づいた。自我の誕生と死を繰り返し反復してきたポリドリは結局、イアンテとしてルースベンとの夢のような瞬間をしばらく楽しんだが、蝶の死で話を終わらせる。

 

そしてやがて彼自身も自殺してしまう。結局、蝶の墓は現実だったし、皮肉なことに、それは結局現実のジョンさえ消えさせた。どうせ現実のジョンは蝶になることを渇望していたろうから。

 

「カシミールの蝶Rep.」でイアンテは(やはり実はポリドリだけど口を借りた)作家のジョンに「あなたが私を殺した」と恨む。特にあなたの「体」が私を殺したという表現は、なおさら現実の肉体を持ったジョンが自分の存在を必死に否定しようとしたことを言っているのだ。自由を抑えたまま自分の欲望に逆らうジョンを、蝶は叱責(ある意味、結局ジョン自ら叱責)している。

 

これからすると、イアンテの誕生と死についてポリドリ自身も深く葛藤してきたようだ。でも、蝶の叱責に悟りを得たジョンは、結局勇気を出してイアンテの存在を認めて、一瞬でも受け入れたのだ。

 

しかし、さっきも言ったように、結末はジョンの味方ではなかった。究極的にポリドリは現実を受け入れることも、だからといって現実を克服することもできなかった。

 


 

ルースベン:光だ!(中略)こうやって夜明けの光が闇を押し込んでくる時は、

君がいるそこにもっと泊まりたくなるんだよ。

(中略)彼は知らない、夜の湖があなただったことを。

 

ジョン:(中略)そう、もしかしたらこれは永遠の夜。

 

ルースベン: (中略) 揺れる夜の中を歩きながら。

 


 

1795年、光と共に生まれて

1821年、自ら闇に消えたジョン・ポリドリー

エピローグ 


 

今度は最後のシーン。個人的にはザ・テールで一番名場面はこのエンディングだと思う。本当に胸に込み上げる演出。

 

ここで注目すべきは「光」と「闇」の隠喩だ。これが本当に過没入ポイントなんだけど、

 

まずルースベンをもう一度調べてみたい。

 

印象的だったのは「バイロンに始まり、私の手で作った、今は自分で動く君」という歌詞だ。

 

最初は確かに「私にだけ生きている君」だったのに、これが何を意味するのか?私はこのルースベンの成長が実はジョンの成長を意味すると思う。自分の作ったキャラクターに逃げ場を探して依存していたジョンと、そんなジョンから生まれたルースベン。そのため、ルースベンはもともとポリドリの考えをそのまま反映するキャラクターであるべきだったが、劇中で彼はむしろポリドリの考えを変える役割をする。

 

非現実に耽溺しながらも、それが恐くて出られなかったポリドリに、ルースベンは「夜の湖」が真の「君の姿」であり現実であるという新しい観点を提示し、その夜の湖にポリドリを呼び出した。その点、ルースベンは実はイアンテじゃなくてずっとポリドリを愛していたような気がする。

 

もちろん、これもそもそもポリドリの非常に深い無意識が発現された結果かもしれないが、それはさらに深く入った時の話だ。とにかく基本的に作家としてのポリドリの意図は「ルースベンがイアンテを愛すること」だったからだ。でも、ルースベンはそれを飛び越えて、ジョンが計り知れない範囲で「ポリドリ」を愛したのだ。

 

ポリドリさえできなかったことをルースベンがやったという点で、単に作家の想像に限られた作家に帰属した人物ではないことを認めたのかもしれない。つまり、ザ・テイルでルースベンはポリドリにとって逃げ道だった。それもポリドリが期待していたことをはるかに超える逃げ道。ポリドリがずっと罪悪感に悩まされたのは、自分の無意識の欲望を自ら感じとったからだが、彼が唯一知らなかった(またはあえて望まなかった)深淵の無意識の欲望が、まさに【「イアンテ」を越えて「ポリドリ」自体に向けたルースベンの愛】だったようだ。

 

あ、元々したかった話はこれじゃなかったんだけど、

 

とにかくルースベン➖ジョンの関係がそれだけ切々としているということだ。

 

一番最後のシーンを大抵イアンテとルースベンの愛だと見るが、

 

私はポリドリとルースベンの愛だと見る。そうすれば、ルースベンが意味するものを考えてみた時、主人公のポリドリにも真の人間的成長になるだろうし。自己嫌悪からの脱却というか。もし最後のナンバー「永遠の夜」が本当にイアンテ➖ルスーベンの話だったら、ジョンがそんなに断固として「現実に戻る」とは言えなかっただろう。

 

 

だから<「カシミールの蝶Rep.」が、ジョンからイアンテに誕生する瞬間であるなら、

 

「私たちは美しく歩く」は本当にイアンテとしてルースベンと一緒にいる瞬間だったし、

 

「永遠の夜」は再びジョンに戻る瞬間の中にあった。

 

 

そしてこの3つのナンバーの繋がりから分かるのは、さっき触れた「光」と「闇」、もう少し拡張すると「昼」と「夜」の象徴性だ。

 

一番簡単に考えてみると、ルースベンは「ヴァンパイア」だ。夜だけ活動できるヴァンパイア。

 

そしてジョンが想像の中でルースベンに出会うそこは「夜の湖」だ。「揺れる」という表現も幻覚的な感じを与えるようで...

 

だから「永遠の夜」は各自がイアンテとルスベンとして存在できる闇の空間である。さよならを言うとき、二人を引き離すのは「夢を見る時間」としての「夜」が終わって訪れる夜明けの「光」だ。

 

実際の照明演出を考えてみても...(パク・ジョンウォン俳優のディテールなのかは分からないけど)窓の方から光が入ってくると、その光に触れないためにルースベンが苦労する。だから、光がある側にはジョンが、闇がある側にはルースベンが立つことになる。ポリドリに向かって手を動かしてみても、光のせいでルスベンはついに近づけず、闇に閉じ込められる。こんなに徹底した光と闇、現実と非現実、束縛と自由の分離の中に二人は別れる。

 

ところで、本当に腹が立つのが何だかわかる?

 

こうしておいて、結局ジョンは自殺するってこと...

 

ところが、この時エピローグのコメントが意味深だ。

 

「自ら闇の中に消えたジョン・ポリドリ」

 

もしかして...光の世界に行こうと誓ったけど、結局は耐えられずにルースベンがいる闇の世界に去ってしまったんじゃないかな?

 

劇中でポリドリがモルヒネ中毒という話が出て、この時夜の湖を見たのが出てくるんだけど...

 

実際、ポリドリの死因はうつ病と薬物中毒による服毒自殺だ。

 

それなら、本当にその夜の湖にまた行きたくてモルヒネを服用したような気もする。ルースベンを探しに現実を見捨てて。そこまでしても本当に「永遠の夜」に滞在できるように。

 

これを考えると胸がつぶれる...でもこれも完璧なエンディングではあるから...

 

何でか、実は私、これ書いてたらちょっと涙が出た。

 

早いうちにザ・テイルは再演で責任を取るように。本当にただ劇場に骨を埋めます。

 

その時までお金を貯めておきます...ᅲᅲ

 

 

- さようなら、私のルースベン。

 

- 楽しいエイプリルフールだった。

 

- まるで嘘みたいにね。