〈ザ・テイル〉韓国ファンのマニア的解釈(前編) | 韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

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(注意: 目標はネタバレ100%)
メモ付き写真アルバムとしても使用中。

〈ザ・テイル〉韓国ファンによる、2022年11月に書かれた素晴らしいブログに遭遇した。

 

作品を見たことがなければピンとこないと思う。私だったらそうだ。

 

でも、作品を見て「自分が見たものは何だったのか?!」と考え始めてから読むと、とても面白いはず。

 

人格の境界の曖昧さは感じていたけど、「罪悪感」を考慮したことは無かった。新しい視点だ。興味深い。

 

ただ、これはこの方の解釈であって、全てを鵜呑みにする必要はない。私も違和感を感じるポイントがいくつかある。自分の考えはここが違うと言えるほど具象化するのが大変だけど。

 

https://m.blog.naver.com/rottentaengerines/222940722305

 

以下はスマホの翻訳機能を活用しつつ、手直ししたもの。(長い! まずは前半。)

 

 

  

    

「どうしたら君を愛さずにいられるのか」

〈ザ・テイル:エイプリルフールズ〉

過没入解釈

 

去年の冬に〈ファンレター〉を11回か12回見て、「久しぶりにここまで作品に夢中になるなんて!」と言いつつ「しばらくこんなことはないだろうな!」と豪快に思っていた矢先だった。

 

でも3月末に〈ザ・テール〉に会ってからは12回が何?...(笑)軽く超えてしまった。

 

事実上1学期を捧げたとも言える。

 

なぜなら、この作品のせいでソウル大学中央図書館にある『ヴァンパイア・テイル』の原作はもちろん、バイロンのあらゆる詩集も全部読んで、さらにはある外国の大学のサイトに載っているジョン・ポリドリの日記帳の原文まで、それこそ「探読」した。

 

正直、私が今まで10年以上ミュージカルを見てきて、ここまで愛してやまない作品は〈ザ・テイル〉が唯一だと思う。

 

もしチケットさえ余裕があって(ᅲᅲ)休み期間中の公演だったら、正直全館も可能だったかも...

 

もともと私は1つの作品を7回目見た頃からはそろそろ飽きると感じるけど、ザ・テイルは誓って一度も退屈だと感じたことがない。

 

私がザ・テイルをどれだけ愛して、待ち焦がれているかというと、私の携帯の暗証番号がいまだにザ・テイルのレジョンド日だ...ふふふふ。

 

中途で読んだバイロン詩集。個人的に本当に面白いと思ったのがタイトルが全部〈OOってこと。ふふふふ。例えば、きっとエマにでは、この女じゃないとダメみたいに言っていた人が、まさに次の章で〈ある奥さんにと切実に詩を捧げる具合だ。

 

とにかく!この文章をなぜ書くかというと!

 

ただ本当に〈ザ・テイル〉がすごく見たくて、こうしてまでも一人で過没入するつもりぐすん

 

当時ほとんど「勉強」したかのようにこの作品を見たから、その時の考えをブログに移してみることにした。

 

いや、実はただ...私が好きなポイントを集めておくためっていうのがもっと合うと思う;;

 

〈ザ・テイル〉の歌詞が本当に味わうほど、不思議と人を惑わす、そんな魅力がある。

 


これはきっと夢だろう

これは嘘だろう

ありえない(中略)

 

あの空の太陽は私を照らさず

私はまだ彼の影の中にいるね

 

無頓着な時間はこれほど流れたのに

私はまだ悪夢の中にいるね

(ジョン・ポリドリ)


 

この劇の最初のセリフは他でもない「嘘だ!」である。直後に続くのがこの最初のナンバー。

 

これがなぜ絶妙なのかというと、ザ・テイルを初めて見る人には、歌詞が比喩的に映るが、

 

内容を知って見る人にはあまりにもliteral(逐語的)だということ。

 

「夢」「影」「悪夢」...

 

最初、観客は劇の背景が現実なのか、それともジョンの夢なのか分からない。

 

「太陽が自分を照らさない」という言葉も、ただ「空が私を見捨てた」程度の表現ではない。実はこの言葉は、彼が太陽のない時間、つまり夜中を浮遊していたことを意味する。この内容は最後のナンバーの「永遠の夜」にもつながる。

 

 

したがって、文字通りに、ジョンは「影の中」「悪夢の中」にいたのかもしれない。

 

ジョンがニューマンスリーマガジンの特集号を見て驚いたのは、単にその新聞の内容よりも、(少なくともまだこの時点では)それによって無意識に自我について何か悟ったからだ。もしかしたら、自分の自我は歪んだ現実の時空間の中でだけ、完全な自分として位置することができるということを。

 


赤いろうそくのように魂を燃やしながら

果てしなく人間の自由を追求する者

 

不完全な現実を超える人

(中略)その世界の神

文章で書いた世界の神

(中略)その世界の神

彼が書いた世界の神

 

を超える人間

 

(中略)哀れな肉体を脱ぎ捨てた世界

宿命のような死を超える世界

鎖のような現実を超えたその世界

(ジョージ・ゴードン・バイロン(果たして?)) 


 

(ジョン・ポリドリー)

が禁じたまさにその場所で

傲慢と嘲笑に微笑む君

そこで自由を叫びながら

無情で残酷なペンを振り回すよ

 

(ジョージ・ゴードン・バイロン)

燃える赤いろうそく

私の世界、そんな世界を作って


 

上は劇の序盤に登場するジョージ・ゴードン・バイロンのソロナンバー、下は中後半に登場するポリドリ&バイロンのデュエットナンバーだが、2つのナンバー間の繋がりは確かに存在する。

 

ここで発見しなければならないのは、果たしてどこまでが本当に「バイロン」が言った話であり、またどこまでがポリドリの想像の中の「バイロン」が言った話なのかということだ。もしかしたらバイロンじゃなくて「ルースベン」かも!

 

まず「その世界の神」の場合には、全ての表現が事実上「作家」というキーワードを指している。そしてバイロンはその作家としてのプライドとアイデンティティがすごく強いキャラクターとして描写されるのだが、

 

実は劇全体で見ると、作家としてのアイデンティティが強い人はバイロンではなくポリドリだ。ポリドリの最後のセリフも結局「これは私の話です」と強調しているから。

 

そうだ、これはポリドリの話だった。それなら実は「その世界の神」はバイロンではなく、ポリドリ自身が作家として成し遂げたいことを現すナンバーとして見るのが妥当だろう。

 

『ヴァンパイアテイル』という文章で新しい世界を創造しようとする欲求を持つのは他でもないポリドリだ。自分が作り出した世界で生きるオーブリーとルースベンとイアンテという3人の人物はポリドリの想像を投影したものだ。(イアンテとオーブリー中、ポリドリが誰に相当するかは下の「カシミールの蝶」で話すことにしよう。)

 

「哀れな肉体を脱ぎ捨てた世界」という部分も、実のところバイロンの蝶の話とも関わるのではないか?

蝶、美しい生命体だ。

何度も驚異的に

異なる姿に変わるじゃないか。

以前の肉体を抜け出して、もっと新しく、自由な体になるということは、

おそらく神の祝福だろう?

(ジョージ・ゴードン・バイロン)


 

キーワードが全部出た!「肉体」「自由」「神」...

 

ちょうどこの場面がちょうどイアンテの話を持ち出す直前という点でも、バイロンの言葉はただポリドリーを「探るためのもの」だった。

 

「君は蝶になりたかったよね」「哀れな肉体から抜け出したかったよね」「自由になりたかったよね?」という質問と変わらない。(だからもう答えは出たけど...「蝶=イアンテ」だから、ジョンが本当になりたかった姿もイアンテであるしかない。)本当に彼がそういう欲望でルースベンを誕生させたのか尋ねたのだ。

 

だから「神が禁じた場所」、つまり[文章で新しい世界を創造することでを越える人間になり、自由を追求したいという欲望]に至った自分に対する罪悪感を持っているのだ。(実は[神=現実のバイロン]「人間=ポリドリ]という解釈も試してみたけど、それなりによく当てはまる気もする。)

 

その罪悪感はかえって「神が禁じた場所」のポリドリパートの歌詞で表れている。バイロンへの非難は、事実上自分自身への非難に変えて考えた時、ずっと理屈に合う。ただバイロンに対する恨みが少し混ざっている。

 

神が禁止した場所で傲慢と嘲笑に微笑むポリドリ。

そこで自由を叫びながら無情にペンを振り回すポリドリ。

 

ザ・テイルの中の全ナンバーは全部ポリドリ自身に向けた考えと言葉だと思っても構わない。ただバイロン、イアンテ、オブリー、ルースベンの口を借りただけ。だからバイロンが同じナンバーで「君の偽善にぴったりのエイプリルフール」と言ったのも本当によく似合う。

 

バイロンが「神の祝福だろう?」と言及したのも、そういうポリドリの気持ちを最初から知っていたから出た言葉だ。その祝福を得るのは何よりもポリドリが望んでいたことだったが、彼に決して許されなかったことだったから。

 

まとめてみると、本当に「哀れな肉体を脱ぎ捨て」たかった人はジョンだ。自分が作った話から自由になりたかったのだ。

 

***ここでいつも思うのは、『ヴァンパイアテイル』の原作を読んでみるとイアンテとルースベン間のラブラインが微々とるものだということだ(笑)。ラブラインのモチーフをどの部分で得たのかはよく分からないけど、ただ『ヴァンパイアテイル』の部分は原作を参考にするより劇中設定をそのまま受け入れた方がいいと思う;;

 

(左)ジョン・ウィリアム・ポリドリー(右)ジョージ・ゴードン・バイロン

 

では、ここで浮かぶ考えは、

 

バイロンは一体なぜ、ここでこうしているのか?

 

そしてバイロンは一体ポリドリの気持ちをどうやって全部知っていたのか?

 

答えると、劇中のバイロンは一瞬も本当のバイロンではなかったからだ。

 

この劇の内容全体も実は徹底的にポリドリの想像、彼が作り出した世界の話なわけだ。

 

つまり、劇中のバイロン役の俳優は実は「バイロン」と「ルースベン」を演じるのではなく、「ポリドリの視線を通したバイロン」と「ルースベン」を演じるのだ。そして「ポ視バイロン」と「ルースベン」は劇中ずっと混在している。

 

なぜなら?ルースベンはポリドリにとって自分が生んだキャラクターであり、

「君だけに生きている私」だから!!!!!!!(急発進)

 

それなら実は「ポ視バイロン」とルースベンだけでなく、ポリドリもまた彼ら(特にルースベン)の存在に混ざって入っている。

 

個人的には劇中でルースベンが「ポ視バイロン」のふりをして訪ねてきたとか、二人の性質自体が(まるでジキルとハイドのように)物理的に行き来するわけではないと思う。ただポリドリの頭の中でルースベンの時もあるし、バイロンの時もあるだろう。観客はただポリドリの視点についていくだけだ。

 

そして「ポ視バイロン」とルースベンがジョンを見透かしているという事実をジョンも無意識に知っているようだ。そうだろうね...事実上自分を投影した存在なのに(お互いが)知らないはずは。

 

でもさっき言ったように、二人を創造したという事実、またその創造物に自分の欲望を込めたという事実に罪悪感を持っていたポリドリ。つまり、そんな罪悪感が過剰になって、この全てを想像したのではないかと思う。想像の中で、バイロンが自分の全てを知り、追及して圧迫する人物として登場するのもそういう脈絡だろう。誰かに知られやしないか、現実の中のバイロンが知ったらどうしよう、というポリドリの不安感が根源だ。しかも『ヴァンパイアテイル』の母体も実はバイロンのホラー小説だったから。

 

バイロンと「夢」で会うということ自体が、苦しみ続けるジョンには罪の意識を一層育てたはずだ。夢は欲望の無意識的再現だ。

 

BUT一歩進んで考えてみると、そうやってポリドリの自白を導き出そうとした「ポ視バイロン」/ルースベンの行動までも!苦しみから解放されたかった!ポリドリのもう一つの欲望が生み出した無意識の想像なのだ!誰かが自分を追及してでも、その過程を通じて罪悪感を打ち明けたいという想像?ポリドリには辛いけど必要な過程だった。もっと大きな苦しみを防ぐためにはね。

 

ジョンはこれが全部「夢」ということも心の奥底では既に知っているのだ。ただ、この二層上*の想像からすっかり覚めてしまいたくないのだろう。(1層:ヴァンパイアテール、2層:ザ・テール・エイプリルフールズ)

 

だから、ザ・テイルはポリドリの視点から解釈すればするほど話が通じると同時に、悲しくもなる作品だ。

 

エピローグでバイロンとして退場するのも、ただその瞬間ポリドリの想像の中では彼がバイロンとして存在したことを示すに過ぎない。ルースベンの時も、ただその瞬間ポリドリの想像の中で最後のセリフがルースベンの口から出ただけだ。

 

もちろん、ルースベンを夜の世界のようなところに実際に存在する個別的なキャラクターとして見ると、過没入が100倍は深まるけど...そうなると、ストーリー上の矛盾や説明できない非現実の要素があまりにも大きくなる。

 

 

さてもう一度「この世界の神」の歌詞を見てみよう。

 

作家という対象にポリドリを代入するのが正しいなら、その歌がよりによってバイロンのソロナンバーである理由は何だろう?

 

ポリドリが言いたかった言葉を、ポリドリが見たい(多分ポリドリがなりたかった)バイロンの姿を通して見たのだ。結局、このナンバーは最初からこの劇に登場するバイロンが本当のバイロンではないことを「暗示」する機能を遂行する。

 

もう一度言うけど、ザ・テイルのすべてのセリフはポリドリの独白に他ならない。

(続く)