観た!良かった!
アツい歌と演技が溶け合って、上手いとか下手とか考えもせず、ひたすら物語に集中して観ていた。
奇抜な演出かもと心の準備をして臨んだけど、意外と韓国版に忠実だった。このセリフ、この動線、ここでこの音楽!みたいな嬉しさもあり。
ここは盛り上がる所!と期待していると、気持ちよくバンと見せてくれるので、時々トリハダ立ちそうになった。
もちろん、変わったところもある。
「ルドウィク」のエピソードはまるっとカット。だから「ルードヴィヒ」は正しくて、その設定はアリだった。
青年ルードヴィヒが中年まで連続して演じるために、「ルドウィク」エピソードのカットがより相応しくなった気がする。うまく説明できないけど。
その他、補足的なセリフが加わることによって、例えばカールの母親がどんな人だったかが示されたりして、ストーリーの背景や人物の心理が理解しやすくなった。
韓国版ではピアノの前、つまり舞台の奥の方に座っている壮年ルドに「楽譜どおりに弾け!」とチビルドが楽譜を投げつけるシーン。これが舞台正面に移動して、とっても効果的になったと思う。ドキッとした。
舞台装置や照明の話をすると、これまでの数少ない経験からではあるけれど、日本版になってがっかりしなかったのは正直初めてかもしれない。
逆に、頭上の鍵盤や降り注ぐ深紅の花びらの演出にはうなった。
ただ、腑に落ちないのは花びらの場面のカールの行動。なぜああなる?他の変更は分かりやすくなったり効果的だったと思うのに、ここだけは不思議。
一番大きな違いは年代別の担当制?でなくなったこと。
マリーとウォルターが飛び込んでくる時にルードヴィヒが既にアジョシっぽいし、ヨレヨレ。
酒に溺れていた時期だからそのほうが相応しいのかもしれないが、若い時代のルードヴィヒをもう少し長く愛でたかった気もする。
そう言えば、楽譜を返しにきたマリーが去った後、韓国版では清々しい青年ルードヴィヒが光に向かって出ていき、それを壮年ルドが見送る。このシーン、好きだった。
苦悩の時代が終わって、人生の新しいフェイズが始まったという強いメッセージだった気がするけど、日本版ではどうだったかな?
ルードヴィヒがそのまま作曲活動に邁進するんだったかな。
中村君がカールを演じないわけで、異なる青年を演じる妙味が無いのもちょっと寂しい。代わりに福士さんがやってくれるからいいのか。
よく考えるとチュニ君が演じたカールが可愛かったから、中村君のカールはどんなだか見てみたかったな、とその程度の話かもしれない。