同性愛がテーマと思い敬遠していたが、登場人物それぞれの物語というよりは、若者たちの置かれている状況とカトリック教会に対する批判といった、もう少し大きなものを描きたかったように感じる。
どんな作品か人に聞くたび、ナンバーが素晴らしいと言われた。実にその通り!ずっと聴いている。会場でOSTを売っていたのに買わなかったのが悔やまれる。
物語は実にもどかしい。もどかしくさせるのが目的だったとすれば大成功。
陳腐だが「迷える子羊」という言葉が浮かんだ。誰にも世話されていない羊たち。
(羊は放っておかれると死ぬらしい)
まともな大人が1人もいない。だから子供たちは、みんな哀れだ。
昔、アメリカ人同僚の娘が小学校低学年なのに、化粧やダイエットや、いかにセクシーに見せるかを気にしている話を聞いて、アメリカの子供たちを取り巻く環境?文化?が気の毒だったのを思い出した。(広いアメリカ、地域によって千差万別かもしれないが。)
冒頭のナンバーでおままごとセットを欲しがったり、料理が好きな男の子が変態扱いされる。そういうステレオタイプの価値観を押し付けられる社会で暮らすのは大変だろう。
「See Me」で告白しようとするピーターを母のクレアは拒み続ける。社会的圧迫があるとしても、親として耳を傾けることはできたんじゃないだろうか。他人事だからそう思うんだろうか。
「もしあなたにこんな話を持ち掛けられたら私はちゃんと聞いてあげられるだろうか?」
家に帰り、真剣に考えたとマンネに話したら、ヒマにも程があると呆れられた。
生徒たちは誰もが少しずつ悪い面、マイナスの面を持っている。でも邪悪なわけではなく善良な面も持ち合わせている。
同級生に薬を売るルーカス。実態を知っているとは言えないが、日本の高校の一般的なイメージからすると私にはカルチャーショックだったりする。
親の期待と社会的評価を守るために自分を偽るジェイソン。
同情の余地はあるが人を羨むばかりの嫌な子、ナディア。
他人の尺度に合わせるしか自分を持てないアイビー。
ピーターだって、ジェイソンを愛しているならもう少し彼の気持ちを理解しようとすべきだったんじゃないか?結局は自分の気持ちだけで突っ走ったような気もする。
そもそも劇中の子供たちは「愛」を口にしながら「愛」が何だと思っているんだろうか。キスしたくなるのが愛だとでも?
大人でも答えを知っているとは限らないが、この子たちは確実に何も分かっていないのが哀れ。
アイビーが人生がめちゃくちゃになったと嘆いたり、ジェイソンがなぜこんな目に合うのかと苛立ったりするたび、君たちがそういう結果を導く行動を取ったからだよ、誰かのせいではなく、と内心つぶやいていた。
間違った道を進んだら間違った場所に着くのは当然。
でも誰も教えてくれなかったんだろうな。
出てくる教義が本来の聖書の教えに即しているとは言い難いので、このストーリーに信仰を持ち込むのは卑怯だと最初思ったのだが、カトリック批判が目的なら必然的要素だったとも思う。
シスターや神父も迷って哀れなのは子供たちと同じだ。神を知らないから無力だ。
最後にピーターが言う。
「導いてくれる声が聞きたかった」
そうだよね。あなたたちはどうすべきかも知らないまま、道に迷っていたもんね。卒業後の人生で幸せを見つけられますように。