2011年の日本を丸山が見たら・・・
戦後日本の知識人の中でNo.1と評される丸山真男が、もし今の日本社会の姿を見たら彼の目にはどう映るであろうか?
彼の著作の愛読者である私が不遜にも彼になり変わって2011年現在の日本社会を批判してみようというのが本稿の試みである。
丸山真男は、戦前から荻生狙来の研究で封建時代の日本における近代的思想の成長を実証。福沢諭吉の自由観からも学んで、当時の国体論を批判した。
戦後の1946年に月刊誌「世界」で発表した論文「超国家主義の論理と心理」で、日本型ファシズムを痛烈に批判して敗戦直後の日本人に衝撃を与え、一躍論壇の注目を集めた。
以後、民主主義を擁護、学問としての思想研究を促すために次々と論文を発表。日本政治史の分野で「丸山政治学」と呼ばれる独自の学風を示し、戦後の思想界をリードし続けた。
また、第二次世界大戦の講和問題では平和問題談話会に参加、1960年安保問題でも積極的に発言し、現実の政治や社会にも大きな影響を与えた。
著作「日本政治思想史研究」「現代政治の思想と行動」「日本の思想」などは欧米でも出版され、日本研究の古典とされている。日本人としては数少ない英国学士院会員の外国会員に選ばれた。米プリンストン大、ハーバード大から名誉博士号を受け、英オックスフォード大各員教授も努めた。
彼が生涯を通じて批判していたのは、日本社会の前近代性である。
前近代社会においては、社会を誰かが主体的な意思を持って作り上げたものとは捉えず、植物や動物や気候といった自然環境と同一視する。
例えば、太陽が東から出て西に沈むように、江戸時代の日本や中世ヨーロッパの身分制度、インドのカースト制度は、合理的な理由があって作り上げられたものではなく、慣習によって定まった疑うことのできない自明なものとして当時の人々に捉えられていた。(実際のところは既得権を持つ人々が、自分達の優位性を単なる経済力や暴力によってではなく、慣習や宗教に基づくものとして正当化している状態である。単なる力関係の優位は、力関係の変化により逆転することがあり得るが、価値的な優位性をプラスすることによって逆転を難しくしていると言える)
身分以外の政治や経済といった社会システムも、慣習や権威に基づく「人間の意志では変えられないもの」であり、いわゆる丸山の言う「~である」社会である。
これに対して、近代社会は社会契約説に代表されるように、主体的な個人の自発的な意思決定に基づいて、目的共同体としての国家や、法律を作る=人工的な「フィクション」によって成り立つ社会であり、丸山の言う「主体的な作為」によって人々が主体的に変えうる社会である。(「~である」社会ではなく、「~する」社会)
この、前近代社会=「~である」社会=「自然」優位の社会、近代社会=「~する」社会=「作為」優位の社会、という視点から現在の日本社会を見てみよう。
1990年代、2000年代の日本は、「失われた20年」と言われる衰退の時代だった。過去20年間の日本経済の成長率は年間平均1.1%どまり。日本の国民1人当たりのGDP(国内総生産)は、1950年に米国のレベルの20%だったものが、1991年のピーク時には85%に達した。それが2006年には72%に低下しており、日経平均株価の時価総額は実質ベースで、20年前の水準の4分の1に落ち込んでいる。
そして、2010年にGDPで中国に抜かれ、とどめのように今年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故が日本を襲い、さらなる低迷の時代に向かうという悲観的な見方をされている。
この「失われた20年」と言われる日本の衰退については、様々な原因が指摘されているが、冷戦終了による世界経済のグローバル化についていけず、旧態依然とした冷戦下の社会システムから脱却できていないことが原因と言われることが多い。
冷戦下の日本社会システムといえば、①政治家ではなく、官僚中心の政治②官僚の規制によって守られた既得権を持つ大企業が非競争的にシェアを分け合う護送船団方式③終身雇用・年功序列の日本的経営で、雇用の流動性は低いが、安定性は高い④海外からの投資や、人材を受け入れないムラ社会的な閉鎖性⑤低い生産性のサービス業を製造業の黒字で補う⑥公共事業と補助金に依存した地方経済、といった特徴があげられる。
グローバル化・IT化によって今までの環境が変化し、国家も企業も個人も激しい競争にさらされている現在になっても、日本においては、既存の社会システムがなかなか改革されていない。
中国をはじめとする新興国や、韓国やシンガポールといった国々と比べ、日本の社会システムはあまりに変わっていないというのが国際的な評価で、日本経済が恐れられていた頃の「ジャパンバッシング」に変わって、日本は無視してもかまわない国という「ジャパンパッシング」という言葉が良く使われる。
高度経済成長時の社会システムも自然と出来上がったものではなく、エリート官僚たちが中心になって作為的に作り上げてきたものだが、長くその社会システムに慣れ親しむと、その社会システムが自明のものに見えて来てしまい、環境が変わって変革の必要が出て来ても、それを動かすことのできないものと思ってしまうのが日本人の問題点であろう。
単に政治のリーダーシップ不在というだけの問題ではない。社会システムが環境や時代に合わなくなっているときにそれを変革しようと思うのは、既に既得権を得ている大人たちよりも、若者である場合が多いのが世界の常識だが、日本の場合はそうではない。
社会システムを変えるには、起業して新しいビジネスを立ち上げるか、新しいビジネスをやっているベンチャー企業に入って中心メンバーになる、というルートがあるが、日本の若者はリスクを取りたがらず、起業する若者は減り続けている。また、政治に対する関心も低く、政治家や官僚になって社会を変えようという人間も減り続けており、優秀な人材は大企業の官僚的なサラリーマンになっていく。
大学生の就職人気ランキングは、20年前と今とでほとんど変化がないそうだし、多くの学生が終身雇用・年功序列の日本的経営が望ましいと思っているとのことである。
どんな安定して見える大企業でも永遠に存続するわけではないことをバブル崩壊後の日本人は経験した。しかし、それにも関わらず、日本の若者の大半は、「名の通った大企業に入れば一生安泰」というイメージにとらわれている。
企業というものは本来誰かがある目的をもって作為的に作り上げた目的共同体であり、その企業ができた目的や存在価値が時代の変化によって、時代遅れとなり、社会に不要となれば一夜にして無くなることもあるものだが、日本人にとっては太陽や森といった自然環境と同じようなもの=主体的な作為によっては変えられないものと見えてしまうようである。
結果として、①新しいビジネスを立ち上げて社会を変える人間②大企業の中で改革を起こして時代や環境の変化に合わせた企業にしていく人間③政治家や官僚として社会を変えていこうという人間、といったような「作為的に社会を変えていく」マインドを持った人間が出て来ない社会になってしまっていると言える。かわりに「環境に自分を合せていかに生きて行くか」ばかりを考える人間たちが満ち溢れている。
既存の社会システムにのっかって、そこで安定した生活を送ろうという人間ばかりで社会が構成されてしまうと、社会は活性化されず、環境の変化に合わせてシステムを変えることができない。そしていつか「日本社会」という船は「自分がおいしい思いをできればいい」という乗客たちの重みに耐えられなくなり、沈没してしまうのではないだろうか。
今の日本人のリスク回避・安定志向は、丸山が批判してきた、「主体的な作為により変えられるものとして社会をとらえることができない」日本人の問題が今だに解決されていないことを示している。
その他にも丸山が提示した日本社会に対するいくつかの批判的分析は依然として有効である。
例えば、「無責任体制」や「公と私の混同」といった戦時中の軍部など国家リーダーたちに対する批判も現代にあてはまる。
戦時中の軍部など国家リーダーたちは、天皇の権威の下に隠れ、主体的に責任をもって国家をリードしようとしなかった。
リーダーたちは国家全体(公益)のためを考えた責任ある意志決定をするのではなく、自分の部署の権益(私益)を求めたその場しのぎの状況対応に終始し、結果としてリーダーたち誰もが勝てると思っていなかったにもかかわらず、アメリカとの戦争が避けられなくなっていったのだが、現在の官僚や官僚的な大企業サラリーマンにも依然としてこのマインドは残っているのではないだろうか?
その他にも、「ずるずるべったりの実感信仰」や、「他者感覚の無さ」など。彼の批判した日本人の問題点は今も残っている。
しかし、希望が無いわけではない。
大震災と原発事故は、普段の日常生活で我々が当り前のものとして享受していた電力・その他生活インフラや、サプライチェーンがいかにもろいものであるかを目の当たりにさせた。
「日本人は、水と安全はタダだと思っている」という批判があるが、高度経済成長以降の日本人は電力や水道など生活インフラだけでなく、社会や経済のシステムについても、誰かが主体的に作り上げ、維持・運営しているもの(=主体的な作為によりつくられていくもの)だと思わず、自明のものとして依存してきたのではないだろうか?
それが、この悲劇的な震災による混乱と、その後も引き続く、電力不足や、放射能汚染その他もろもろの社会的混乱によって、今まで自明だと思って来たもの=生活インフラとそれをささえる経済・政治など社会システムが、自明なものではないことに気づく機会になっていると言える。
エネルギー政策だけでなく、低迷する経済をどう立て直すか?少子高齢化により崩壊寸前の社会保障システムをどうするか?混迷し続ける政治システムをどうするか?正に日本人全体で議論し、「主体的な作為」によって』新たなシステムを作っていかざるを得ない状況になったと言えよう。
「がんばろう日本」ではなく、日本人全体が「主体的な作為の契機」を持つことを丸山が生きていたら望むに違いない。
100年後の日本のあるべき姿(長妻昭未来創造塾卒業論文)
【未来を語るためには、過去を見つめなければならない】
8月30日に日本政治史上画期的な、選挙による本格的な政権交代が行われましたが、世界の民主主義の歴史の中で、これだけ長期間民主主義をやってきたのに、これだけ政権交代が無かった国は他に例を見ません。
今までの大きな日本の問題点は、国民が、政治や社会について、主体的に自分たちのものとして関心を持たず、「大事なことはお上=政府が決める」という風土があることだと思います。
100年後の日本を語るためには、今までの問題点を直視しなければなりません。
【江戸時代】⇒「民はよらしむべし、知らしむべからず」
徳川幕府は、人民統治の方針として、「民はよらしむべし、知らしむべからず」として、政治や社会についての知識・情報を民になるべく知らせないようにし、「民は自分の身の回りの仕事や人づきあいをやっていればよい、政治や社会のことについては幕府に任せて、自分の頭で考えたり、疑ったりしてはいけない」という方向で民衆を統治しました。
18世紀、19世紀に市民革命が起こった欧米とは異なり、日本では商人など市民階級は、主体的に政治にかかわる意識を持たず、「政府に対して文句は言うが、自分たちで主体的に政治を考えたり、変えたりしようとはしない」という状態でした。
【明治~戦前】⇒「天皇中心の家族的国家」
明治維新は、市民革命ではなく、明治政府による様々な改革も、政府主体の「上からの改革」であったため、国民自身が積極的に政治・社会を変える主体となったとはいえませんでした。
明治政府の民衆統治システムは巧みでした。
江戸時代までは、「日本国の一員」という意識の民衆はおらず、自分の住んでいるムラや、藩にしか帰属意識を持っておらず、薩長の下級武士出身の政府の下に日本国民として統合するのは難しい状況でした。
そこで明治政府は「天皇を中心とした家族的共同体」という国家イメージを全面に打ち出し、民衆の統治に成功したと言えます。
しかし、天皇の影で政治を動かす黒幕としての、明治維新の元老たちがいなくなると、天皇の権威をカサにかりて、軍部や官僚が国を動かすようになり、丸山真男いわく「天皇というみこしをかついだ無責任体制」におちいり、敗戦にむけて国策を誤ることになりました。
【戦後~2009年8月】⇒「サラリーマンは会社に、民間企業は官僚に依存した国家」
敗戦により、日本はGHQ=アメリカという外からの力で民主化および様々な改革を行いましたが、これも「外からの改革」であり、形式的には民主主義国家になっても、「国民が自分たちで主体的に政治・社会を変えていく」という意味の実質的な民主主義は機能していなかったのが戦後の日本ではないでしょうか?
戦前に引き続き、実質的には官僚が国を動かしており、政治家は官僚に依存する構図だったといえます。
また、冷戦下でアメリカに守られ、高度経済成長の中で経済成長に専念する社会において、多くの国民は、「政治や社会に関心を持つよりも、自分の仕事や家庭のことだけ考えていればよい」という価値観になっていきました。
特にマジョリティーであるサラリーマンは、終身雇用・年功序列による安定した「日本的経営」の中で、「会社共同体」の一員という意識を強め、「国家の一員」としての意識は低かったと言えるでしょう。
この会社が社員の生活を丸抱えする「日本的経営」は、官僚による規制(護送船団方式と呼ばれた)に守られており、民間企業もまた官僚に依存していました。
【2009年9月~】
福澤諭吉は、「文明論の概略」の中で、日本社会の根本的問題点は、「権力の偏重が人間交際全てに見られる」ために、「日本の人民は国事に関せず」という状態になってしまっている点だと言っています。
これは、わかりやすく言えば、人間関係があるところ(例えば夫と妻、会社の上司と部下、官庁と民間企業)全てにおいて、上下関係が必ずあり、全ての人が「自分にとって大事なことは自分より上の立場の人間に決めてもらっており、自分は統治される側」という意識を持っているため、「国民自身が主権者として、社会を統治する側になる」という民主主義の考え方が根付かず、「国や社会のことについて関心が無い」ということなのです。
福澤がこう嘆いてから150年ぐらいが経ちましたが、今までの戦後の日本は、基本的に明治初期と変わらず、「権力の偏重が人間交際全てに見られ」、「人民は国事に関せず」だったのではないでしょうか?
高度経済成長が終わり、官僚中心の政治システムと、終身雇用・年功序列の家族的経営による会社共同体による経済・社会システムの崩壊が始まりました。
もう、日本国民は、誰かに依存することはできません。私たち日本人は、歴史上初めて、自分の頭で政治・社会について考え、自分たちで主体的に政治を動かして社会を良くしていかねばならない時代を迎えたのです。
政権交代が起きたのは、そのことに日本人がようやく気づいたからだと思います。
この風土を変えるには、100年かかるかも知れませんが、今回の政権交代が出発点になるのではないでしょうか?
【100年後の日本】⇒高齢化社会と教育への投資
100年後の社会を予測するのは困難ですが、確実に予測できるのは、①医療技術の発達により今まで以上に高齢化が進み、小数の働く人が、多くの高齢者を支える社会になり、今以上に社会保障費がかかるようになること②IT化とグローバリゼーションが今まで以上に進む(IT化により単純作業には、人間の手を必要としなくなり、かつ、単純作業が必要な場合もグローバリゼーションが進んでいるので、人件費の安い国で行ったり、外国人労働者でまかなえる)ため、先進国では、高い付加価値を生み出す知的労働が出来る人材でないと、仕事に就けないようになること、の2点だと思います。
100年後は、高齢者に対する医療・年金や、少子化を食い止めるための子育て支援にも、今とは比べものにならない巨額の予算が必要となるでしょう。
「圧倒的に少ない稼ぎ手が、多くの社会保障受給者をささえる」という社会において、稼ぎ手である若者たちが、高付加価値の知的労働ができるようになるかどうか?が日本の命運を決めると思います。
今現在でも、高い付加価値を生み出す仕事ができるような知的人材を育成する力が国力を左右する時代になっているため、どこの国も教育への投資を強めています。
資源が乏しい日本が生き残るには、ひとりひとりの子供への教育投資を高めなければならないので、人口一人当たりにかける教育予算を、世界最高レベルにまで高める必要があります。
今、問題とされている公教育の崩壊を食い止め、塾や私立の進学校に行かなくても、高付加価値の知的人材になりうる学力を、全ての子供がつけられるようにする必要があります。
公教育をどう強化するかですが、大人数の集団授業で、一律に同じ授業を行う方向では限界があると思います。
いくら高いレベルの学力をつけようと思っても、授業についていける子供と、ついていけない子供に分かれ、結局「一部のエリートが稼ぐ社会」となり、増大する高齢者への社会保障費に加えて、貧困層になる若者への社会保障費も増大することになります。
教育予算を高め、教員を増やしたり、地域のボランティアや、NPOの力も借りて、少人数・学力別クラスに個別指導を組み合わせた公教育を実現すべきです。
少人数・学力別クラスや個別指導なら、学力の低い子を見捨てず基礎から教えることもでき、学力の高い子はハイレベルな指導をすることも可能となります。(しかしながら、もちろん人件費は増大します。)
日本の働く人間のほぼ全てが、高付加価値の仕事につけるよう、一人一人の子供を見捨てない教育体制にすることが、国の経済政策として必要な社会になると思います。
そして、高齢化社会における、非常に巨額の社会保障費と、教育に対する予算をまかなうためには、国民全体の合意と政府への信頼が必要です。
100年後には、「政府の政策が国民のためになっていないと判断されるときは、国民の手で政権交代をおこす」ことが常識となっていなければなりません。
そのためにも、今回の民主党による政権交代が国民の目に見える成果を出し、それ以降も、19世紀のイギリスのように、「政権交代による政治の活性化の実績」が積みあげられることによって、国民自身が選挙に行くことや、政治・社会に関心を持つことの重要性を学んでいくことが必要です。
そして、政府が税金の使い道を徹底的に透明にし、税金の使い道に対する合意形成のために、政治家が国民と対話し、説明責任を果たしていくことが求められます。
そうなって初めて、日本人は、「民はよらしむべき、知らしむべからず」という江戸時代からの風土から脱却することができるのだと思います。
格差社会と教育
1.「格差社会」批判への疑問
ここ何年か、日本では「格差社会」批判の論者が増えていますが、2008年は世界同時不況の影響もあり、毎日ニュースで派遣社員など非正規雇用者の苦しい生活が報じられ、日本が格差社会化していることを実感する1年となりました。
今、毎日ニュースでいろんな人が格差社会について論じています。秋葉原など連続通り魔事件や、厚生労働省OBへのテロを起こしているのが、派遣社員・貧困層だったこと、金融大恐慌で派遣切りが大量発生していること、労働者の3分の1、20代前半の4割強が非正規労働になったことを背景に、格差の問題が騒がれるようになりました。
原因としてよくあげられるのが、「金融資本主義の暴走」と「グローバリゼーション」です。
株の持ち合いによって、「利益を上げろ」という投資家の圧力から逃れ、利益を出すためののリストラを行わないでも良い体制を作り、株主よりも社員を大事にしていた(と言われていた)日本的経営が、アメリカの国際金融資本の圧力によって、金融自由化を認めさせられることによってグローバルな市場競争に巻き込まれ、持ち合いを解消して、ゴールドマンサックスなどの国際金融資本が日本企業の株主になったので、「株主重視で、利益を上げるためにリストラをするのが良い経営」という価値観が蔓延してしまった・・・・
金融資本主義とグローバリゼーションは確かに世界的に広がる格差の原因の一つなのですが、「日本的経営が良かった」「昭和の頃に戻りたい」という人が最近増えているのには首をかしげたくなります。
はたして、いわゆる「日本的経営」=「株の持ち合い・終身雇用・年功序列・家族的経営」は格差を生まない、人間的な雇用形態だったでしょうか?
終身雇用で正社員を守る裏側で、下請けの中小企業を「景気変動の調整弁」として、どんなに過酷に扱ったか?
株の持ち合いにより経営を守り、大企業の下請けでなければ企業社会に入れず、ベンチャー企業が台頭しにくい仕組みは公平だったと言えるでしょうか?
年功序列と家族的経営の反面で転職が難しい風土ができ、会社が社員の人生を丸抱えしてしまうことで、会社に依存せざるをえないサラリーマンが増え、能力や業績よりも協調性が大事だと言われ、会社や上司の顔色をうかがって生きるのが当たり前になっていた流動性の低い閉塞的な時代に帰ることが果たして良い解決策なのでしょうか?
その終身雇用も、年功序列も、家族的経営も、世界史でもまれな高度経済成長という恵まれた状況でなければ実現しなかったもので、今そこに戻ろうとしても無理なのです。
金融資本主義やグローバル化の裏に、もっと本質的な原因を探すとしたら、IT革命でしょう。
IT始めテクノロジーの発達は、今まで人間の判断力によってでないとできなかった仕事を次々と人間ぬきで(あるいは人間を必要とするとしても、判断業務を伴わずマニュアル化された単純作業ですむように)できるようにしています。
今までは、「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」という呼び方がありましたが、今は「ゴールドカラー」という概念が出てきています。
この「ゴールドカラー」とは、ホワイトカラーの中で特に高いマネージメント力や、システム構築など高い専門性を持った企業の中核となる人材=高収入のエリート層を指すそうです。
これに対して、大多数の「ホワイトカラー」は単純な事務作業をくりかえすようになり、ホワイトカラーでも低収入の「取替え可能な」存在になっていき、ブルーカラーも今まで以上に厳しい状況に立たされる・・・
これが格差社会のより重い現実です。
「人間をモノ扱いにする企業は悪だ」ということをよく言う人がいますが、技術の進歩を人間が望む限り、二極化は避けられないのではないでしょうか?
二極化を自明のものとした上で、①失業者への職業教育の充実などセーフティー・ネットを張るために高所得者からの課税強化②親が貧しい子でも高いレベルの教育を受けられるように公教育の充実、という2点を図っていくしかないと思います。
結局「教育が一番大事」という話しはよく格差社会についての議論の最後に出てくるのですが、私は教育に関わる人間の一人として、「ではどんな教育をすればよいのか?」を塾で目の当たりにしている子供たちの現実から考えていきたいと思います。
2.「動物化」する若者たち
こうした状況の中で、子供たちの将来を心配する親たちの教育熱は高まっています。
近年「ファミリープレジデント」など、親向けの受験・子育てマニュアル的な雑誌が次々と創刊され、読売ウィークリーなど中年向け週刊誌でも受験や教育関係の特集が毎週組まれています。
しかし、塾で仕事をしていると、その反面で、肝心の子供たちの学習意欲が年々低下しているのを肌で感じます。
特にここ10年間で大学受験生の意識の低下が目立ちます。
これだけの厳しい社会情勢の中でも、将来のかかった大学受験にひたむきに取り組めない高校生、浪人生が増えています。
授業に遅れてきたり、宿題をやってこないのは当たり前、自習室にいてもずっと友達同士でしゃべっていたり、ずっとケータイを見ていたり、寝ていたりしています。
私の塾だけの現象ではなく、最近どこの予備校でも「浪人生同士でずっと自習室で騒いでいて、予備校の人が注意しても全然勉強しない人がたくさんいる」というのが普通らしいのです。
中学受験生や、高校受験生なら、親に無理やり塾に行かされてやる気が出ず、だらけている生徒が多少いるのもわかりますが、近い先の自分の将来のために塾にきているはずの大学受験生たちの一部が、とても受験生とは思えない行動をするようになっています。
こうした子達に共通している問題点は他にもいくつかあります。
① 主体性がなく、依存心が強い(先生から指示されないと自分から勉強せず、常に「やらされている感」がただよっている子が多いです)
② 群れていないと不安
③ みんながやらないことをやるのは嫌(大学に行くのも、「みんなが行くから」が本音で、目指す大学も「みんなが目指しているから」MARCH以上という子が多いです。)
④ すぐに結果が出ないと努力しようとしない(単語を覚えたり、長く努力しないとすぐに結果の出ないことに取り組んでもすぐに挫折する子が増えています)
⑤ 常識的な知識・言葉をあまりに知らないし、知ろうとしない
⑥ 読書など知的な物事への関心の低下
もちろん、まともに努力する受験生も多数おり、全員がそうであるわけではないのですが、明らかにここ10年で生徒のやる気や行動が劣化していることを感じます。
「小子化で大学に入りやすくなり、誰もが大学に行くのが当たり前になったから」とも思いますが、大学受験生だけでなく、大学生や、20代の若手社会人でもその行動の幼稚さが問題視されています。
上の①~⑥のような若者の状況を人間としての主体性が無いという意味で、「動物化」と呼びたいと思います。
70年代まで機能していた、「努力して高学歴を得て、有名企業に入り、マイホームを買って、家族を養うのが良い人生」という動機付けが、高度経済成長のストップと、80年代以降の消費社会化(豊かになり、働くことよりも、消費生活を送ることの方に人々の意識が向く社会になってきたこと)とによって機能しなくなり、若者たちにとって、「何のために勉強するのか?」「何のために働くのか?」が自明のものでなくなりました。
よくこれは、「ポストモダン」と説明され、「物質的豊かさ」が輝かしいものであった「近代」から、「心の豊かさ」を追い求める時代になったという意味で肯定的に言われることが多い現象なのですが、「物質的豊かさ」は明確であり、そのための方法論もわかりやすいのに対し、「心の豊かさ」は不明確で、個々の価値観によるものなので、「どう手に入れるか」という以前の問題として、「自分にとって大事なものは何か?」を見つけることが困難です。
それゆえに、「心の豊かさ」は子供たちへの動機付けとしては機能しにくい面があり、「何が自分にとって大事なものか?」という価値観を見出せない場合は、生きていくモチベーションを失い、アノミー状態=「とりあえず、そんなに苦労しないで、食うに困らず、そこそこ楽しく過ごせれば良い」という気持ちで生きていくことにつながりがちです。
これに消費文化(コンビニに代表される快適な生活環境と、インターネットやケータイなどのメディアの発達)が加われば、あくせく苦労して勉強して、ハードに働く生き方に魅力を持てず、「楽しく、のんびりと消費生活を送ること」しか頭にない若者があふれることになります。
つまり、「何を目指せば幸せになるのか?」が自明でないポストモダンは、必然的に「動物化する若者たち」の大量生産につながっていくと言えるでしょう。
反対に、「何のために働くのか?」「何が自分にとって大事なのか?」を問い続け、自分を向上させる意識を持っている若者にとっては、「動物化」している若者が増えた今は、相対的に昔よりも(就職においても、就職後の仕事での競争においても)成功しやすくなっている時代だとも思います。
大学受験においても、「昔であれば早稲田・慶應にしか行けなかったであろう学力の子が東大に入り、昔であれば明治・立教に入っていたであろう学力の子が早稲田・慶應に入っている」と良く言われています。
私の塾でも、年々こうした二極化(上昇志向の強い子が上位大学に入りやすくなり、のんびりした危機感の無いその他大勢の子との格差が開いています。)が進み、意欲の格差が、学力の格差を生み出す状況が深まっています。
それゆえに、今の塾では、勉強を教えるより、それ以前の動機付けの部分が大事になってきており、動機付けを失敗すれば、いかに高度な指導力を持つ先生がいても、塾として成功できない時代になってきているのです。
