格差社会と教育
1.「格差社会」批判への疑問
ここ何年か、日本では「格差社会」批判の論者が増えていますが、2008年は世界同時不況の影響もあり、毎日ニュースで派遣社員など非正規雇用者の苦しい生活が報じられ、日本が格差社会化していることを実感する1年となりました。
今、毎日ニュースでいろんな人が格差社会について論じています。秋葉原など連続通り魔事件や、厚生労働省OBへのテロを起こしているのが、派遣社員・貧困層だったこと、金融大恐慌で派遣切りが大量発生していること、労働者の3分の1、20代前半の4割強が非正規労働になったことを背景に、格差の問題が騒がれるようになりました。
原因としてよくあげられるのが、「金融資本主義の暴走」と「グローバリゼーション」です。
株の持ち合いによって、「利益を上げろ」という投資家の圧力から逃れ、利益を出すためののリストラを行わないでも良い体制を作り、株主よりも社員を大事にしていた(と言われていた)日本的経営が、アメリカの国際金融資本の圧力によって、金融自由化を認めさせられることによってグローバルな市場競争に巻き込まれ、持ち合いを解消して、ゴールドマンサックスなどの国際金融資本が日本企業の株主になったので、「株主重視で、利益を上げるためにリストラをするのが良い経営」という価値観が蔓延してしまった・・・・
金融資本主義とグローバリゼーションは確かに世界的に広がる格差の原因の一つなのですが、「日本的経営が良かった」「昭和の頃に戻りたい」という人が最近増えているのには首をかしげたくなります。
はたして、いわゆる「日本的経営」=「株の持ち合い・終身雇用・年功序列・家族的経営」は格差を生まない、人間的な雇用形態だったでしょうか?
終身雇用で正社員を守る裏側で、下請けの中小企業を「景気変動の調整弁」として、どんなに過酷に扱ったか?
株の持ち合いにより経営を守り、大企業の下請けでなければ企業社会に入れず、ベンチャー企業が台頭しにくい仕組みは公平だったと言えるでしょうか?
年功序列と家族的経営の反面で転職が難しい風土ができ、会社が社員の人生を丸抱えしてしまうことで、会社に依存せざるをえないサラリーマンが増え、能力や業績よりも協調性が大事だと言われ、会社や上司の顔色をうかがって生きるのが当たり前になっていた流動性の低い閉塞的な時代に帰ることが果たして良い解決策なのでしょうか?
その終身雇用も、年功序列も、家族的経営も、世界史でもまれな高度経済成長という恵まれた状況でなければ実現しなかったもので、今そこに戻ろうとしても無理なのです。
金融資本主義やグローバル化の裏に、もっと本質的な原因を探すとしたら、IT革命でしょう。
IT始めテクノロジーの発達は、今まで人間の判断力によってでないとできなかった仕事を次々と人間ぬきで(あるいは人間を必要とするとしても、判断業務を伴わずマニュアル化された単純作業ですむように)できるようにしています。
今までは、「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」という呼び方がありましたが、今は「ゴールドカラー」という概念が出てきています。
この「ゴールドカラー」とは、ホワイトカラーの中で特に高いマネージメント力や、システム構築など高い専門性を持った企業の中核となる人材=高収入のエリート層を指すそうです。
これに対して、大多数の「ホワイトカラー」は単純な事務作業をくりかえすようになり、ホワイトカラーでも低収入の「取替え可能な」存在になっていき、ブルーカラーも今まで以上に厳しい状況に立たされる・・・
これが格差社会のより重い現実です。
「人間をモノ扱いにする企業は悪だ」ということをよく言う人がいますが、技術の進歩を人間が望む限り、二極化は避けられないのではないでしょうか?
二極化を自明のものとした上で、①失業者への職業教育の充実などセーフティー・ネットを張るために高所得者からの課税強化②親が貧しい子でも高いレベルの教育を受けられるように公教育の充実、という2点を図っていくしかないと思います。
結局「教育が一番大事」という話しはよく格差社会についての議論の最後に出てくるのですが、私は教育に関わる人間の一人として、「ではどんな教育をすればよいのか?」を塾で目の当たりにしている子供たちの現実から考えていきたいと思います。
2.「動物化」する若者たち
こうした状況の中で、子供たちの将来を心配する親たちの教育熱は高まっています。
近年「ファミリープレジデント」など、親向けの受験・子育てマニュアル的な雑誌が次々と創刊され、読売ウィークリーなど中年向け週刊誌でも受験や教育関係の特集が毎週組まれています。
しかし、塾で仕事をしていると、その反面で、肝心の子供たちの学習意欲が年々低下しているのを肌で感じます。
特にここ10年間で大学受験生の意識の低下が目立ちます。
これだけの厳しい社会情勢の中でも、将来のかかった大学受験にひたむきに取り組めない高校生、浪人生が増えています。
授業に遅れてきたり、宿題をやってこないのは当たり前、自習室にいてもずっと友達同士でしゃべっていたり、ずっとケータイを見ていたり、寝ていたりしています。
私の塾だけの現象ではなく、最近どこの予備校でも「浪人生同士でずっと自習室で騒いでいて、予備校の人が注意しても全然勉強しない人がたくさんいる」というのが普通らしいのです。
中学受験生や、高校受験生なら、親に無理やり塾に行かされてやる気が出ず、だらけている生徒が多少いるのもわかりますが、近い先の自分の将来のために塾にきているはずの大学受験生たちの一部が、とても受験生とは思えない行動をするようになっています。
こうした子達に共通している問題点は他にもいくつかあります。
① 主体性がなく、依存心が強い(先生から指示されないと自分から勉強せず、常に「やらされている感」がただよっている子が多いです)
② 群れていないと不安
③ みんながやらないことをやるのは嫌(大学に行くのも、「みんなが行くから」が本音で、目指す大学も「みんなが目指しているから」MARCH以上という子が多いです。)
④ すぐに結果が出ないと努力しようとしない(単語を覚えたり、長く努力しないとすぐに結果の出ないことに取り組んでもすぐに挫折する子が増えています)
⑤ 常識的な知識・言葉をあまりに知らないし、知ろうとしない
⑥ 読書など知的な物事への関心の低下
もちろん、まともに努力する受験生も多数おり、全員がそうであるわけではないのですが、明らかにここ10年で生徒のやる気や行動が劣化していることを感じます。
「小子化で大学に入りやすくなり、誰もが大学に行くのが当たり前になったから」とも思いますが、大学受験生だけでなく、大学生や、20代の若手社会人でもその行動の幼稚さが問題視されています。
上の①~⑥のような若者の状況を人間としての主体性が無いという意味で、「動物化」と呼びたいと思います。
70年代まで機能していた、「努力して高学歴を得て、有名企業に入り、マイホームを買って、家族を養うのが良い人生」という動機付けが、高度経済成長のストップと、80年代以降の消費社会化(豊かになり、働くことよりも、消費生活を送ることの方に人々の意識が向く社会になってきたこと)とによって機能しなくなり、若者たちにとって、「何のために勉強するのか?」「何のために働くのか?」が自明のものでなくなりました。
よくこれは、「ポストモダン」と説明され、「物質的豊かさ」が輝かしいものであった「近代」から、「心の豊かさ」を追い求める時代になったという意味で肯定的に言われることが多い現象なのですが、「物質的豊かさ」は明確であり、そのための方法論もわかりやすいのに対し、「心の豊かさ」は不明確で、個々の価値観によるものなので、「どう手に入れるか」という以前の問題として、「自分にとって大事なものは何か?」を見つけることが困難です。
それゆえに、「心の豊かさ」は子供たちへの動機付けとしては機能しにくい面があり、「何が自分にとって大事なものか?」という価値観を見出せない場合は、生きていくモチベーションを失い、アノミー状態=「とりあえず、そんなに苦労しないで、食うに困らず、そこそこ楽しく過ごせれば良い」という気持ちで生きていくことにつながりがちです。
これに消費文化(コンビニに代表される快適な生活環境と、インターネットやケータイなどのメディアの発達)が加われば、あくせく苦労して勉強して、ハードに働く生き方に魅力を持てず、「楽しく、のんびりと消費生活を送ること」しか頭にない若者があふれることになります。
つまり、「何を目指せば幸せになるのか?」が自明でないポストモダンは、必然的に「動物化する若者たち」の大量生産につながっていくと言えるでしょう。
反対に、「何のために働くのか?」「何が自分にとって大事なのか?」を問い続け、自分を向上させる意識を持っている若者にとっては、「動物化」している若者が増えた今は、相対的に昔よりも(就職においても、就職後の仕事での競争においても)成功しやすくなっている時代だとも思います。
大学受験においても、「昔であれば早稲田・慶應にしか行けなかったであろう学力の子が東大に入り、昔であれば明治・立教に入っていたであろう学力の子が早稲田・慶應に入っている」と良く言われています。
私の塾でも、年々こうした二極化(上昇志向の強い子が上位大学に入りやすくなり、のんびりした危機感の無いその他大勢の子との格差が開いています。)が進み、意欲の格差が、学力の格差を生み出す状況が深まっています。
それゆえに、今の塾では、勉強を教えるより、それ以前の動機付けの部分が大事になってきており、動機付けを失敗すれば、いかに高度な指導力を持つ先生がいても、塾として成功できない時代になってきているのです。