佐藤元彦の「教育から日本を変えよう」 -3ページ目

「KY」と日本人

最近若者の間で「KY」という言葉が流行している背景とその問題点を論じてみたいと思います。


(1)KYと戦争


「KY」という言葉は、友人・職場・学校のクラスその他の仲間関係のコミュニケーションの中で、「空気が読めない」人間をさして言います。


つまり、まわりの人間や、会話の相手が、自分に対して「言ってほしいこと・やってほしい行動」「言ってほしくないこと・やってほしくない行動」について明言せずとも、相手や・周りの人の意を察して、言動するコミュニケーションスキルが不足している人間=気が利かないやつ、として批判するときの定義です。


「お前は空気が読めない」というフレーズは、「あうんの呼吸」を重んずる日本人社会では、非常によく使われるフレーズだと思いますが、日本人が「あうんの呼吸」を重んずるゆえに、共同体内の同調圧力によって、個人の倫理的判断を押し殺すことが多いことを見逃してはいけません。


例えば、敗戦後の日本軍部・政治家のトップクラスの人々を裁く「極東軍事裁判」では、日本が満州事変・日中戦争・日米開戦と突き進んでいったことについて、「誰が」、「なぜ」戦争を引き起こしたか、意思決定の責任があるかを連合国側の判事が問おうとしましたが、戦犯として召集された日本政府・軍部のトップの誰もが、「空気に抗えなかった」と言いました。


つまり、「個人としては、アメリカに勝てるとも思っていなかったし、中国に対する泥沼のような戦争からもいつか手を引かなければならないと思っていたのだけれど、軍部や、政府などの中の空気がそれを許さない雰囲気だったので、反対できなかった。」という意味のことを多くの人間が口にしたと言われています。


もちろん自分が責任から逃れたいがための言い訳の部分もあるでしょうが、実際に彼らが、軍や政府の仲間内の共同体メンバーの中で強い同調圧力を感じ、お互いがその空気に押し流される形で、戦争に突入していったことは事実だと思います。


ここでポイントになるのが、同調圧力がかかる集団が国家ではなく、「関東軍」や、「大蔵省」といったいわゆる「共同体」であったということです。


ナチスドイツのような国家全体主義ではなく、自分が属している集団の他のメンバーからの視線を気にするムラ社会的な全体主義だったといえましょう。


この裁判までは、連合国側では、日本もナチス・ドイツのように、独裁者がいて、その独裁者の意思決定によって戦争に突入したと考えられていましたが、日本においては、結局「こいつに責任がある」という人間を特定できませんでした。


山本七平や、丸山真男といった旧世代の学者から、最近では猪瀬直樹といった学者・評論家にいたるまで、この「空気の支配」が、日本が戦争に巻き込まれていった原因だと分析しています。


ムラ社会的な日本においては、この「空気の支配」が、共同体と、そのメンバーたる個人を覆っており、戦前の軍部・政府だけでなく、マスコミや、財界、一般大衆にいたるまでこの「空気」に抗えないまま、戦争に突入していったと彼らは分析しているのです。

言ってみれば、日本人は「KY」と呼ばれるのが怖くて、戦争に突き進んだと言えるでしょう。


(2)KYと戦後のサラリーマン社会


敗戦後の日本人の実存のベースになったのは、会社共同体でした。


サラリーマン社会では、終身雇用・年功序列制の下に「家族的経営」が行われました。


長く会社に勤めるほど給与・ポストが上がる人事システム+転職市場がないため、、組織や上司の方針に納得がいかなかったり、自分の実力をもっと評価してくれる他の会社に移りたくても、結局新卒で入社した会社に留まらざるを得ない人が大半でした。


もちろん転職する人もいましたが、退職金を含めた生涯賃金は下がる場合がほとんどだし、社会からの評価は「負け組」でした。


こうして、一度新卒で入社したら、一生その会社に属する慣行が成立しました。


一生一つの会社にいることが前提のサラリーマン社会では、会社のためよかれと思って、上司や、会社の方針に異を唱える生き方よりも、組織の和を保つために自分の意見を押し殺す保身を強いられる生き方が主流だったと言えるでしょう。


会社の不正や、経営方針への批判など、会社共同体の和を乱す言動をする者は、まさに今で言う「KY」な人間として疎外されていたのではないでしょうか?


むしろ、自分の会社が常に拡大・成長し続けることが年功序列・終身雇用システムを支えていたので、逆に自分の会社(官僚なら自分の省庁)が拡大するなら、会社の不正にも目をつぶり、会社への不満も我慢するという人間が多かったのではないでしょうか?


ところが、バブル崩壊以降、リストラ・成果主義の導入で、終身雇用制や、年功序列といった、今までの日本を支えてきたシステムが崩壊したと言われています。


終身雇用制や、年功序列制は、日本経済の戦後の急速な成長に支えられていましたが、成長が鈍化し、そのコストを企業社会が負うことが限界に達したのです。


外資系企業の参入などもあり、実力ある社員が他社に転職する転職市場も出来てきました。(雇用の流動化)


転職せず会社に居続けるとしても、会社内での昇進や位置づけに自分の実存を置くのではなく、私生活や趣味に実存を置く人も増えています。(価値観の多様化)


仕事に没頭するにしても、会社内での昇進を目指しての没頭でなく、自分の仕事そのもののやりがいに没頭したり、個人としてのキャリアアップにつながるスキルを身につけることへの没頭する人が増えています。(仕事観の変化)


「新卒で入社した会社に一生居続けて、会社に尽くすのが普通」の社会が崩れ始めたことにより、会社に対するサラリーマンの態度が変わってきました。


バブル崩壊後、会社・官庁・警察・学校の不正や問題の隠蔽に対する内部告発により、戦後今までは明るみに出なかった様々な企業や組織の問題点が明らかになっています。


2007年にKYと並んでよく流行った言葉が、「偽装」ですが、2007年には内部告発により様々な組織の不正が次々と明るみに出ました。(例:社会保険庁の年金問題、厚生労働省の薬害エイズ問題、防衛省の利権問題、食品会社などの偽装問題、いじめ自殺が起きた学校による事実の隠蔽など)


これは、もちろん、「組織が急に不正をするようになった」のではなく、今まで隠蔽されてきた不正が内部告発の増加により明るみに出てきたにすぎません。


雇用の流動化により、「今自分のいる会社にしがみつく」いわゆる会社人間が減り、そうした人間の中から内部告発が出ているからだと考えられます。


(3)若者たちとKY


このように、「会社共同体に自分の実存のゲタを預ける」人間が減ってきたのは事実だと思いますが、だからといって、近代的な個人主義が日本人の中に根付いたとは言えないようです。


特に「KY」といい始めた若い世代は、会社や、地域、家族といった共同体にはあまり思い入れがない反面、友人関係・同じ趣味を持つ仲間うちで、「浮く」ことを非常に嫌がります。


携帯やメールが爆発的に普及してから、「常に友達や彼氏や彼女とつながっていないと不安」という若者が増えました。


逆に、「友達」や「仲間」共同体の範囲の外側の他者とのつきあいは薄まっていますし、一歩「友達」「仲間」共同体の外に出ると、他者に対する規範意識は薄まるようです。


例えば、電車の中でまわりの迷惑を気にせずにメイクをしている女の子が、友達に会うと、「いい子」を演じている。というような例がわかりやすいでしょうか?


最近話題の「ネットいじめ」に興じている人間が、クラスでの親しい友人に対しては、「とても気を使ういい奴」だったりします。


 自分の身の回りの「仲間共同体」からの目線を一番気にする今の若者にとって、その仲間とのコミュニケーションにおいて、「相手とノリを合わせる」ことによって、共同性を感じることは非常に大事なことです。


 「ノリをあわせるのが下手な奴」を「KY」として、仲間の中で笑う対象として疎外することによって、さらに仲間との「ノリ」による共同性を強化する。


 これがKYという言葉が出てきた背景ではないでしょうか。


 「共同体から浮くことを何より恐れる」日本社会の風土は、対象となる共同体が変わっただけで、今も続いています。


 明治維新後、福澤諭吉はじめ多くの知識人が、この風土を批判し、「共同体の同調圧力に流されない主体的な判断ができる個人になろう」と呼びかけてきましたが、この21世紀においても、「KY」という言葉が流行るということは、状況はあまり変わっていないということでしょう。


(4)KYと言わない子供を育てる教育


 この問題を日本の教育の課題という面から見ると、今までの日本の教育は過剰に「協調性」重視の教育をしてきたと言えないでしょうか?


 戦前・戦後を通じて、教育の中心は個々の判断能力や、主体性、倫理観を強化することよりも、集団行動への適応であり、協調性ある人間を育てるという点に置かれて来ました。


 先生にひんぱんに質問する知的好奇心ある子供よりも、先生の言うことに大人しく従う子供が好まれ、個性を出しすぎたり、自己主張しすぎる帰国子女の子はいじめの対象となりやすいのは、今も昔も変わりません。


 近代先進国のテレビの教育番組では、他国の教育番組は、まず「主体性を問うメッセージ」(例えば、「君は何をやりたいのかな?」)を前面に出してから、「他者との相互理解のためのコミュニケーション」=「君が自分のやりたいことをやるには相手に君の考えを伝えないといけないし、相手が何を望んでいるかを理解して、相手の希望をかなえてあげないといけないぞ」というメッセージを出していきます。


 これに対して日本の教育番組では、「みんなと仲良く」というメッセージが強く出て、主体性を問うメッセージが少ないですし、自己主張の強いキャラクターを悪者に持っていくケースが多いようです。


 子供の頃から、「周りと仲良く」=「相手とのコミュニケーションにおいて相手に不快感を感じさせない」ということばかりが言われ、「何のために他者とコミュニケーションをとるのか?」という点を考えさせない教育になってしまっているのではないでしょうか。


 価値観が多様化する社会においては、個々の人間が自立した上で、他者と共生していくことが求められます。

 

 自立なき共生は、他者への依存に陥ります。


 「君はどんなときに楽しいと思うのか?」「君が美しい、かっこいいと思うのはどんなことか?」「君が許せないのはどんなことか?」ということを教師が常に子供に問いかけ、「自分がやりたいことは何か?」を考えさせるのは近代市民社会の教育の基本ですが、今までは、「みんなといっしょに」「なかよく」ばかりが強調されていたと思います。


 日本の教育の大きなもう一つの柱は、「勉強してよい大学⇒よい会社(あるいは官庁)と歩むのが良い人生」動機付けでしたが、「よい学校⇒よい会社⇒よい人生」という考え方が大いに揺らいでいる昨今は、動機付けになっていません。


 昨今の学力低下も、一番の原因は、この人生モデルの揺らぎによって、学校の先生が生徒におおっぴらに「よい学校⇒よい会社⇒よい人生」と言えなくなっているからだと思います。


 戦後教育の価値観の二つの柱のうちの一つが機能しなくなった結果として、今子供たちが毎日学校でリアルに頭から叩き込まれる価値観は、「みんなといっしょに、みんなとなかよく」だけになってしまったといえます。


 こうした環境で育った子供たちが、友達に対するコミュニケーションを過剰に気にするのは当然と言えましょう。


 コミュニケーション能力は確かに大事です。しかし、他者とコミュニケーションを取る前提として、個々の人間に哲学・世界観・倫理観があり、それをベースにした個々の判断を尊重しなければ、人間の社会はサルの社会と変わらなくなります。


 これからの教育に必要なのは、子供たちひとりひとりに「自分は何をしているときに幸福感を感じるのか?何を美しいと思い、何を許せないと思うのか?何をやりたいのか?」を常に問いかけ、自分の価値観や倫理観を判断のベースにする子供を育てることだと思います。


 こころある教師たちや、多くの学校でこの「生徒に主体性を持たせる教育」を試みていますが、まだまだ効果が薄いようです。


 私も微力ながら、自分の塾で、「KYと言わない子供」「KYと言われても屈しない子供」を育てていきたいと思います。