佐藤元彦の「教育から日本を変えよう」 -2ページ目

大卒価値の低下について①

1. 今、大学で何が起こっているのか?


今回は今大きな変化が訪れている大学と大学入試の姿を追い、今後あるべき大学の姿を考えてみたいと思います。


私が大学受験生だったころ、1992年。ベビーブーム世代の頂点がこの年であり、大学受験の競争率は過熱の一途をたどっていました。


当時は、大学受験予備校が一番経営が良かった時期であり、一つの校舎に2号館・3号館が増設されるのが当たり前でした。


最近人気低下傾向にある日東駒専レベルの中堅大学でも今と比べればだいぶ人気が高く、大東亜帝国レベルの大学でも、学生を集めるのに苦労していない時代でした。


バブル崩壊までの日本社会では、「有名な4年生大学を出ておけば、大手企業に就職できる」という暗黙の期待があり、みんなが明らかに今よりも「有名大卒」の肩書きに価値を感じていた時代でした。


しかし、その後進んだ少子化(+小子化にもかかわらず進んだ新大学・学部の創設)が、大学入試倍率を引き下げ、「大学全入時代」が到来しています。


2006年春の入試で40%以上の大学が定員割れし、2008年で47%以上の大学が定員割れしました。


もちろんこれは大学全般が入りやすくなっているのではなく、定員割れしているほとんどは入試偏差値下位大学であり、上位大学(国公立・早慶上智・MARCH)と、中・下位大学の人気格差拡大が目立ちます。


人気の低迷する中・下位大学では一般受験だけでは募集枠を満たせず、AO・推薦入試合格者を年々増加させています。


一般入試の問題レベルも大きな格差があり、下位大学の入試問題は高校入試なみのレベルのものもあります。


「みんなが大学に行くのが当たり前」になったことの弊害として、「大学生の質の劣化」が問題視されています。


中・下位大学に入りやすくなった弊害として、学生の学力低下が問題視され、大学の授業についていけない大学生が増えています。


特に「推薦で高校⇒大学」と進学するケースが増え、「中学英語ができない大学生」が大量発生していると言われます。


また、学力以上に問題なのが、「大学で何をやりたいか?」「大学を出てから社会に出て何をやりたいか?」ということについての意欲の低下です。


最近の統計調査によると、日本の大学生の7割以上が「将来やりたいことがない」と答え、日本の高校生の7割以上が「大学に行ってやりたいことは特にない」と答えています。


この数字は、中国やインドといった成長途上の国の学生とは比べものにならない低さですが、先進国の中でも異常に低い数値です。


日々の生活の有様においても、本を読まないのは当たり前になってしまい、授業中に教室内で携帯メール、私語をする学生がいるのが普通の風景になってしまっています。



2. 就職における「大卒」価値の低下と、大学側の改革の動き


今までに述べたように、大学間の人気格差が拡大し、特に中下位大学を中心に学生の意欲・学力が低下していることは企業側も認識しています。


特に、バブル崩壊以降、企業側の人事戦略が変わり、いわゆる「日本的雇用慣習」が薄まることにより、企業側の学生を見る目が変わったと言われています。


バブル崩壊前は、①終身雇用②年功序列③新卒一斉採用に頼り、中途採用は最低限 というのが、日本の雇用慣習でしたが、バブル崩壊と、株主利益を重視するアメリカ的資本主義の浸透により、この慣習が崩れてきており、リストラ、能力主義による評価・給与、に加えて、新卒採用のしぼりこみ+中途採用の拡大が進んでいます。


大企業が正社員を採用する場合には、単に「有名大学卒」というだけでは採用せず、将来に企業の中核になりうる「コア人材」候補を中心に採用するようになってきており、単純な仕事は派遣・パート・契約社員を採用して任せる会社が増えてきています。


そのため、有名企業へ正社員での入社を目指す学生は、同じ大学でも内定を多くもらえる学生と、数十社面接を受けても落ちる学生に二極分化していると言われます。


景気回復後、現在新卒採用は再び増えて、「学生売り手市場」と言われますが、一部の優秀な学生に内定が集中し、いつまでも内定をもらえない学生がいる傾向は変わっていません。


「入るのは難しく、出るのは簡単」だった日本の大学が、「入るのも易しく、出るのも易しい」場所になってしまったことにより「大卒」の価値が低下し、採用時に能力・意欲でふるいにかけ、入社後も能力・実績により格差をつける会社が多くなったと言われています。


企業側から見て、「ダメ人間」としか思えない大学生が増えています。


①学力が低い大学生(入試の易化や、推薦・AO合格者の拡大により、以前では考えられないような低学力でも大学に入れた学生、高校に行くのと変わらぬ意識で大学に入ってロクに勉強していない学生)


②意欲の低い大学生(就職に対する意識が甘く、何のために就職するか考えていないため、ただ安定した有名企業に入れればよいとしか考えていない依存心の強い学生)


③コミュニケーション能力に著しく欠ける大学生(難関大学に合格するために、低学年から勉強中心の生活を過ごし、コミュニケーション能力がつかないまま大学に入ってしまい、その後も他者とコミュニケーションを取れないまま過ごしてしまっている大学生)


以上の3タイプの学生は明らかに敬遠したいところでしょうが、今の大学はこうした学生を大量生産し続けています。


大学側もこうした「大学生の劣化」に危機感を抱き、様々な改革の手を打っています。


特に、受験での人気が低迷する傾向にある中下位校で、「情報○○学部」「国際△△学部」といった名前をつけた実学重視の学部・学科の新設が多く、パソコンスキル・英語・プレゼン技術を身につけられる(イメージがある)学部が増えています。


また、経済学部や経営学科といった古くからある実学系学部に人気が集まり、法学部も含めて、「資格取得を支援する」ことを売り物にする学校も増えています。


就職活動の支援についても、昔の大学からは考えられないレベルまでサポートする大学が増えています。


これらの動きは、就職に関する不安から、「大学のうちに何か専門的スキルを身につけないとマズイ」という、マジメ系の大学生をターゲットにしており、実際に彼らの支持を受けていると思いますが、果たして企業側が大学生に求めているものとマッチしているでしょうか?


企業側は、確かに若い社員に対して、「専門的スキルを持って働くスペシャリストになってほしい」とよく言いますが、そのスキルはあくまで企業に入って、実務の中で覚えていくものと考えている会社がほとんどです。


就職活動の面接で、「大学で学んでいることを活かしたい。」ということを言う大学生は、新卒採用を行う人事担当者からは敬遠されます。


旧来の学問・教養色の強い大学教育の内容が、企業に入ってから直接役立つものではないことはよく知られていますが、経済・経営・法律知識といった一見仕事の実務で役立ちそうな実学であっても、大学の教員はあくまで研究者であり、仕事のプロでない以上、企業内教育や専門学校以上のスキルを身につけさせることはできないでしょう。


語学やパソコン技術にしても、あくまで仕事をしていく上での手段にすぎず、「専門性」と言えるほどの決定的な差を、他の学生に対してつけることはできません。


むしろ、企業側が評価するのは、「私は御社での仕事を通じて○○○○を得たい」というような、仕事に対するモチベーションの高い学生や、地頭の良い(=単語や年号を暗記するような頭の良さではなく、頭の回転がきき、問題解決能力にすぐれていると言う意味での頭の良さ)学生です。


学生時代にちょっと仕事のスキルをかじっている新卒社員でも、企業に入ってからの競争では、意欲があり、地頭の良い新卒社員にすぐに逆転されてしまうのが現実です。


こうしたことから、私は、「グローバル○▲学部」などといった名称をつけた学部を新設し、「企業に入ってから役立ちそう」な専門性を売り物にした教育を行う大学には、あまり未来を感じません。


では、大学教育にできることは何なのでしょうか?

大卒価値の低下について②

3.大学の「教養人育成機能」と「エリート選抜機能」


もともと、大学は中世のヨーロッパで本格化し、自然科学・社会科学における様々な発見や発明を社会にもたらし、近代文明・文化の発展の原動力となりました。


中学や高校と大学の違いは、中学・高校は国家が教育内容を「教科書」という形で標準的な枠の中で定めていくのに対して、大学は学問内容が自由であり、先人たちの発見してきた研究成果を土台にしつつも、それを乗り越える形で、新しい発見を目指すところに特色があるので、中学・高校が「教育機関」であるのに対して、大学は「研究機関」であるところに本質があります。


その「研究機関」としての大学に、近代国家成立以後、「エリート選抜機能」が与えられました。


近代国家では、国家における官僚(国家エリート)、民間企業における幹部社員(民間エリート)の選抜において、名門大学(イギリスならオックスフォードやケンブリッジ、アメリカならハーバードなど)出身者が優先的に採用されるようになりました。


大学で、最先端の学問にふれ、高い知性・教養を持っていることが、国家エリートや、民間エリートの選抜においても、重要なポイントになったのです。


大学が本来持っていた「教養人育成機能」から、「エリート選抜機能」が生まれたといえましょう。


明治維新で近代化をめざした日本においても、ヨーロッパ式の大学の制度が導入され、東京帝国大学を中心とした名門大学が、国家エリート・民間エリートの供給源になりました。


今でも、世界中で、「名門大学」はエリート選抜機能を果たしており、「学歴によって就職が有利になること」は日本だけのものではありません。


しかし、日本の学歴主義に特有の点として、


大学の「エリート選抜機能」が過度に注目され、「教養人養成機能」にほとんど重きが置かれないこと、


名門大学卒がエリートとして優遇される根拠が、「大学で知性・教養を磨いたから」ではなく、「名門大学の入試に合格したから」という点に置かれていること、


があげられます。


特に②の事実は、「日本の大学は入るのは難しく、出るのは簡単だから、どれだけ難しい入試を突破したかを人物評価の基準にせざるを得ない」からだと説明されますが、事実はどうなのでしょうか?


私は「日本の大学の方が入るのが難しい」とはいえないと考えます。


海外でも名門大学の入試を突破するのは非常に難しく、「海外の名門大学の方が、日本の名門大学より入試は楽」といは必ずしもいえません。


しかし、「日本の大学の方が、海外の大学より入学してからが楽で、簡単に卒業できる」という評価については、正しいと思います。


ですから、「名門大学に入学するのは、日本でも海外でも難しいが、入学後卒業するのは海外の名門大学の方が難しいから、日本の大学生の評価はいかに難しい入試を突破したかに求めざるを得ない」というのが正確でしょう。


問題は、なぜ日本の大学が「卒業するのが楽」か?ということです。


私は今の日本人が、大学の「エリート選抜機能」ばかりに目を向け、「教養人養成機能」に目を向けないことが最大の原因だと考えます。


フランスでも、ドイツでも、有名大卒は「高い知性と教養を持っている(であろう)から」一目置かれるのであり、「難しい入試を突破したこと」ということだけで評価されることはありません。


そもそも社会の中において「知性と教養」がどれだけ重視されているか?が、日本社会と他の先進国の社会では違うのだと思います。


欧米先進国においても、中国・韓国などアジア諸国においても、今の日本ほど教養に価値が置かれない国はありません。


「教養」とは、どこの国でも、官僚や、経営者や、医師や、教師といった、いわゆる「エリート層」が共通して持っていなければならない常識のことを指します。


例えば、フランス革命について、「何が起こったか?」なら日本の有名大学の卒業生でも答えられるかもしれないですが、「人類にとってどんな意義があったか?」について語ることができる者はごくわずかでしょう。


百歩譲って、自国の大きな転換点である、「第二次世界大戦の敗北」について聞いても、「何が起こったか?」を言えるだけで、「どんな意義があったか?」を語れないのが日本の大学生です。


これを「歴史を知っていても、歴史観を持っていない」状態と言います。


両方の問いにおいても、何か正解があるわけではありませんが、個人個人が歴史について考え、自分なりの意見を持つのが世界中のエリートの当たり前の姿です。


こうした「歴史観」以外にも、「言語能力」「論理的思考力」「哲学」といった、専門的知識以前の基礎的な教養を重視するのが、海外の名門大学の伝統です。


とりわけ、オックスフォードなどヨーロッパの大学は教養課程を、非常に重視します。


例えば、経営の最先端の理論を学びたいという学生がいるとしても、いきなりそこから教えることはまずしません。


文系なら教養課程で、歴史・哲学・心理学その他人文科学の基礎教養を学び、「人間について」「社会について」幅広く考えることなくして、いきなり経営理論を学んでも、土台のないところにいきなり家を建てるようなものだとします。


理系でも教養課程で、数学や物理学など基礎理論をしっかりと学んでから、応用・専門分野に入っていく伝統があります。


日本においては、大学内で「自分の専門分野のことにしか興味が無く、他の学問をやっている人とは話もしない」という、「知のオタク」的な学者が増えてしまい、「学問のタコツボ化、島宇宙化」が進んでいることが問題になっています。


国家エリートでも、民間エリートでも、学者の世界でも、基礎教養を持つエリート層が減ってきているのが、日本の現状です。(そもそも、そのような人たちをエリートと呼べるかどうかわかりませんが・・・)


また、社会全体が、「知性がある人」よりも、「人柄の良い人」や、「周囲の人に気が使える人」を好むムラ社会的な風潮が強いため、知性がある人が、それを全面的に表に出してしまうと、嫉妬の対象になってしまう状況があります。


そのため、「知性を磨こう」ということが、動機付けになりにくい風土が日本社会にはあります。



4.大学再生への提言


欧米含め、他の先進国では、社会における知性や教養の位置づけが高いため、大学には「教養人養成機能」をまず求めます。


その「教養人」の裏づけがあるからこそ、名門大卒生を「エリート」として認めるのです。


そのために、大学が学生を卒業させるということは、「知性・教養があると大学がお墨付きを与える」ことに他なりません。


本など全く読まず、気になるのは自分の身の回りのことだけで、社会に関心を持たず、知性・教養を磨かないバカ学生を簡単に卒業させてしまえば、その大学の社会的評価が下がるだけなので、単位を簡単に与えなかったり、死ぬほどレポート漬けにしたりするのです。


そして、「知性と教養を高め、その土台をもとに専門的に学ぶ」というプロセスの中で、将来の職業についての志を高める機能が、まともな国の大学にはあります。


教養課程で、幅広く教養を積み、専門課程で自分の専門の学問(例えば法律や経済や建築学など)の視点から社会全体にどう貢献できるかを考え、他の学生や教授と議論していく中で、個々の人間の中に志が生まれていくこと、これが知性・教養を高めることの最大の効果だと思います。


日本の大学は、小子化により、人気が落ちて、入学するのが簡単になり、今までのような「大卒=難しい入試を突破したエリート」という評価を得られないようになったのだから、単位認定・卒業を厳しくして、学生に知性と教養を磨かせるべきだと私は思います。


難関大学も、昔よりは入試が楽になっており、人気に甘えて改革を怠り、バカ学生が増えている大学も多いので同様の動きが必要です。


しかしながら、「単位認定・卒業を厳しくする」ことに対して、「人気の低迷している大学」「自分の授業スキルに自信がなく、研究だけに没頭したい教授」ほど反対し、抵抗します。


大学としては、単位認定・卒業を厳しくすれば、目先のことだけ考えれば、大学入試における人気は一時的に落ちます。


リスクを恐れる大学側としては、そんな抜本的な改革をするより、AOや推薦の枠を増やして、なんとか補助金を打ち切られないだけの生徒数を確保して、その場をしのぐことに逃げています。


そして、大学教授の側でも、基本的に自分の研究と、大学内での出世にしか興味のない人間が多く、特に「自分の授業スキルに自信がなく、つまらない授業しかできない教授ほど、単位認定を厳しくして自分の授業を受講する学生が減ることを恐れ、単位認定を甘くしがち」ということは、大学に通ったことのある人なら誰もが体験したことではないでしょうか?


しかし、今の大学の現状を放置すれば、バカ学生を大量に社会に送り出して、結局大学の社会的信用は落ち続けるだけとなり、ごく一部の難関大学だけが、相変わらず「難しい入試を突破しただけのエリート」を生み出し続けるのでしょう。


その「難しい入試を突破しただけのエリート」では、国際競争で、欧米はもちろん、中国やその他新興国の「知性と教養ある真のエリート」に太刀打ちできないことは言うまでもありません。


国主導で、大学改革を進める覚悟が必要です。その中で、改革に失敗する大学が多数淘汰され、教育マインドの無い教授たちが多数職を失うことになるでしょう。


しかし、そうした血を流してでも、「教養人育成機能」をベースにした「エリート育成機能」をつけることしか、日本の大学の再生の道はありません。

教員採用汚職と教育改革

1.ムラ社会的共同体と教員採用汚職

 今回は、教育界を揺るがしている教員採用汚職問題から、日本の教育の本質的な改革を考えてみます。

 事件の概要は、最近よく報道されているとおりですが、問題はこの問題を大分県だけの問題と考えず、どこまで広い範囲の疑惑としてとらえるか?という点です。

 マスコミも、「大分県だけでなく、他の県でも同様の汚職が、採用や、昇進に際して行われているのではないか?」という疑惑を報じています。

 特に、都市部よりも地方において、教育委員会と地方の有力者の癒着がひどいという声がよく聞かれます。

 地方であればあるほど、教員は人気の職種で、倍率も10倍以上の難関になるため、採用権限を握る教育委員会の権限が肥大化していることが大きな原因ですが、地方が都市よりも、「コネ社会」度合いが強く、地元の有力者からの口利きによって、採用や昇進が左右されやすい、と言えると思います。

 戦後日本社会では、ずっと日常的なものとして、公共事業での談合や、有力者の子弟が不祥事や事件を起こした場合の揉み消し、就職における口利きが行われてきました。

 ムラ社会的な共同体が色濃く残る地方では、地域の有力者への口利きという風土が都心よりも強く残っています。

 「法やルールよりも、地域に顔が利く有力者に取り入った方が問題を解決できる」というムラ社会的メンタリティを支える「地域の有力者」とは、例えば、田中角栄に代表される中央地方型の利益誘導ができる地元の有力政治家、代々その地域に根付いている建設業者など地域の有力企業の経営陣、警察、役所の有力者などですが、学校も地域社会の核の一つであり、そのトップたる校長や教頭、その上に立つ教育委員会メンバーは立派な「地域に顔が利く有力者」です。

 学校という狭いムラ社会では、法や、公平性よりも、教育委員会メンバーはじめ有力者に取り入ること=にらまれないこと、が上手く生きていくために不可欠だったということでしょう。

 しかし、バブル崩壊以降、会社共同体がサラリーマンに対して持つ影響力が低下し、サラリーマンの会社への依存度が低下した結果、会社の不正を内部告発するサラリーマンが出てきたのと同様に、学校関係者の中でも、最近トップの不正を告発する人が増えてきました。

 今回の汚職も「昔からやっていたこと」が、この流れ(学校共同体の共同体メンバーや地域への影響力低下内部告発の増加)で、表面化したと見るべきでしょう。今のように生徒・保護者・マスコミが学校に対して「うるさい」時代になる前は、今以上に採用や、昇進で口利きが行われていたと見るのが自然でしょう。

 「なんであんなダメ人間がウチの会社に採用されたのだろう?」と思ってよくよく聞いてみると、コネ入社の社員だったということは日本企業にはよくあることですが、学校の先生については、人気の職業であるにもかかわらず、「なんでこの人が先生になれたんだろう?」という人がとても多かった記憶があります。

 国民の税金で行われる公教育が、コネによる採用や、口利きによる人事に蝕まれていることはもちろん許されざることですが、私立校の「コネがなければ教員になれない」現状も同様に問題だと思います。

 なぜなら私立校も国から多額の補助金を助成されており、それなしには経営が成り立たないからです。

 国から補助金をもらう以上、教員採用においてはコネや情実ではなく、実力ある人材を広く求めて、最高のサービスを提供するべきでしょう。




2.教員たちが教育改革に反対する理由

 安部政権の下で、教育再生会議が教員免許更新制を
導入し、指導が不適切な教員に対する人事評価の厳格化、社会人出身教員の増員を提言しました。

 指導力不足の教員が多いことが問題視されて教育改革の動きが出てきたのですが、現場の教員や学校サイドの抵抗が強く、免許更新制も手ぬるいものになったように思います。

 教育再生会議が「指導力不足教員が多い」現状の原因として、「一度採用されたら、無能な教員でもクビにならない」学校教員+「生徒が集まらないダメな学校でもつぶれないため教育の質を上げようと努力しない」学校が多数存在することを挙げています。

 この現状を変えるために、教員同士の競争を促進する人事制度、学校同士の競争を促進する学校評価制度という意味でのマーケットメカニズムを教育に導入することを提言しています。

 これに対し、教員・学校サイドは、「教育はマーケットメカニズムになじまない」として強く抵抗しています。彼らは、「市場原理になると先生が生徒に対する人気取りに走るので、厳しく生徒を指導することができなくなる」とか、「学校間の格差の拡大が起こる」と批判しますが、今回の大分県の事件で教育界の構造的な問題が明らかになったことで、教育改革を批判する人たちが何を守ろうとしているかがはっきりしてきました。

 「指導力不足教員」が生まれる理由は、いったん採用されたら身分が保障されてしまうので、教員に採用されてから指導力を磨かなかったゆえに、ダメ教員になっているということだけではなく、そもそも採用される時点で、「上げ底」で採用試験に合格し、コネによって学校に採用される人間が多いからということも大きいのではないでしょうか?

 教育再生会議の提言の大きな目玉は、教員免許更新制度学校評価制度でしたが、教員免許更新制は抵抗によって骨抜きにされた印象ですし、学校評価制度は強い抵抗で導入すらできませんでした。

 学区制を守ることによって、本来なら淘汰されるべき学校が存続してきたことも歴史的事実です。

 学校が市場で評価され、教員の質が問われる時代が来ることは、コネ採用された教師たちや、利権を温存したい教育委員会や学校関係者にとって、一番嫌なことなのでしょう。

 しかしながら、今回の事件で学校や学校関係者への信頼がガタ落ちしたため、今後は彼らの主張よりも、教育改革派・マーケットメカニズム導入派の意見が通りやすくなると思います。

 80年代以降、グローバルな経済に飲みこまれ、規制緩和・自由競争の流れの中で、多くの業界が、国や規制に守られた体質を改め、国際的競争力をつけるために、終身雇用・年功序列から能力主義に切り替えているのに、国際競争力ある人材を育てなければいけない教育が、一番保守的で、前時代的な状況にあります。


3.マーケットメカニズムと教育

 「マーケットメカニズムは教育になじまない」という学校関係者の言葉の真の動機(=コネや情実で動く共同体的な社会を守ること)はさておくとして、その主張そのものは妥当性があるのでしょうか?

 「マーケットメカニズムに委ねると、先生が生徒に人気取りをするようになり、厳しく指導できなくなる」と森永卓郎氏(格差社会批判で有名。「年収300万円時代の生活術」などの著作がヒット)が言っています。

 私が長く関わっている最近人気の「個別指導塾」の業態では、生徒が先生を選べる塾が多く、少なくともどの個別指導塾も、生徒が嫌がる先生を無理やり担当にさせ続けることはしない(そうしたら生徒が塾をやめてしまうから)ようです。

 個別指導塾に対する批判として、「先生が生徒の人気とりのために、厳しく指導できず、なあなあの友達感覚の先生になってしまう」と言う人がいます。

 確かに、個別指導塾では、学生アルバイトの講師が多く、仕事を楽にやりたい講師が、生徒が宿題をやってこなかったり、叱らなくてはいけない局面でも、厳しく対応することを避け、友達感覚でなあなあで済ませてしまうことがあります。

 しかし、学生講師であっても、責任感を持って生徒と接する講師は、その生徒のためを思えば叱らなければならない局面では、厳しく生徒を指導しています。

 そして、今までの私の塾長としての経験でいえば、「友達感覚の講師」と、「生徒に対して厳しく対応すべきときは、厳しく接する講師」であれば、圧倒的に「厳しい先生」の方が人気があります。

 生徒に対して思い入れがあるからこそ一歩ふみこんで叱れるわけで、その思い入れを感じた生徒は、なあなあでやっていく先生よりも厳しい先生についていく場合が多いです。

 もちろんただ厳しいだけでなく、コミュニケーション能力があり、生徒の本音を引き出すことができる先生が、コミュニケーションによって生徒の本音を引き出して、生徒の状況や、何を考えているのかを正確に把握した上で、パターナリスティックな叱り方(一律的な型どおりの叱り方)でなく、その生徒個々の問題点を把握したうえで叱る「個別的な叱り方」をすることが必要です。

 今まで私がみてきた「厳しい先生」に決まって共通する点として、「コミュニケーション能力が高い」ことが上げられます。生徒と本音で話せる関係を作れないコミュニケーション能力の低い先生は、「自分が何を言っても生徒に対する影響力が低い」こと+「生徒が何を言われたら本当に「イタイ」と思うかを把握していないので、生徒が聞く耳を持たない」ことを知っているがゆえに生徒に厳しくできません。

 実際に「思い入れがあって厳しい先生」に習う方が成績が上がるので、厳しい先生の方はますます人気が高まります。いくら勉強が嫌いな子でも、成績が上がってうれしくない子はいませんし、保護者からの信頼が高まります。

 逆にいくら「友達感覚の仲良し先生」の授業が楽しくても、成績が上がらなければ、生徒はついていかないですし、成績が上がらなくてもどうでもいいというやる気のない生徒でも、保護者が許しません。保護者の目から見て、成績が上がらず、なあなあの授業になっているなと感じたら、保護者はすぐに塾をやめさせます。

 先生同士の「魅力の競争市場」の中で、なあなあの指導しかできない先生は、人気の先生にはなれません。そして、「なあなあの、友達感覚の先生が多い」あるいは、「思い入れをもって、厳しく指導してくれる先生が少ない」と顧客に思われた塾は、生徒が集まらず、塾同士での「魅力の競争市場」から退場させられます。

 「教育にマーケットメカニズムを導入すると先生が生徒の人気取りに走る」という考えは、生徒・保護者を馬鹿にした発想に思えます。「生徒への思い入れに基づく、個別対応」ができる塾かどうかを生徒・保護者はよく見ています。

 「生徒や保護者の支持」がなければやっていけない学習塾でこそ、「なあなあの仲良し先生」しかいなければ他の塾に負け、淘汰されるのが事実であり、「教育にマーケットメカニズムを導入すると厳しい指導ができなくなる」という主張は教育現場の現実を知らない全くのデタラメです。

 そして、教育に一番求められている指導スキル=わかりやすい授業をする力については、市場競争にさらされているために、塾の先生の方が圧倒的に優位に立っていることは言うまでもありません


4.塾から提案する新しい先生像

 もちろん、学習塾でやっていることをそのまま学校に適用するのは難しいかもしれません。

 しかし、学校においても、生徒・保護者に本当に人気のある先生は、生徒への思い入れがあり、コミュニケーション能力が高く、生徒個々のことを把握でき、生徒個々に対して「個別的な叱り」ができる先生なのではないでしょうか?

 そして、先生である以上当然の条件であるプロとしての指導スキル についても、(学習塾の先生と同様に)今の学校の先生は高める努力を求められています。

 学習塾の先生は、学校の先生と違い、きわめて不安定な存在です。

 生徒にとって、学校をやめるよりは、塾をやめるのは気軽であり、「昨日授業した生徒が、塾をやめてしまって今日からはもう二度とこない」ということはよくあります。

 塾を選ぶのは生徒や保護者であり、塾に入塾するときも、いくつかの塾を体験授業で試してから、どこの塾に通うのかを決めるのが普通ですから、塾は、「選んでもらえなければ市場から淘汰される不確かな存在」なのです。

 しかし、流動的な市場競争(「いくらでもかわりの先生はいる」「いくらでもかわりの塾はある」「塾に行くのも生徒・保護者の選択肢の一つにすぎず、部活や、遊び、習い事など他にやることはいくらでもある」という状態)の中で、偶発的に出会った生徒と信頼関係を作っていくことが、塾で働く人間の生きがいと言えます。

 塾の先生にとって、生徒とは、「明日自分の前からいなくなるかもしれないけれど、上手くいけば学校の先生と生徒の関係とは比べものにならない深い関係を築き、人生に影響を与えることになるかもしれない相手」なのです。

 流動的な市場環境の中で、偶発的に「出会う」からこそ、そこで深い絆を作ることに価値を感じ、夢を持てるし、プロとして常に指導スキルを磨き続けなければならないからこそ、自分自身にプロ意識を持てるのが塾の先生のマインドです。(しかしながら、最近大手の学習塾が増えた結果、上に述べてきたようなプロ意識を持たず、会社に依存した「寄らば大樹の陰」マインドの塾の先生も増えてきているので、これからの学習塾は「寄らば大樹の陰」化した人々を淘汰していかないと学校同様魅力を失います)

 これに対して、今の学校の先生は、あまりに身分に守られた存在と言わざるをえません。

 大学を出たばかりの先生でも、いったん採用されたら身分が保障され、担任するクラスの中では、絶対的な存在になります。

 指導スキルの向上や、生徒との信頼関係作りに努力をしなくても生き残っていける環境に置かれていれば、自然と教師としての力は落ちていきますし、「自分の教師としての力をアップさせるよりも、いかに学校の中の権力者に気に入られるか?」にエネルギーを注がなければならない環境ならば、生徒や保護者に目を向けるエネルギーが無くなっていくことは必然的です。

 もちろん、指導スキルの向上と、生徒との関係作りに熱心に取り組む先生が大半であると思いますが、市場競争にさらされている学習塾の先生と比べると、「自分を磨く努力をしていない人」が、学校の中にはより多くいると思います。

 今のように学習塾に依存した形で教育が進んでいくと、家庭の経済力によって学歴に差が出る形にならざるを得ないので、「機会の平等」を促進するためにも、学校教育の建て直しは必須です。

そのために必要なことは以下のことでしょう。

採用試験の透明性の確保(採点基準・結果の公表の義務化)
採用・昇進その他人事についての不正の内部告発窓口の設置の義務化
学区制の完全撤廃
学校評価制(学識者など第3者機関、保護者・生徒双方からの評価が必要)
教員免許更新制の厳格化
教員人事評価の厳格化
私立についても補助金支給要件の厳格化

いずれもよく言われていることですが、今は一度リスクを取って学校および教育委員会といったところから、膿を出さなければならない時期であり、学校共同体に依存する古いマインドの人間を追い出し、学校を変えようという意欲のある大多数の教師たちにチャンスを与えるべき時だと思います。

 そして「実力のある先生は、最初に採用された学校にずっといるのではなく、他の学校にいつでも移籍できる」ことが可能な制度設計が求められています。

 もちろんリスクはありますが、それを上回る大きな成果を子供たちに与え、教員自身が学校共同体に自尊心のゲタを預けず、自分の生徒との信頼関係構築能力・指導スキルへの内発的な自尊心を持つ生き方ができるようになるでしょう。