大卒価値の低下について②
3.大学の「教養人育成機能」と「エリート選抜機能」
もともと、大学は中世のヨーロッパで本格化し、自然科学・社会科学における様々な発見や発明を社会にもたらし、近代文明・文化の発展の原動力となりました。
中学や高校と大学の違いは、中学・高校は国家が教育内容を「教科書」という形で標準的な枠の中で定めていくのに対して、大学は学問内容が自由であり、先人たちの発見してきた研究成果を土台にしつつも、それを乗り越える形で、新しい発見を目指すところに特色があるので、中学・高校が「教育機関」であるのに対して、大学は「研究機関」であるところに本質があります。
その「研究機関」としての大学に、近代国家成立以後、「エリート選抜機能」が与えられました。
近代国家では、国家における官僚(国家エリート)、民間企業における幹部社員(民間エリート)の選抜において、名門大学(イギリスならオックスフォードやケンブリッジ、アメリカならハーバードなど)出身者が優先的に採用されるようになりました。
大学で、最先端の学問にふれ、高い知性・教養を持っていることが、国家エリートや、民間エリートの選抜においても、重要なポイントになったのです。
大学が本来持っていた「教養人育成機能」から、「エリート選抜機能」が生まれたといえましょう。
明治維新で近代化をめざした日本においても、ヨーロッパ式の大学の制度が導入され、東京帝国大学を中心とした名門大学が、国家エリート・民間エリートの供給源になりました。
今でも、世界中で、「名門大学」はエリート選抜機能を果たしており、「学歴によって就職が有利になること」は日本だけのものではありません。
しかし、日本の学歴主義に特有の点として、
① 大学の「エリート選抜機能」が過度に注目され、「教養人養成機能」にほとんど重きが置かれないこと、
② 名門大学卒がエリートとして優遇される根拠が、「大学で知性・教養を磨いたから」ではなく、「名門大学の入試に合格したから」という点に置かれていること、
があげられます。
特に②の事実は、「日本の大学は入るのは難しく、出るのは簡単だから、どれだけ難しい入試を突破したかを人物評価の基準にせざるを得ない」からだと説明されますが、事実はどうなのでしょうか?
私は「日本の大学の方が入るのが難しい」とはいえないと考えます。
海外でも名門大学の入試を突破するのは非常に難しく、「海外の名門大学の方が、日本の名門大学より入試は楽」といは必ずしもいえません。
しかし、「日本の大学の方が、海外の大学より入学してからが楽で、簡単に卒業できる」という評価については、正しいと思います。
ですから、「名門大学に入学するのは、日本でも海外でも難しいが、入学後卒業するのは海外の名門大学の方が難しいから、日本の大学生の評価はいかに難しい入試を突破したかに求めざるを得ない」というのが正確でしょう。
問題は、なぜ日本の大学が「卒業するのが楽」か?ということです。
私は今の日本人が、大学の「エリート選抜機能」ばかりに目を向け、「教養人養成機能」に目を向けないことが最大の原因だと考えます。
フランスでも、ドイツでも、有名大卒は「高い知性と教養を持っている(であろう)から」一目置かれるのであり、「難しい入試を突破したこと」ということだけで評価されることはありません。
そもそも社会の中において「知性と教養」がどれだけ重視されているか?が、日本社会と他の先進国の社会では違うのだと思います。
欧米先進国においても、中国・韓国などアジア諸国においても、今の日本ほど教養に価値が置かれない国はありません。
「教養」とは、どこの国でも、官僚や、経営者や、医師や、教師といった、いわゆる「エリート層」が共通して持っていなければならない常識のことを指します。
例えば、フランス革命について、「何が起こったか?」なら日本の有名大学の卒業生でも答えられるかもしれないですが、「人類にとってどんな意義があったか?」について語ることができる者はごくわずかでしょう。
百歩譲って、自国の大きな転換点である、「第二次世界大戦の敗北」について聞いても、「何が起こったか?」を言えるだけで、「どんな意義があったか?」を語れないのが日本の大学生です。
これを「歴史を知っていても、歴史観を持っていない」状態と言います。
両方の問いにおいても、何か正解があるわけではありませんが、個人個人が歴史について考え、自分なりの意見を持つのが世界中のエリートの当たり前の姿です。
こうした「歴史観」以外にも、「言語能力」「論理的思考力」「哲学」といった、専門的知識以前の基礎的な教養を重視するのが、海外の名門大学の伝統です。
とりわけ、オックスフォードなどヨーロッパの大学は教養課程を、非常に重視します。
例えば、経営の最先端の理論を学びたいという学生がいるとしても、いきなりそこから教えることはまずしません。
文系なら教養課程で、歴史・哲学・心理学その他人文科学の基礎教養を学び、「人間について」「社会について」幅広く考えることなくして、いきなり経営理論を学んでも、土台のないところにいきなり家を建てるようなものだとします。
理系でも教養課程で、数学や物理学など基礎理論をしっかりと学んでから、応用・専門分野に入っていく伝統があります。
日本においては、大学内で「自分の専門分野のことにしか興味が無く、他の学問をやっている人とは話もしない」という、「知のオタク」的な学者が増えてしまい、「学問のタコツボ化、島宇宙化」が進んでいることが問題になっています。
国家エリートでも、民間エリートでも、学者の世界でも、基礎教養を持つエリート層が減ってきているのが、日本の現状です。(そもそも、そのような人たちをエリートと呼べるかどうかわかりませんが・・・)
また、社会全体が、「知性がある人」よりも、「人柄の良い人」や、「周囲の人に気が使える人」を好むムラ社会的な風潮が強いため、知性がある人が、それを全面的に表に出してしまうと、嫉妬の対象になってしまう状況があります。
そのため、「知性を磨こう」ということが、動機付けになりにくい風土が日本社会にはあります。
4.大学再生への提言
欧米含め、他の先進国では、社会における知性や教養の位置づけが高いため、大学には「教養人養成機能」をまず求めます。
その「教養人」の裏づけがあるからこそ、名門大卒生を「エリート」として認めるのです。
そのために、大学が学生を卒業させるということは、「知性・教養があると大学がお墨付きを与える」ことに他なりません。
本など全く読まず、気になるのは自分の身の回りのことだけで、社会に関心を持たず、知性・教養を磨かないバカ学生を簡単に卒業させてしまえば、その大学の社会的評価が下がるだけなので、単位を簡単に与えなかったり、死ぬほどレポート漬けにしたりするのです。
そして、「知性と教養を高め、その土台をもとに専門的に学ぶ」というプロセスの中で、将来の職業についての志を高める機能が、まともな国の大学にはあります。
教養課程で、幅広く教養を積み、専門課程で自分の専門の学問(例えば法律や経済や建築学など)の視点から社会全体にどう貢献できるかを考え、他の学生や教授と議論していく中で、個々の人間の中に志が生まれていくこと、これが知性・教養を高めることの最大の効果だと思います。
日本の大学は、小子化により、人気が落ちて、入学するのが簡単になり、今までのような「大卒=難しい入試を突破したエリート」という評価を得られないようになったのだから、単位認定・卒業を厳しくして、学生に知性と教養を磨かせるべきだと私は思います。
難関大学も、昔よりは入試が楽になっており、人気に甘えて改革を怠り、バカ学生が増えている大学も多いので同様の動きが必要です。
しかしながら、「単位認定・卒業を厳しくする」ことに対して、「人気の低迷している大学」「自分の授業スキルに自信がなく、研究だけに没頭したい教授」ほど反対し、抵抗します。
大学としては、単位認定・卒業を厳しくすれば、目先のことだけ考えれば、大学入試における人気は一時的に落ちます。
リスクを恐れる大学側としては、そんな抜本的な改革をするより、AOや推薦の枠を増やして、なんとか補助金を打ち切られないだけの生徒数を確保して、その場をしのぐことに逃げています。
そして、大学教授の側でも、基本的に自分の研究と、大学内での出世にしか興味のない人間が多く、特に「自分の授業スキルに自信がなく、つまらない授業しかできない教授ほど、単位認定を厳しくして自分の授業を受講する学生が減ることを恐れ、単位認定を甘くしがち」ということは、大学に通ったことのある人なら誰もが体験したことではないでしょうか?
しかし、今の大学の現状を放置すれば、バカ学生を大量に社会に送り出して、結局大学の社会的信用は落ち続けるだけとなり、ごく一部の難関大学だけが、相変わらず「難しい入試を突破しただけのエリート」を生み出し続けるのでしょう。
その「難しい入試を突破しただけのエリート」では、国際競争で、欧米はもちろん、中国やその他新興国の「知性と教養ある真のエリート」に太刀打ちできないことは言うまでもありません。
国主導で、大学改革を進める覚悟が必要です。その中で、改革に失敗する大学が多数淘汰され、教育マインドの無い教授たちが多数職を失うことになるでしょう。
しかし、そうした血を流してでも、「教養人育成機能」をベースにした「エリート育成機能」をつけることしか、日本の大学の再生の道はありません。